野田の日記(2006ー2011はじめのほう)、(2012-2020あとのほう) (野田クリスタル ワニブックス2021年刊)
私は50歳を過ぎている。若い人のことがよく分からないと常々思ってきた。若い人との付き合いもないので当たり前の単なる事実である。それはそうなのだけど、若い人の間には新しい文化なり何かなりがあるだろうから、それを知らないのは少し損をしている気がする。それだけ取り残されている可能性も感じる。でも、それは仕方ないとも思っている。ただ、何となくは気になる。若い人との付き合いはなくても、たまに話すことくらいはなくはない。でも、それは相手はこちらに合わせている割合が多いだろうから、結局のところ若い人の感じはベールに包まれている。
図書館に行くとリサイクル図書コーナーがある。そこに置いてある本で売れそうなものは貰って帰る。この2冊はそんな本である。帯もあるし、まるで新本みたいな様相だったからだ。内容に興味などはない。ない。ないけど、少し読んでみた。笑った。でも、少ししか読んでない。それほど暇ではないからだ。いや、暇だけど、脇に図書館から借りた本がわんさかある。でも、もう少し読んだ。笑った。袋につめて出品した。そして、またそれを引っ張り出してきて、今、手元にある。
なので、全体の5分の1も読んでいない。しかし、私には若い人の感じが充分に伝わってくる感じがした。日記だし、それに笑いには自己批評的な要素があるからだ。郵便局でのバイトの話、お笑い仲間の話、とくに、家族の感じに発見があった。
「家に帰ると、父親に『お父さん定年退職したから、お前の部屋頂戴』と言われ、母に『男なら一度を家を出るべき』という謎の格言で家を追い出される形になった。できれば一生実家でのんびり暮らそうとしていた僕にとっては、この一人暮らしは憂鬱で仕方がない」
野田さん25歳の時の日記である。この場合、家を出るということにおいて、子どもには合理的な理由がないが親にはある。夫婦は事前に話し合って、言うことを決めていただろう。部屋がたりないというのが理由なのか、息子がこの先ニートや実家でひきこもりになることを懸念したのか、よくは分からない。たぶん両方なのだろう。
「初めての一人暮らしに多少の興奮と期待に胸を膨らませてもいる。まず一人暮らしをしたら37インチに何を気にすることもなくAVを流してみたい」
これは理解できる。一人である自由や必要は、性的自由や必要の形でやってくる。これは古くから同じことだろう。同時に、私は若い人たちが、自分の脳をネットやゲームなどの依存的なものからどうやって守っているのか、その知恵や工夫を知りたい。それはそうと、一人暮らし=自立という図式は、若者にはかなり希薄になっているのかもと思った。親の世代(どっちかというとぼくに近い世代)の言葉は、息子にとって謎の格言でしかない。親の権力もジェンダー規範も変化しており、それは親も分かっているので、半ば冗談みたいな本気みたいな言い方しかできなかっただろうと思う。こういう変化がもたらす関係や認識の平明さは、この本の中に漂っていて悪い感じがしない。
<はじめのほう>のあとがきは両親が書いている。内容は特にどうってことはないが、あとがきを両親が書くということが親子の葛藤のなさを一層に強く感じさせる。友達親子という言葉があったが、それは身近にいる他人というフラットな関係であって執着がないということなのかもしれない。やはり、それは新しい感じがした。
父親(オヤジ)の後書きで、「本人達がやっていますコントや漫才はこれまでもあまり面白いと思ったことはあまりありませんが、この『野田の日記』は以前からの隠れファンでして」とある。たぶん、私も同じ感想になるだろうから、彼らの漫才については見る気はない。
あと、少し心配になったから書いておくが、今まで引用した箇所は笑えたところを抜き出したわけでは全くない。
以下、面白かったところを書いておこう。
と思ったら、売れた(2冊で1300円)。
けっこう人気のようだ。
残念ながら、もう発送しないといけない。
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by isourou2
| 2022-06-02 22:59
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もうレシピ本はいらない(稲垣えみ子 マガジンハウス)
料理本はいろいろありますが、料理本の肝は文章です。写真じゃなくて。
この本にも真ん中あたりに固まって写真があるけど余計な感じがする。おしゃれなレシピ本になりかかっている。
稲垣さんの文章はサービス精神がある。あくどさがなく、風通しがいい。ハウトゥー本というのは何かを教えるものなので、上からの視点になりやすいというか、そういうものである。しかし、自分の気持ちや感動を前面にだして、読者に対しては愛情のあるポジティブなメッセージを送れば、そういうことは目立たなくなる。社会適応能力が高く、自己認識能力のある嫌われない文章である。こういう文章が書く人が増えてきた。とても感心してしまうのだけど、それだけ社会が息苦しくなっているということだろう。
しかし、具体的な内容にはそれほど新味はありません。こういう主旨の本にはいろいろと先達がいるわけで。ただ、稲垣さん、大企業に勤めていたのでグルメな生活をしていたらしく、それが、ごはんに糠味噌づけに味噌汁が一番という食生活になるまでの落差というか経緯のもつ含蓄が他とは少し違う。もう20年近く電気がない暮らしをしていてカセットコンロしか使っていないので鍋でご飯をたくのは当たり前の自分のような者から、ロハスな人まで何らか参考になったり共感できることが書いてある。文章がうまいので、いままで面倒でやらなかったことの背中を押してくれる。ちょうどザルを拾ったので、干し野菜はやってみた。スーパーでヌカとヌカの栄養材を15分くらい睨んで考えたが、これはやっぱりやめた。残念ながらヌカづけを心からおいしいと思ったことはなかったから。そして、稲垣さんおすすめであるstaubの鍋をヤフオクで思わず買ってしまった。安かったのだけど、やはり5千円以上はする。恥ずかしくて正確な値段を人にいえない。しかも、その後で、拾ったか貰ったかした無水鍋がすでにあったことが発覚した。ドイツのフィスラーという会社の立派な鍋である。道理で弱火にするとおいしく出来ると思った。staubは重いし使いきれるか不安である。読み返したらダッチオーブンとstaub鍋を勘違いしていたし。うーん、結局、購買意欲がそそられて物が増えてしまった。これじゃ、この本の主旨と違っている。
そして、本としての最大の問題は、レシピ本以上に買う必要がないことである。
この本にも真ん中あたりに固まって写真があるけど余計な感じがする。おしゃれなレシピ本になりかかっている。
稲垣さんの文章はサービス精神がある。あくどさがなく、風通しがいい。ハウトゥー本というのは何かを教えるものなので、上からの視点になりやすいというか、そういうものである。しかし、自分の気持ちや感動を前面にだして、読者に対しては愛情のあるポジティブなメッセージを送れば、そういうことは目立たなくなる。社会適応能力が高く、自己認識能力のある嫌われない文章である。こういう文章が書く人が増えてきた。とても感心してしまうのだけど、それだけ社会が息苦しくなっているということだろう。
しかし、具体的な内容にはそれほど新味はありません。こういう主旨の本にはいろいろと先達がいるわけで。ただ、稲垣さん、大企業に勤めていたのでグルメな生活をしていたらしく、それが、ごはんに糠味噌づけに味噌汁が一番という食生活になるまでの落差というか経緯のもつ含蓄が他とは少し違う。もう20年近く電気がない暮らしをしていてカセットコンロしか使っていないので鍋でご飯をたくのは当たり前の自分のような者から、ロハスな人まで何らか参考になったり共感できることが書いてある。文章がうまいので、いままで面倒でやらなかったことの背中を押してくれる。ちょうどザルを拾ったので、干し野菜はやってみた。スーパーでヌカとヌカの栄養材を15分くらい睨んで考えたが、これはやっぱりやめた。残念ながらヌカづけを心からおいしいと思ったことはなかったから。そして、稲垣さんおすすめであるstaubの鍋をヤフオクで思わず買ってしまった。安かったのだけど、やはり5千円以上はする。恥ずかしくて正確な値段を人にいえない。しかも、その後で、拾ったか貰ったかした無水鍋がすでにあったことが発覚した。ドイツのフィスラーという会社の立派な鍋である。道理で弱火にするとおいしく出来ると思った。staubは重いし使いきれるか不安である。読み返したらダッチオーブンとstaub鍋を勘違いしていたし。うーん、結局、購買意欲がそそられて物が増えてしまった。これじゃ、この本の主旨と違っている。
そして、本としての最大の問題は、レシピ本以上に買う必要がないことである。
※結局、staubはメルカリで売った。少し儲かった。
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by isourou2
| 2021-03-16 01:24
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女と刀(中村きい子 思想の科学社)
1964年から65年にかけて、雑誌「思想の科学」に連載された小説である。時は、東京五輪に浮かれていた頃。鋭利に突き刺さるものがあったはずである。
士族の娘である主人公(キヲ)の理念に徹した人生を描いた物語であるが、そのことを通して、様々な人間の生き様というものを浮かび上がらせている。
まずは、この小説から導かれての理念そのものについて感想が2つ。1つは、理念は純化するということ、もう1つは、それゆえに理念が体現されたモノはその理念によって内側から食い破られる場合があること。
原理主義、復興運動というものが理念に付き物なのはそのためである。理念は、抽象化やシンボル化された言葉で表されるため、本人の手を離れれば、その具体的な状況や含意が見えにくくなり純化されるのである。
この主人公が持つ理念とは、西南戦争で西郷軍に参加した父の教えを受け継いだものである。
その内容は、己の意向はどこまでも貫け、だれにも負けるな、他者の意向が異なる場合は最終的には相手を切り捨てよ、相手もまたそのように考える時に「対話」が生まれる、というものである。
父親の教えは、身分制度の中で武士の位を維持するため(暴力を正当化するため)のもの、家制度を守るためのものであったが、主人公である娘は、結局は家制度や世間と闘うものとしてそれらを結晶化していく。そして、70歳にして夫と離縁し、家(制度)からも離れて一人で暮らすことになる。また、その息子は、小学生で教師の差別に対してストライキをするというように、理念はさらに純化されていく。
その対極として描かれているのが、公務員(国鉄だろうか)勤めをしている夫の兵衛門である。キヲに離婚をつきつけられる時は「ひとふりの刀の重さにも値しない男」と決めつけられて肩をガックリ落としている男である。「所詮、この世は、なるようにしかならぬもの。きょうがあるからにはあすもあろう」というのが口癖。その上、戸主として男としての体面をつくろうことには熱心であり、適当に愛人をつくったりもする。中途半端で取り柄がない。読んでいる方としてもやりきれない。しかし、嫁に牛耳られている息子に兵衛門が勝手に家屋を相続してしまったため、息子によってキヲが家から追い出されるという決定的な口論の最中、その横で、うたたね、ゴロ寝のままで「わしなど息子の世話になって、これからは楽な世を過ごすことに決めたとじゃで」とうそぶいて再び寝ている兵衛門に至って、救い難さも極まったと同時に、それはそれで魅力が放たれているような気がした。様々の利得に居座わりながら、自分を安全な方、楽な方へと泳がせている兵衛門の生き方は、キヲと相補的な一対をなしている。70歳でキヲによって離縁されたとしても、50年は生活をともにしたわけである。兵衛門の理念なき理念というものは、消費社会における享楽的な受け身のあり方を先取りするものである。兵衛門は、寄りかかれる理念からは利得を引き出すが、その理念を信奉しているわけではない。キヲは「男としては兵衛門殿はあまりにもやさしすぎた」とも評している。理念がない以上、ぶつかりあうこと、傷つけあうことには意味がなく、なるべく避けたいという思いで生きてきたということだ。そのため、キヲが望むような対話は生まれようがないのだが、会話というのは対話よりもずっと幅がある。しかし、ちがう型の生き方の相克があるという意味において二人には深い対話があったというべきであり、お互い半身として必要もあったというべきだろう。
まぁ、こんな風に読むのは、ぼくが男性だからにちがいない。兵衛門をすくいあげたいのは、自分が救いあげられたいという気持ちだろう。
この決して上手とは言えないだろうけど力に満ちた小説が生み出されたのは、三島由紀夫が自決する5年前のことであった。
士族の娘である主人公(キヲ)の理念に徹した人生を描いた物語であるが、そのことを通して、様々な人間の生き様というものを浮かび上がらせている。
まずは、この小説から導かれての理念そのものについて感想が2つ。1つは、理念は純化するということ、もう1つは、それゆえに理念が体現されたモノはその理念によって内側から食い破られる場合があること。
原理主義、復興運動というものが理念に付き物なのはそのためである。理念は、抽象化やシンボル化された言葉で表されるため、本人の手を離れれば、その具体的な状況や含意が見えにくくなり純化されるのである。
この主人公が持つ理念とは、西南戦争で西郷軍に参加した父の教えを受け継いだものである。
その内容は、己の意向はどこまでも貫け、だれにも負けるな、他者の意向が異なる場合は最終的には相手を切り捨てよ、相手もまたそのように考える時に「対話」が生まれる、というものである。
父親の教えは、身分制度の中で武士の位を維持するため(暴力を正当化するため)のもの、家制度を守るためのものであったが、主人公である娘は、結局は家制度や世間と闘うものとしてそれらを結晶化していく。そして、70歳にして夫と離縁し、家(制度)からも離れて一人で暮らすことになる。また、その息子は、小学生で教師の差別に対してストライキをするというように、理念はさらに純化されていく。
その対極として描かれているのが、公務員(国鉄だろうか)勤めをしている夫の兵衛門である。キヲに離婚をつきつけられる時は「ひとふりの刀の重さにも値しない男」と決めつけられて肩をガックリ落としている男である。「所詮、この世は、なるようにしかならぬもの。きょうがあるからにはあすもあろう」というのが口癖。その上、戸主として男としての体面をつくろうことには熱心であり、適当に愛人をつくったりもする。中途半端で取り柄がない。読んでいる方としてもやりきれない。しかし、嫁に牛耳られている息子に兵衛門が勝手に家屋を相続してしまったため、息子によってキヲが家から追い出されるという決定的な口論の最中、その横で、うたたね、ゴロ寝のままで「わしなど息子の世話になって、これからは楽な世を過ごすことに決めたとじゃで」とうそぶいて再び寝ている兵衛門に至って、救い難さも極まったと同時に、それはそれで魅力が放たれているような気がした。様々の利得に居座わりながら、自分を安全な方、楽な方へと泳がせている兵衛門の生き方は、キヲと相補的な一対をなしている。70歳でキヲによって離縁されたとしても、50年は生活をともにしたわけである。兵衛門の理念なき理念というものは、消費社会における享楽的な受け身のあり方を先取りするものである。兵衛門は、寄りかかれる理念からは利得を引き出すが、その理念を信奉しているわけではない。キヲは「男としては兵衛門殿はあまりにもやさしすぎた」とも評している。理念がない以上、ぶつかりあうこと、傷つけあうことには意味がなく、なるべく避けたいという思いで生きてきたということだ。そのため、キヲが望むような対話は生まれようがないのだが、会話というのは対話よりもずっと幅がある。しかし、ちがう型の生き方の相克があるという意味において二人には深い対話があったというべきであり、お互い半身として必要もあったというべきだろう。
まぁ、こんな風に読むのは、ぼくが男性だからにちがいない。兵衛門をすくいあげたいのは、自分が救いあげられたいという気持ちだろう。
この決して上手とは言えないだろうけど力に満ちた小説が生み出されたのは、三島由紀夫が自決する5年前のことであった。
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by isourou2
| 2021-03-16 01:21
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文盲ーアゴタ・クリストフ自伝(堀茂樹訳 白水社)
作家のアゴタ・クリストフの自伝である。この自伝の特徴はその薄さによる。厚い本を読むことについてあこがれはあるし、厚い本というのはそれだけでオブジェクトとしての魅力があるのだけど、結局そんな時間はないのである。自伝として最小なのはもしかして名前なのかもしれず、そんなに極端なことを言わなくてもプロフィールというのもある。この本の後ろ扉にもやはり著者のプロフィールは掲載されている。
アゴタ・クリストフ
1935年オーストリアの国境に近い、ハンガリーの村にうまれる。1956年ハンガリー動乱の折、乳飲み子を抱いて犬と共に祖国を脱出。難民としてスイスに亡命する。スイスのヌーシャテル州(フランス語圏)に定住し、時計工場で働きながら、フランス語を習得する。自ら持ち込んだ原稿がパリの大手出版社スイユで歓迎され、1986年「悪童日記」でデビュー。(以下略)
これだけの短さの中に端的な事実が書かれてあるわけだが、一方で、これ比べたらかなり長い(薄いといっても読むのに数時間はやはりかかるだろう)本文に触れられていないことがある。まずは、年号である。また、オーストリアの国境に近い、とか、ハンガリー動乱、固有の状況を表す言葉の一部である。これらは、この作家の方法意識を示している。なので、特段の驚きはない。それよりも、アレと思ったのは「犬と共に祖国を脱出」のところである。犬?
本文に乳飲み子を抱いて祖国を脱出した話はわりと詳細に描かれているが、犬は出てこない。
「わたしの小さな娘は父親の腕の中で眠っていて、わたしは鞄を二つ抱えている。鞄の一つには、哺乳びん、おむつ、赤ん坊の服の着替えが入っていて、もう一つには数冊の辞書が入っている」
人生を原稿用紙半分ほどでまとめたプロフィールに記載されている「犬」が自伝には一言も登場しない。なぜか。
それは「犬」が、はじめから文盲だからだろう。この自伝は、作家になった作者が、その要因を過去に求め、その経緯によって構成されている。そのことに関係ないことについては、大胆に省いている。そのため、この本は薄さを立派に確保しているのである。
しかし、ハンガリーから深い森を踏渉して亡命した犬はどうなったのか?
小説も読んでみようと思う。
アゴタ・クリストフ
1935年オーストリアの国境に近い、ハンガリーの村にうまれる。1956年ハンガリー動乱の折、乳飲み子を抱いて犬と共に祖国を脱出。難民としてスイスに亡命する。スイスのヌーシャテル州(フランス語圏)に定住し、時計工場で働きながら、フランス語を習得する。自ら持ち込んだ原稿がパリの大手出版社スイユで歓迎され、1986年「悪童日記」でデビュー。(以下略)
これだけの短さの中に端的な事実が書かれてあるわけだが、一方で、これ比べたらかなり長い(薄いといっても読むのに数時間はやはりかかるだろう)本文に触れられていないことがある。まずは、年号である。また、オーストリアの国境に近い、とか、ハンガリー動乱、固有の状況を表す言葉の一部である。これらは、この作家の方法意識を示している。なので、特段の驚きはない。それよりも、アレと思ったのは「犬と共に祖国を脱出」のところである。犬?
本文に乳飲み子を抱いて祖国を脱出した話はわりと詳細に描かれているが、犬は出てこない。
「わたしの小さな娘は父親の腕の中で眠っていて、わたしは鞄を二つ抱えている。鞄の一つには、哺乳びん、おむつ、赤ん坊の服の着替えが入っていて、もう一つには数冊の辞書が入っている」
人生を原稿用紙半分ほどでまとめたプロフィールに記載されている「犬」が自伝には一言も登場しない。なぜか。
それは「犬」が、はじめから文盲だからだろう。この自伝は、作家になった作者が、その要因を過去に求め、その経緯によって構成されている。そのことに関係ないことについては、大胆に省いている。そのため、この本は薄さを立派に確保しているのである。
しかし、ハンガリーから深い森を踏渉して亡命した犬はどうなったのか?
小説も読んでみようと思う。
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by isourou2
| 2020-11-27 23:46
| テキスト
境界性パーソナリティ障害~疾患の全体像と精神療法の基礎知識(小羽俊士みすず書房2009)
専門書である。でも、相当に読みやすい。著者が「精神療法について実践的な考え方を議論することを目的」に「治療で関係ないところでの理屈をこねるのは最小限にした」ためだろう。たしか5年前くらいに読んだから再読である。言うまでもないが、こちらは素人だから、この障害において、薬は補助的なもので、治療の中心に問診を置いているということからして知らなかった。そして、そもそも精神療法は(すべてかどうか知らないが)、治療者と患者の関係の中に病状を再演する形で移し替えることによって行うことも知らなかった。これは、患者との関係において、治療者が病気の一方の当事者になるようなものである。通常の医者のあり方とは全然ちがう。なので、ある意味、通常の医者以上に医者としての枠組み、診療という時空を区切る等、が必要だろう。単に話を聞いて助言をしているだけなのかと思ったら、このような大変な作業をしているわけである。そのため、具体的な臨床例をあげて、それをどのように解釈していくかという読み解き方が大変に面白い。顕示的に示されている話がもつ象徴的な意味、それを治療者と患者の関係を示しているものとして読み解く。分かりやすく例示しているにしてもスリリングですらある。話だけではなく態度(行動)もあわせて、つまりは、メタメッセージの解釈を行う。そして、その解釈を患者に伝えていくことで患者が自覚していない部分の統合を促す作業が治療の中心になっている。解釈を伝えるべきなタイミング(介入)も具体的に書かれてある。
この本の中で一番よく出てくる概念である〈投影同一化〉も大変参考になる。これは、相手に自分を見るという単なる〈投影〉ではなく、自分の中の抱えきれない嫌な思いを相手に引き起こし(押し込み)、その嫌なものを取り入れざるえない相手の感情を支配することで、自分の気持ちをコントロールする、という心的な動きである。ある程度親密な相手から自分の中に嫌な気分がもたらされている時、投影同一化されていると考えていいのではないだろうか。そして、それは、自分が相手に投影同一化をしている結果、そのような連鎖であることが多いと思う。治療的には、「投影同一化されてきている未知なものをとりあえず受け入れておき、理解が生じてくるのを待つ」「自分(患者)にとっては受け入れられない、抱えきれないものであったその嫌な感情も、相手によって受け入れられ、抱えられ、理解され弱毒化された状態になるのを見て、患者は再びその嫌なものを自分に受け入れ、抱え、理解するようになる。こうしたことを繰り返す中で、受け入れ、抱え、理解する能力という心の機能が患者の中に取り入れ同一化されていくことになる、と考えるのである」。実生活では、なかなか、このようにはいかないのではあろうが、こういうことを知っているのが有益なのは間違いない。この本で書かれていることは、診療の場という限られた時空において有効な考えや技法であるが、その診療の場では、治療者と患者は、日常の時空と同じように、当事者として疾患に取り組んでいるわけで、そこでの知識が日常にも有効性があるのは当然のことである。つまり、この本が専門家ではないぼくが読んでも面白いのは、日常において生かせるような認識がたくさん書かれてあるからである。同じ著者で、一般向けの本も出ているが、たぶん、それよりも専門家でなくても、この本の方が得るものが多いような予感がする。
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by isourou2
| 2019-01-31 16:30
| テキスト