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自由への問い 公共性 (自由が/自由を可能にする秩序)坂口正二郎編集

本はたくさん図書館で借りるが、全部読むことはほとんどない。なんだか、本を家と図書館の間で行ったり来たり運搬している人みたいである。重い本だと特にそう。この本は、重くはない。でも、やっぱり全部読んでない。

自由「濫用」の許容性について(毛利透)という章について。

ここ数年、社会運動というものに関わるようになって、運動歴の長い人からたまに聞く言葉に「自由の敵に自由を許すな」というのがある。ある符号のように、ここぞという時にささやかれる。そうすると、分かる人には分かるという雰囲気が、ちらちら、とする。
ぼくには、その共通理解がないので、なんだかなぁ、、、という、気分になる。今一、よく分からない言葉だな、という消化不良気分。自由の敵にも、自由を許した方がいいのでは、、?とも思うし、いつ自分や自分たちがそのように言われて、自由を奪われるか分からない、、、という危惧はないのかな、と疑問だ。自由の敵、というものに、何らかの基準があるのだろうか、、、アメリカだって、自由の敵、といいつつ、あちこちに爆弾を落としているわけで。まぁ、端的にいえば、自由を許すな、と言ったら、そのこと自体が自由の敵にもなる、という矛盾をどう考えるのか、、、おそらくは何らか考えや背景があるのだろうが、奇妙な前提感の壁みたいのがあり、問いにならなかった。

それが、この章で氷解した。
この言葉は、戦後(西)ドイツの憲法にあたる基本法から来ていたのである。いわゆる「たたかう民主主義」。と、冒頭にあり、うーん、たしかに、これは運動している中では、常識であってもおかしくない、と膝を打った。
「意見表明の自由などの諸基本権を~自由で民主的な基本秩序に敵対するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する。」
これは、戦前のワイマール共和国が、自由な民主制という理想にこだわったが故に、合法的にナチスの台頭を許してしまったという反省から、憲法の基礎への攻撃の自由は許さない、という方針が自ずから出来上がった、、、というのが通説になっている。おそらく、ぼくの知人たちの言説も、そのことを前提にしているのだろうと予想がつく。
しかし!、この論文では、この前提を様々に覆していく。そして、それは、ぼくが(おそらくは、多くの人が)漠然と感じる疑問、に近接していくなかなかにスリリングなものだ。
 まず、戦後にこの法律が適用されたのは、ドイツ共産党である。(このことから、連想されるのは、皮肉なことに、日本の破壊活動防止法案である。)
・実際は、ワイマール共和国は、内乱罪や共和国擁護法などによって、反共和国的行動や団体に対して強い規制をかけていた。その内実は、戦後の基本法よりも強権的だった。
・それらの規制は、右に甘く左に厳しいものだった。(共産党は、「殺人者団体」「国家敵対性結社」とされて活動を制約されたが、ナチスはいずれでもなかった。)
・政権入りしたナチスは、自らを批判するプレスに対して、共和的国家形態侮辱罪を適用した。
懸念されることは、まさに現実に起こっていたといってもいいようだ。
著者は「憲法擁護のための諸法の存在が、共和国崩壊に積極的役割を果たしたということはなかったのだろうか。」と疑問を呈し、この諸法が、左翼間の政治的連携を阻害したこと、ナチスに逆用されたこと、言論の自由を保証しないことでの信用の失墜、などをあげている。
一方、戦後は「自由の濫用」を禁じた法律にも関わらず、実際にはほとんど活用されず、しかも近年になると、表現の自由を最大限認める「通常の立憲国家」になっているという。現在から基本法作成時を振り返ってみると「議会制や政党に対する、そしてより本質的にはそれらの背後にいる大衆に対する保守的な不信感があったといえる。」と鋭く指摘している。
そこで、著者の結論としては、以下のようになる。ワイマール共和国当時の状況は、継続的な準内線状態であり、言論が暴力によって裏打ちされていた。戦後の体制では、社会の武装解除が行われており、言論活動を警戒すべき必要がなかった。つまり、「実際に自由がどの程度保障されるかは、憲法において「たたかう民主制」が宣言されるか否かよりは、民主制を維持するためにどの程度暴力行使以前の活動を制約しなければならないかについての、そのときどきの社会状況に応じた判断によって決まってくるところが大きいということになろう。」。
しかしこの結論には少し疑問がある。
ワイマール共和国時代に、自由の制約を行わなかったら、むしろナチスの暴虐を防げたかもしれないという途中の提起はどこへ行ってしまったのだろう。著者自らも「あまりにも状況依存的なものとしてしまい、理論の任務の放棄になってしまうのではないかという批判がありえよう。」と書いているのだが。
国家による暴力の独占が、相対的に、言論や表現の自由を保証する、という話しにもなりそうで、そうなのかもしれないが、そこも少し留保したい。
また、それだけ、ワイマール時代に「憲法擁護」的な活動が行われたならば、なぜ、「体制の敵に対しても自由が与えられていた」と語られ戦後も言説が維持されたのかが、著者の説明だけではうまく納得できないところがある。それは、法的な規制、あるいは、法そのものが、社会に生きる人にとってどのように感じられているのか、ということにも左右されそうである。
結局、法律と社会(や生活)との関係はどういうものなのだろう、という根本的な疑問が残こされてしまった。
ともかく、よく知らないことだったが、よく知らないことについての目からウロコが落ちるような論文だった。
by isourou2 | 2011-02-27 23:59 | テキスト


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