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日本精神分析(柄谷行人 文芸春秋 2002)

柄谷氏が「資本制=ネーション=ステート」の3位一体として現代社会を解釈しはじめたのは、2000年くらいかららしい。それから、何回か図書館から借りたけど読んでない大著「世界史の構造」(2010年)まで、10年間、いわばこのアイデアをずーーと書いている。おそらく、話は精緻化し構想は広大になっているのかもしれないが、基本的には同じことを言い続けている。
これは、どういうわけか。
「思想家」の誕生。
それが特異なものであっても文芸批評家としてやってきた柄谷氏は、批評対象がまずあって、それによって思考を展開してきた。しかし、2000年にいたって、柄谷氏は、批評対象の反射として変化する批評ではなく、自己の思想を定立しそのことを実践し追求する立場へとシフトチェンジした。
この「資本制=ネーション=ステート」というアイデアがどこから生まれたのか、何かの影響という風にも言っていない(と思う)以上、今までの思考を熟成したあげく天から降ってきたオリジナルなものということになるのだろう。ポストモダンな思潮を通り過ぎてきた以上オリジナルを標榜することはないだろうが、しかし、やはりこの思考に取り憑かれたのは、そのオリジナル性であり、また不謬性ゆえでしょう。
つまりは、「資本制=ネーション=ステート」を出せば、ハハーと伏す、印籠になっているわけです。
そして、この「日本精神分析」です。
ぼくは、柄谷氏のことをなんとなく気にしているという程度の人文書の読み方なのですが、それにしてもこんな本があるのは、知りませんでした。それは、たぶん、この本の奇妙な立ち位置にも拠っている気がします。
あとがきに
「つまり、本書はいつのまにか、芥川龍之介、菊池寛、谷崎潤一郎という大正作家についての文芸評論となった。私は文芸評論をやめたと考え、また、人にもそう言っていたので、これはわれながら意外であった。私は根っからの批評家なのか、と思った次第である。」
ここでの各作家の作品の取り扱いは、柄谷氏の問題意識にかなり強引に引き寄せたものになっています。菊池寛に至っては「今日話すことは、別に文学論ではないし、菊池寛論でもありません。話の成り行きから、それにふれないわけにはいかないという理由で、話すだけです。」という扱いです。しかし、それは熟練たる批評家としての余力も感じさせる、面白いものです。つまり、この本は、批評家と思想家の間で揺れる柄谷氏を看取できるわけです。
そして、根っからの批評家なのか、という慨嘆は、思想家になることの不安を暗に現してもいるような気がします。
ただ、批評から、つまり対象である文芸から、離れられないのは、単に長年の習慣という理由だけではないでしょう。それが、思想というものに付きまとう欠落を補填する相補的なものだからです。
文芸というものは、批評にも(1つの視点)にも還元できないし思想でもない、それらとの緊張関係にあります。
人間の感情の動きを捉えようとする文芸は、システムへの還元に対する緊張関係にあり、また、最終的にはシステムへの復讐を含むものです。
柄谷氏は
「私は、権力を志向する人間性は変わらないと思います。しかし、同時に、人間性がまったく変わらない、とも考えません。「人間性」は、菊池寛がそう考えたように、ちょっとしたシステムを変えるだけでかなり変わってしまうのです。」
と語っています。菊池寛がそう考えたかどうかはわかりませんが、、。システムがもたらす定型的な人間性の相関を描くのが文芸ならば、また、そこから踏み外す予測できない人間を描くのも文芸です。そして、柄谷氏が批評家であるのは、柄谷氏の意図とは異なるかもしれませんが、文芸の後者の側面と触れあう必要があるためでしょう。それは、批評の表には出てこないことなのかもしれませんが。
柄谷氏の文芸に対する評価の高さにはそういう機微があるような気がします。
柄谷氏は、日本文化の無原理性、包容性などについて「私は、社会科学、思想史、心理学などの本をたくさん読んできましたが、芥川の短編小説以上に洞察力をもったものに出会いませんでした。」と書いています。
これは、ものすごい高い評価ではないでしょうか。その小説は「神神の微笑」というものです。あんまりよく出来た小説でもないような気もしたのですが、、、。
話しは、逸れますが、でも、この明治・大正・昭和(高度成長くらいまで)の文学者は偉かったのではないか、、という気もこの本を読んでしてきました。古本屋で、チラと立ち読みしたのですが、金子光晴の「日本人の悲劇」という本があって、これは古代から現在に至るまでの日本の歴史を扱った本みたいだった。とにかく、自分なりに歴史を語るくらいの勉強は、なんとなく色と酒みたいな印象である金子光晴だってやっている。いや、たぶん、金子光晴の醒めた厭戦思想は、アジアからヨーロッパまで歩いた見聞と深い歴史認識がもたらしたものだったのかもしれないから、偉い人だったのかもしれず、でも、そのような人が結構いたような気がする。この本に出てくる坂口安吾にしても芥川にしても夏目漱石にしても然りだろう。
なんか今の文学者は、そういう感じでもないなぁ、と思う。これは、前回の鶴見俊輔に言わせれば、きっと「転向」の問題、あるいは転向を強いるほどの大きな社会変動の問題かもしれません。
話しを戻して、そういう批評家と思想家の振り幅の中から、「資本制=ネーション=ステート」の3位一体を武器に思想家として出立していった柄谷氏は、その思想の実践として、NAMという運動をはじめ、Qという市民通貨を発行を始めた。本も「生産協同組合」から出すようになり、活発に活動をしました。(ここは、「ニッポンの思想」(佐々木敦より))しかし、この運動は、メンバー間のトラブルなど複数の問題によって、2年半で潰れてしまう。この経緯については、今もって、明らかにされていないことが多いらしいです。ぼくも、きちんとした説明や総括を読んだことがありません。しかし、ぼくは、勝手に、これは文芸の復讐ではないか、と思っています。
つまり、このような世界全体の解釈をする思想(理論)は、その間隙から文芸的なものが侵入し、復讐するに至る。
ぼくは、柄谷氏は、文芸を対象をする批評へと戻ってくるか、小説を書くようになるかもしれないと思います。
by isourou2 | 2012-02-10 22:35 | テキスト


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