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母よ!殺すな(横塚晃一 生活書院 2007年)

この本は1975年に出された本を底本として復刊されたものだ。

ぼくの管見の中で、日本語の本であらゆる人が読んだ方がいいと思える本を3つ挙げよ、と言われたらこの本がその一冊である。

パンフレットなどに書いた文章が中心であって、この本のためには横塚氏はあとがきしか書いていないし、そのために内容も繰り返しが多く、雑多な印象を免れないが、それでも、あるいは、それだからこそ、いつまでも生命を失わない本なのかもしれない。いや、もちろん、そこで語られる思考の重要さが、要である。
今でも、なにも知らずにこの本を手にとった人の風景を一変させるだけの深みを持っている。

障害者の視点によって、健常者の作り上げている社会を腑分けしていく、その構想力の基本的な枠組みを示している、しかしそれだけでもない。それだけでもないのである。それだけならば、それは政治的な鋭利な思想であるが、時代とともに古くなるところもあるだろう、それだけでもない、民俗学や仏教思想からその思想はエキスを吸入している、しかしそれだけでもない、それだけならば、その依拠する思想はいかにも未完である、それだけでなく、その鋭利さは、自分たちや自分にも向かっている、それによって、そのパンチのある言葉の底には、いくつもの屈折や折り畳まれた思考が忍びこんでいる。横塚氏は、どこまでも思考を続けようとしている。卓越した政治指導者でありながら、同時に卓越した思想家であることは希有なことである。それが、42歳の若さによって切断された。実に残念なことだ。
青い芝、という脳性麻痺者の政治組織のもう一人の立役者である横田弘さんもまた、詩人、歌人である。脳性麻痺者の組織ということの陰に隠れて前景化しないのかもしれないが、思想家と芸術家がリーダーシップをとる政治組織という特質が、青い芝にあったことは忘れていけないような気がする。

横塚氏はいう
「CP者(脳性麻痺者)が全国組織をもつことも全国的闘争を展開するということも全て虚構の上になりたつのです。」
これはどういうことだろう。
この時、横塚氏は、全国的にその戦闘的な戦いで知られた、青い芝の会全国連合会会長であり、障害者組織の大同団結的集まりである全障連の代表である。私信とはいえ、それらが虚構の上に成り立つとは何を言っているのだろう。
介助者(健全者)と障害者の間で様々な問題が勃発し、障害者団体が(介助者)健全者団体を解散させる、というゴタゴタが起こっている時でもあった。(*このあたりの経緯については、山下幸子著「「健常」であることを見つめる」(生活書院)に詳しい)

どれも重要だから、青い芝の綱領を全部あげておく。
1、われらは自らがCP者であることを自覚する
1、われらは強烈な自己主張を行う。
1、われらは愛と正義を否定する。
1、われらは、健全者文明を否定する。
1、われらは問題解決の路を選ばない。

しかし、横塚氏は「本当は障害者の自己というのはない」という。「私達が自己あるいは私達の考え方だと思っているのは、実はあなた方健全者の考え方に縛られている。」
そのような健全者幻想と闘うことによって、障害者の自己はつくられていく。しかし、そのような障害者はほとんど存在しない。「多くの仲間は現代社会から切り捨てられてきたが故に、自分の意見を他人に伝える手段も自己主張することすらも奪われている。」。そして、さらに思考は反転する。「逆説的に言うならば、他人を説得する論理性も、生活習慣も、組織能力ももたないからこそCP者でありうるのだ」。

われらは強烈な自己主張を行う。
たしかに、青い芝は、数々の衝撃的な反常識的な主張と実践を繰り広げた。しかし、それはそれだけではない。
障害者には、自己がないという認識が裏打ちされていて、だからその意味では虚構であり、しかし、そのような自己主張を行うことにより自己を生育するという意味がある。
強烈な自己があるから、強烈な自己主張をするわけではない。そのような主張をすることによって、自己が生育するスペースをつくる、そういうことがそこでは起きている。
それは、虚実一体となったあり方であり、一歩間違うと自己欺瞞の奈落に落ちるようなことである。そこを横塚氏は冷静に見ている。全国組織も全国的闘争も同様な方法論である。

この本の中で一番ホっとさせられるページといえば、「妻沼行き」だろう。横塚氏が亡くなる2ヶ月前に、自らの生家に、同じく脳性麻痺である妻のるりゑさんとともに遊びに行った時のことを、りゑさんが介護ノートに記したものである。私生活をなげうって運動に没頭していた向きのある横塚氏にとって、なんとも楽しい思い出になった旅行であったようである。そして、本に掲載されている川と横塚氏の写真もまたリラックスした雰囲気を伝えてくる。
その説明には、
「帰り道、利根川の堤防を下り、水辺に車をとめ、夫は車椅子の後輪を川の水に浸して、しごく満足そうでした。夫は、生家にいる頃、ここらで弟とよく釣をしたのだそうです。」
とある。車椅子の後輪を川の水に浸して、しごく満足そう!!。ぼくは、ここを読んだとき、うまく言えないが、その表情とともに横塚氏がその虚構もユーモアも達観もこちらに投げているような気がして、深い印象を受けた。どうだろうか?。

補筆
この本は、以前たぶん感想を書いたので、2回目になると思う。まだまだいろいろな切り口で言えることも多い。
たとえば、この「母よ」というタイトルから本の内容の様々まで、フェミニズム的な視点の欠如として、批判的に解釈することが出来る。その線は、優性保護法の改定をめぐっての女性団体と青い芝の軋轢へと地続きのものだろう。
また、この本を流れる底流の大きな1つは、親鸞(浄土真宗)の教えである。青い芝の神奈川連合会の源流ともいえるマハラバ村という身障者のコミューンを開設した浄土真宗の坊主、大仏空氏の思想から受け継がれたもので、横塚氏自身「歎異抄」を心の拠り所にしていたそうだし、矢田龍司氏は端的に、「青い芝運動思想、行動横領は宗教的理論を基礎とした「悪人正機」の闘いである」と書いている。青い芝を親鸞の思想が持つ被差別民への多大な寄与の1つとして考えることもできそうだ。
また、ここで多少展開された柳田国男に依拠した民俗学的な障害者の歴史の推定は、おそらくは誰もその端緒を引き継いでいない。(少し思いつくのは、花田春兆氏の「日本の障害者ーその文化史的側面」、という本である。)
さらに重要だと思うのは、現在の障害者運動を含めた現在の状況との連関である。解説の立岩真也氏がいうように、「青い芝の会という組織がここ数十年に果たしてきた役割はかなり限定的なものだったと思う。その運動は全体の中の一つであり、その後の運動の実際の大きな部分を導いてきたのは青い芝の会ではなかった。」。障害者運動、社会福祉の運動の中で、青い芝は、必ずしも(特に80年代中頃以降は)主流ではなかったようだ。運動の主な主導権は、アメリカで発祥した自立生活運動の強い影響化にある人たちが担っていたのだと思う。それは、青い芝が半ば自壊するようであったのを状況に合わせて運動を再建したのだと言えるのかもしれない。ただ、青い芝の強い磁場は、日本の自立生活運動にも存在したし、人的にも重なっている部分もある。非常に簡単に言えば、労働の否定を言った青い芝に、労働への参加をうたった自立生活運動を接ぎ木したのが、現在の障害者運動のメインストリームだといえるかもしれない。その接合面には、矛盾もあり、それはある程度の論じられているようであるが、そこはぼくも気になる。そこを解明しながら、青い芝の思想を、現在の労働問題(非正規雇用やワーキンブプアなど)、貧困問題、ホームレス問題に直接接続できないものか、とそれが自分の大きな関心である。
しかし、いずれもまだ今のぼくの手には余る。
by isourou2 | 2012-03-13 12:34 | テキスト


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