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銃殺(ジョセフ・ロージー 1964)

これは、やりきれない映画。というか、やりきれないという方法論だ。そして、戦争というものを描くのに一番納得のいく方法論である。この映画には、派手なシーンやスペクタルな映像は出てこない。前線からいったん退いた営屯地を舞台に、そこから脱走し捕まり連れ戻された兵士の戦地裁判が主題。急こしらえの(あるいは接収したのか)営屯地の中での出来事に終始している。外は雨が降り続いて、兵士たちは泥さらいをしている。死の恐怖の中での徒労感に満ちた時間が兵士たちの日常のほとんどをしめるはずだから、これは秀逸な設定である。
脱走した兵士、その兵士の弁護人を務める大尉、兵士を告発する検察側を務めた大尉、裁判長になった大佐、それぞれの描き方も一面的ではなく陰影に富んでいる。大尉は、「傷ついた猟犬は殺した方がいい」と平然とうそぶき冷酷だと噂されているが、兵士の弁護人としては兵士は心身喪失状態だったと無罪を主張し、一人の男を正義によって裁けないようでは正義の戦争は行えない、というような熱弁をふるう。代理人の大佐は、兵士は単なる臆病者にすぎないと断じて死刑を求めるが、裁判後には「無罪になればいいね」と言う。裁判長は、司令部が減刑を行う可能性について確認する。しかし、翌日、営屯地から再び前線に向かうことが決定したあおりを受けて、兵士の士気を高めるために司令部は減刑を行わない。
スペクタルに頼らないということは、人物と状況を丁寧に描く選択をしたということでもある。
そして、それは、命令と義務、という軍隊のエッセンスと人間性の相克を軸に描かれている。命令と義務が支配する場では、その範囲内で人間の持つ気持ちや行動が発現する。しかし、そこから逸脱することは許されない。戦争というものが、他人を殺すという非人間的なものである以上、その命令と義務も不条理なものである。一方、裁判というのは、本来は権利が主張される場でもある。しかし、ここが戦場である以上、命令と義務によって権利は踏みつぶされる。大尉は、判決後に裁判長に、これは我々の負けだ、我々は人殺しだ、裁判は茶番だ、というようなことを言う。命令と義務の体系は維持され、それは自分の死か戦争の終結まで続くのである。
命令・義務と人間性の相克については、まだ多くの場面で多様に冷静に描かれている。それをいちいち挙げることはしないが、この映画の最後の場面に関連して、<戦争における「人殺し」の心理学>(デーヴ・グロスマン)を想起した。第二次世界大戦までの地上戦において、相手を狙撃できる状況でもほとんどの兵士は的を狙わなかったという指摘である。それが、ベトナム戦争では9割以上的を狙うようになったことについて書かれてある。(ただし、(全部読んでないが)これはたいしていい本ではない。内容は雑駁で繰り返しも多く、また視点もアメリカ軍人という限界があり全ては同意しがたい。)
命令と義務が専横する世界というのが戦場(軍隊)だけのことなのか、というのが現在的な問いとして残り、またこの監督が、きっとちがう作品でその陰影を冷静に描いているのではないかと期待させてくれた。
by isourou2 | 2015-07-08 18:00 | テキスト


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