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通じる英語・上達のコツ(平澤正夫)

発音記号を読めるようになれ!という新書版の本である。そして、これはけっこういい本のように感じた。まず、発音の本なのに、CDが付いていないという心意気が気に入った。ぼくのように、本メディア好きだとどうも、本にCDやましてやDVDが付いたりすると、気分が乗らない。あくまで、文字で音を表現するという難問に立ち向かう努力が著者の真摯さに思えてしまうのだ(勘違い)。
それはともかく、発音の本でこれですべてを網羅しているという完全なものはあるのだろうか。管見では見当たらない。そのため、結局複数の本から自分なりの発音を組み立てないといけない。
読解に中心を置いている(という古典的な英語学習方法の)自分だが、さすがにもう少し話せてもいいのではないか、フォニックスの次に行ってもいいのではないか、、、と思いたった。しかし、次に攻略すべきと思われる発音記号自体が、この本と手持ちの辞書でも異なるところがある。辞書の間でもちがう。また、「t」はこのような時はラ行で読む、とか様々なルールがあるが、なぜそれを表す発音記号がないのか、、、結局はどこまで詳しく発音を分析してそれに対応する記号をつくるのかという程度問題なのだろうが。また、その音の正確さよりも、他の音との識別が重要なのだろうが、発音記号だけではそのようなところまではなかなか分からない(気がする)。
その一方で、発音記号は世界中の言語の発音を表すことも出来るという話を聞いたことあり、発音記号全体の仕組みというのから本当は分かる必要もありそうだ。つまり、この発音記号という奴をどこまで信頼して付き合っていける奴なのかが、ぼくなどにはよく分からない。そういう不安の中で、この本は、ところどころ、エッセイ風になったりして、アレレ、という感じもありつつ読み終えてみれば類書の中でもポイント絞ったところはかなり詳しい。ただし、網羅的ではなく、著者の経験に基づいて大胆に発音(記号)の説明を取捨選択している。
フォニックスから、そろそろ発音記号にトライする必要があるのかも、と思って読むのにはそこそこ良かったようだ。フォニックスの基本的な知識、つまりはスペルから発音へのルールについては、この本には何も記されていない。逆に、フォニックスの本だけだと、弱母音やフラップTやリエゾンやアクセントの規則などのことはほとんど分からない。だから、相補的であるといえる。あと、長めのテキストを使って読み方を解説しているところもあるのだが、、、正直、音声が聞けたらなぁ、、、と(矛盾)。
あと、著者の左翼っぽいスタンスがなんとなく見え隠れするが、ぼく的には、それは嫌ではない。ただ、アメちゃんだって、とか言い出すのは興ざめである。
日本人は東南アジアではリラックスして英語をしゃべるのに白人のネィティブ(WSAP)を前にすると話せなくなるのは、東南アジア人に対する差別的優越感なのではないか、という著者の指摘はそのとおりだろう。しかし、それだけではないようにも思う。アジア人同士が、意思疎通するのに、英語が必須というこの倒錯的な状況の不自然さの苦さ滑稽さを共有するがゆえに、話しやすいこともあるのではないかと思う。一方で、英語ネィティブの多くは、英語が世界共通語であることを当たり前だと感じている。そのような無自覚で傲岸な自信を背景にして「正確に話そうとしすぎる」「日本人はシャイすぎる」などと善意の英語ネィティブに励まされても、こちらはしどろもどろになるばかりだ、、、、、。
この本を読んで、コピーがうたうように「あなたの英語が大変身する!」という実感は全くわかないが、ほんの少しは進歩した気になる。
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by isourou2 | 2015-02-17 22:56 | テキスト

ほんとうの中国の話をしよう(余華 飯塚容訳 河出書房新社 2012)

中国に行くかもしれないので、中国に関するものを読んでいる。
中国国内で発禁処分、と帯に大書してある。
そして、表紙は真っ赤であり、明らかに毛語録に模倣していて、日本語タイトルもまたどこかで聞いたようなものになっている。
内容は、文革を少年時代に過ごした筆者の当時と経済中心になっている現在を比較する視点で様々なテーマをとりあげ、エピソードをちりばめたエッセイである。このエピソードが、どれも興味深く、だれないで手際よくまとめられている。戦後の中国の変転のダイナミックな激しさは、強い政治主導が1つの原因であるのは確実だろう。そのような中で、生き抜くためにそれを冷静にみる目は、民衆のもの(知恵)だったろうし、また芸術の視点でもあるだろう。つまり、この両者が重なる条件が現代中国にはあり、魯迅(10のエッセイのタイトルの1つだが)から、この著者まで脈脈と流れているもののような気がする。
「革命とは何か?過去の記憶の中から引き出される答えはさまざまだ。革命は人生を不確定要素に満ちたものにする。人の運命は一朝一夕で、まったく変わってしまう。ある人はとんとん拍子に出世し、ある人は奈落の底に落ちていく。」
著者の革命に対する解釈は平凡なものだが、しかし、生活の実相からみれば、革命の結果とはこのようなものとしか言いようがないだろう。そして、理想や理念よりも、このようなところに革命の魔力も、このようなものでしかないその限界もある。
10のエッセイの最後の2つは、現在の中国ではやっている2つの言葉「山寨」「忽悠」をめぐってだ。「山寨」はコピー、物まね、という意味で、「忽悠」はデタラメ、騙し、ということ。もちろん、この本の装丁とタイトルは、このことを意識しているだろう。秀逸なあとがきの末尾にはこう記されている。
「私はこの本で、中国の痛みを書くと同時に、自分の痛みも書いた。中国の痛みは、私個人の痛みでもあるからだ。」

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by isourou2 | 2015-01-23 22:20 | テキスト

NHK鉄の沈黙はだれのために 番組改変事件10年目の告白(永田浩三 柏書房 2010)

内容は、冒頭の一文に集約されている。
「本書は、2001年1月30日に放送されたNHK教育テレビ「ETV2001」シリーズ「戦争をどう裁くか」の第二回「問われる戦時性暴力」の内容が、国会議員らの圧力によって放送前に改変された事件について、当時NHKの番組担当プロデューサーであったわたしの体験と、その思いをつづったものである。」
つまり、その後裁判にもなる出来事の一方の当事者の手記である。
ぼくは、この本は一気に読んだ。最近、一気に読んだ本は珍しい。決して、うまく整理された本ではない。話は、あちこちに飛び、エピソードの軽重もよく分からなかったりする。しかし、この本を一気に読ませるもの、それは著者の書かずにはいられないという、それも一番つらいことを書かずにはいられない、という真摯で強い気持ちである。それには、読んでいて何度も心を揺さぶられた。彼のその思いは、メディアというもの、テレビというもの、ドキュメントというもの、に向かっている。
「番組改変事件によって蹂躙されたのは、まず、なによりも、番組制作の現場なのだ。~事件によってわたしというプロデューサーが蹂躙された、被害を受けたと言いたいわけではない。それどころか、わたしは加害者のひとりである。」
著者は、相当な覚悟でこの本を書いていることが伝わってくる。自分の加害者としての振る舞いについてもかなり書き込んでいる。
番組制作の現場が蹂躙されたという意識と、自分が加害者であるという意識は、おそらく同時に存在し、同時にやってきたものだろう。なぜなら、これは、NHKという組織のシステムが生んだものだからだ。そのシステムの被害を現場が受けた、という自覚は、そのシステムの中にいる自分が他者に対して加害をしているという自覚、と同時に発生する。NHKというシステムと書いたが、それは、会社というシステムでは常態として発生し、日本という社会を覆っているものでもある。そのシステムの中で、充分に奇怪にふるまう人々の姿をこの本は描き出している。そのような奇怪さこそが、被害であり加害のあらわれである。それに耐えられない人たちも描かれ、それは胸を熱くする。著者もまたそのような人である。しかし、そのような自覚が著者に訪れるには5年近い時間がかかっている。
著者は、ドキュメンタリーの仕事を降りてからは、NHKアーカイブスの仕事をやり、その後、学校に通って精神保険福祉士の資格をとり、武蔵大学教授として地元の密着する形の活動を続けている。このようなアーカイブスで仕事(あるいはNHKドキュメント)の振り返りを行い、さらには人生の振り返りをしていく流れはよく理解できる。
福祉専門学校の実習で、統合失調症の人が多い作業所でキャンドルをつくりながら著者はこう述懐する。
「これまで、ひたすらに番組を世のなかに送り届けてきたが、それは本当に豊かな時間を届けることになっていたのだろうか。喧噪と騒音を届けただけだったのではないだろうか。」
この社会、特にそれを凝縮しているような会社という社会(システム)を相対的に見ることが出来て、ようやく被害も加害も浮かび上がってきたのだろう。それは、その中で守られ生きてきた人にとっては生木を裂くような苦しみ、時間のかかることだったろうと思う。その上でも、著者が、なぜ、この番組に登場している慰安婦への謝罪を一人一人行ったり、話しを聞きにいこうとしないのか、という疑問は残る。この本は、著者のこれまでの経験や手法が活かされた生生しいドキュメントであり、具体的なメディア論に結実している。それだからこそ、価値があるともいえる。でも、そのことにどこか陥穽があるような気がする。ドキュメントは事実をして語らしめる、黒子に徹する、と本書に書かれている。そして、黒子の立場を踏み越えたことで、恐ろしさと恥ずかしさで身がすくむ思いだ、と書いている。この番組改変で起きている事態は、編集段階で安倍晋三や中川昭一といった政治家からの「偏向」という批判をうけ、次々とカットし、国際法廷に批判的な論者を追加し、ということを番組放映の1時間半前で繰り返し、ズタズタな番組を作ったということだ。メディアは公正であるべき、不偏であるべき、という時に、その公正や不偏の評価軸や視点はあらかじめ決められてはいない。その評価軸や視点をつくるのは、その人の思想である。だから、偏向、という批判に対して、自分の軸の設定を守るには、思想が必要になる。もちろん、大きな権力からの検閲をさせない仕組みをつくることは大切だ。しかし、メディアの自主独立を守るには、そのような思想も必要だったことが今回の出来事からは、はっきり読みとれる。そして、思想というのは、会社などのシステムや組織という仕組みの中からは本当は生まれない。なぜなら、それは「当事者」であることを回避する仕組みであるからだ。思想は「当事者」しか必要としていないから「当事者」の中からしか生まれない。(当事者、という言葉をある幅、様々な立場、を含む上で使っている)。この本の中で著者は、従軍慰安婦や天皇の戦争責任ということについてどう考えるか、という思想について多くを語らない。しかし、それなしには、話しは完結しないような気がしてならない。このようなことは、現代社会を生きる「当事者」として語りうるはずのことだ。(とはいえ、ぼくも自信はないが)。著者は、当事者とメディアということをかなり突き詰めて考え、メディア論を超えて(それこそ黒子を超えて)当事者としての思想の手前まで来ているようにみえる。そして、そのような思想がなければ、取材という立場ではなく、慰安婦と対面することは難しいことだろう。
また、もう一点気になるのは、この本の中で活写されているNHKの内部は、パワハラの温床のような感じがすることだ。メディアの職人の徒弟的な世界がまだ存在し、それは著者にとって懐かしい人間くさい世界としてあるのだろうが、しかし、上司から罵倒されることが常態化しているようにも読める。加害の認識は被害の自覚と共にやってくるとしたら、このようなシステムの中で、蹂躙されているのが、冒頭引用のように「番組制作の現場」だけではなく、著者自身でもあったことの自覚が、今回の出来事で被害をうけた人たちを著者が理解することに必要なことのような気がする。
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by isourou2 | 2014-11-03 15:23 | テキスト

独学者のための英語学習本ガイドコーナー その3

英文読解の透視図(篠田重晃、玉置全人、中尾悟 研究社1994)

もう20年前の参考書である。でも、おそらく現役で活用されているだろう。誰に?もちろん、受験生である。
難関大学の長文読解のための参考書なのである。著者は、河合塾講師。そんなもん、今さらやる気するか。というか、受験勉強などしなかった口だから、今さらも何もないのだが、学校英語・受験英語の弊がこれだけ説かれている今、40才を超えて受験参考書をやるなどというのは、たしかに何か違う。相当な説得力がなければ、目的の是非を問わない闇雲さなどすっかりないのだから、ページを開く気すらしない。しかし、この本(参考書)は、その説得力がある。
学校英語・受験英語の偏りや無効さをその結果から説く人は多い。というか、これだけの難題をこなす勉強をして、有名大学を出てもちっとも英語をはなせない人がたくさんいるのは事実だろう。しかし、それをいう前に、英語以外の学校の勉強、受験勉強は何か役に立っているのか?おそらく、何も覚えていないし、全く役に立っていない。それが、問題にされないのは、単にそれを必要とする機会や状況がその後のほとんどの人の人生にないからだ。英語の場合、それなりに、必要とする機会はある。英語で道を聞かれたりすることは誰にもあるが、いきなり物理や数学の知識が要求されることなどない。しかし、たとえばそのような知識を必要とする分野で活動している人にとっては、高校での知識は前提として十分に役立っているはずだ。
英語の場合も同様である。ほとんどの人にとって、英語は必要がない。だから、実用する機会がないので、勉強してもすぐに忘却の彼方へと葬られる。脳だって、使わないことを貯めとくほど在庫整理が下手ではない。しかし、その他の教科とちがうのは、たまに、場合によっては切実に、必要とする機会が存在するのが英語だという点だ。その時になって何も出来ないことと、過去の懸命な勉強の対比が、学校英語や受験英語への批判や不信の底にはある。でも、使ってないのだから、忘れたのは当たり前。数学の公式、何か覚えてますか。
と、受験英語を弁護するのも自分ながら謎ではあるが、要は、受験英語も実用の必要が前提ならば役には立つはずだろう。ましてや、いい加減大人であろう著者たちは、受験という事態に対して、そのむなしさも熟知しているだろうし、またその子供だましの職業的要請もまた下らないものであることを日々思っているであろうから、その要請に応えつつもそれを超えた部分で本当に将来に役立つものをどうにか組み入れたいという思いは、抑えきれないでしかるべきだと思う。と期待する。また、予備校講師は、学校教員という枠に納まれない部分と学校教育よりさらに受験マナーである現場、という屈折を抱えた人たちだろうと思う。想像する。
そこで、「英文読解の透視図」である。とりあえず、一読した。ほぼ毎日やって約1ヶ月。10ページくらい進むのに1時間以上はかかる。とにかく内容は濃い。パズルのような入試試験の長文をテキストにして、間違えやすいポイントを徹底的に扱っている。その読み解き方は、文型(主語・目的語・補語)と各詞の働きという平易で基本的なもので一貫性があるのが、特徴である。その読解においての読み誤りやすいポイントと解説は、ぼくにとっては非常に参考になり、また教材として隅から隅まで手抜きが全く感じられず続けられる安心感がある。その内容の濃さゆえに、時間がかかる作りにかかわらず、読了できたわけである。おそらく、非標準的語順を含む長文読解において、かなり有効なのではないかと思う。しかし、なぜ、そのような形に(たとえば、倒置とか移動とか強調とか)なっているのかという文法の原理的な説明はほぼない。そのような追求よりも、いかに読みこなすかというところに力点がある。それは受験参考書の限界でもあるが、読解の実用においてもそのような追求は必ずしも必要ないだろう。ぼくのような人文的発想の人はそういう原理的な部分に興味を持つのだが。なので、情報構造や機能文法といった、最近の受験参考書でも取り入れられている、原理的な部分は欠落している。よって、ライティングの上達にはこの本は直接的には役立たないだろう。あくまでも、読むにはどうするか、という追求であって、ただその丁寧さの熱量は半端ではない。
しかし、最後にある、JSミルを引用した卒業問題をやってみて、暗然とした。ぜんぜん読めてない。
うーーん、もう一回やるべきか、、、。
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by isourou2 | 2014-10-24 21:30 | テキスト

エンジョイ・アワー・フリータイム(岡田利規 白水社2010)

面白いものを読む、という体験を現代詩、と名付けてみたい欲求がある。つまり、ぼくにとって、面白い読み物を現代詩といってもいいわけだが、それがどのようなジャンルであれ、読んでいるうちに、これは現代詩だと感じるようなもの、それがぼくにとって面白い読み物なのだ。それは、体験としてやってくるようなものだ。言葉の、言葉たちの、様々な要素の質感の中で作られる空間に対しての意識が鋭敏に働いているものが現代詩であり、それへの参入が読むという行為である。
伊藤比呂美の、笙野頼子の、川上美映子の、そしてはじめて読んだが、岡田利規の、最良の部分というのは、ぼくにはそう感じられる。
そして、岡田氏の場合(とここで、このような場合の通例として失礼にはあたらないだろう呼び捨てではなく、なんとなく氏とつける方がふさわしいような感触がこの作品にはある)に、特異なのは、言うまでもなく、これが演劇作品の戯曲だということだ。
つまり、ある空間を構築することを前提として言葉が並んでいる。また読む場合も、そこには、うっすらと舞台が浮かんでくるようである。演劇なのだから、空間を作るための他の(たとえば舞台美術や照明など)参加も想定されているだろうし、なにより現実の生身を持った役者という存在が不可欠だ。そのようなものとして演劇は舞台を空間として形づくるための様々な試行としてある、しかし、そのように演劇を考えるのはおそらく間違っている。少なくともそれは現代詩ではない。観劇が耐えがたい時間の強制となるのは、そのような空間の捉え方のためである。
むしろ試行されるべき、思考されるべきなのは、何もしなくとも舞台という空間があらかじめ客の前に成立してしまっているという事態、そこに何かが出現すればすでに演劇がはじまってしまうという事態、そこにおいて空間の感覚が安易なものになってしまうという事態、にどう対抗するかということだ。
このような事態は、言葉、という事態においても、本質的には同様であり、それに対する拮抗を、ここではあえて、現代詩と呼んでいる。
演劇におけるそのような事態に対抗するために、岡田氏がもがいていることが、その作品を質の高い現代詩にしているということでもある。そして、それが具体的な現場を持つということによって、その抵抗が緊張度を継続させうる要因になっているのだろう。また、それが妥協や制約をも生むだろう。あとがきにはこうある。(というか、このあとがきは、ここで書いたことを巡ってのことだと私には感じられるから、どこをとっても、良いようなものだ。)
「わたしは、自分の書く戯曲が、上演を形作っていくために必要なさまざまなことについての決定権を、できるだけ持たないものであるようにしたいと思っている。、、、それは、戯曲というよりも、単にテキスト、ということなのかもしれない。、、、「フリータイム」を制作中のわたしの念頭にあったのは、現行の「フリータイム」よりももっともっと抽象的な、構成をほとんど持たない、単に断片の集積でしかないような、テキストだった。けどれも、それは叶わなかった。そこに届くのに、挫けてしまったのだ。いつか、それに届くテキストが書きたい。そのときわたしは初めて、自分が劇作家であるということを、つまり、自分のテキストが誰かによってどこかの稽古場で作られる演劇に対して、その創造性を妨害するのではなく反対に奉仕できるものとして機能するものだということを、確信できるだろう。」
岡田氏が挫けてしまったのは、それは、岡田氏の頭にある演劇(それは、安易に空間を作ってしまう、すでにある空間としての劇場を含むもろもろの現実的なシステムだろう)によってである。それらの現実的な条件をぬけたところに未知の演劇はあり、またそのためのそれらの桎梏に縛られない戯曲=テキストがあるはすだ、そのようなテキストを書きたい、と岡田氏は言っている。しかし、ついにそのようなテキストはなく、それに届きたいという試行だけがある。なぜなら、演劇という事態、のその奥には、言葉、という事態があるためだ。つまり、戯曲がテキストになったとしても、問題はちがうレベルで繰り返される。演劇という事態へのテキストによる抵抗、拮抗、挫折、の軌跡にこそ岡田氏の行っていることだろうし、その現場との緊張度こそ作品を形づくっているものだ。あとがきを読むと岡田氏の感じている現場は、劇場よりも稽古場であるような印象だが、そこでの空間が劇場よりも、たしかにはるかに生成的なものであるだろうことは想像できる。(素の役者、言い間違え、時間終了を告げる管理人、、、)。とすると、今までの話とは少し違っていて、岡田氏は劇場よりも稽古場を焦点にして、その稽古場の制度への介入を戯曲でなそうとしていることになるのかもしれない。
たとえば
「男優5 ~~この人たちになにかこっちの価値観で言ってもある意味しかたない、みたいな雰囲気の、そういう、雰囲気という形での、(溝)、
女優2 えー、うるせいよって、だったら言えばいいのに、思っているんだったら、」
という会話での(溝)というのをどのように解釈するのかというのは、稽古場において問題にならざるえないだろう。そのまま、括弧溝、と読むのか、溝はあってもなくてもいいという意味で受け取るのか。しかし、ぼくが読んだ時の印象としては、この(溝)は言葉の連なりからの突出を感じて、男優5と女優2との溝、という設定に対する言及にも思えた。(誤読だと思うが)。つまり、ところどころにある「間」という指示に似た、溝、という指示にも思え、溝という指示を具体化するのは一体どのようなことなのか、と。このようなことは、稽古場では問題になっても、劇場(上演)ではその問題になった痕跡は残らないだろう。生成的でありながら演劇という制度に縛られもしている稽古場への介入が岡田氏の真骨頂であることは理解できる。そして、この、(溝)、という表記は、やはり現代詩だと思うのである。また、当然、岡田氏は、稽古場から劇場への移行したときの戯曲的介入の変質にも注目せざるえないだろう。
また、これらの戯曲の内容は、派遣労働や労働環境のことを巡っているが、単に時事的なことを取り上げたわけではないだろう。演劇の空間と労働環境の空間の結びつきがあるのが感じられ、それが作品の強度を高めている。

というところでほとんど内容的な部分は、さらっと触れて終わるつもりだったが、最後のエンジョイを読んでみたら、そういうわけにもいかなくなった。
なぜなら、ここでの登場人物でもあり(最後に通り過ぎるだけだが)、話題になっていることでもあり、また全体に影さすようでもある、ホームレス、という存在は、私自身でもあり、また、身のまわりにいる人たちでもあるためだ。この戯曲においては、マンガ喫茶の店員(バイトで30代)から見たホームレスについてを描いているところもあるわけだが、それに対して、私はホームレスからそれを見返すことのできうる位置にいる。
実際のところ、私も急にマクドナルドの店員がやってきて「お客さん、週に何回利用されていますか?」と牽制以外の理由が思いつかない質問をしてきたりするし、知人たちからマクドナルドを追い出されたことについての相談も受けている。
ちなみに、ホームレス対策(ここではジーザス対策と呼ばれている)は、マンガ喫茶(とここでは言われているが、今ではネットカフェですよね)は身分証明書が入店時に必要なため、そもそも、ホームレスの利用が現実的に難しくなっている。この戯曲でのカウンターでの店員による水際作戦というものと、現在は状況が変化している。
この戯曲の空間は、ホームレスから見返す視点が排除されたところで成立している。最後に通り過ぎる、という指示によって、かろうじてそのような視点を提示しているかのようで、そうではない。ここでは、お互いの臭いを店員の男女がかぎあう側をホームレスが通り過ぎることによって、店員のホームレスになる可能性への不安を提示するにとどまっているためだ。
(もし、ぼくが演出家であったら、通り過ぎる、という指示を(拡大)解釈して、このホームレス役に、10分かけて通り過ぎるように言うかもしれない。そうする時、この戯曲の意味はだいぶ反転するかもしれない。)
岡田氏が、ホームレスからの視点を排除した理由は、それを描くことができなかったということではなく、この(一般)社会というのは、ホームレスからの視点を排除することによって、ホームレスということが暗然たる影を投げかけている社会であるためだろう。つまり、ホームレスという存在が、常にメタファーとして効いている社会なのである。メタファーとして社会の意識や無意識を反映しながら規制し、つまり枠組みを作りだしながらも、それは実際の存在として目の前におり、そして、誰もがなる現実的可能性もある。そのような中で、そのメタファーに発言や振る舞いを整序される形でホームレスは言葉を奪われる。しかし、現実に目の前にいる以上、そして、それが自分と地続きである以上、その存在がメタファーに沿わない可能性は常にある。そういう社会への侵襲と社会からの新たな線引き・再メタファー化が繰り返される波打ち際にホームレスはいる。その線はそれなりに揺らいでいる。
そのような揺らぎを含めた(一般)社会の様相をこの戯曲は上手に描いている。しかし、それだけでは物足りない、それはもちろん私がホームレスであり、またその社会で生きているからである。ただし、それ(社会からの新たな線引き・再メタファー化の繰り返しを戦略的に分析して戦うこと)は、何より、私や私たちのやるべき課題だ。ホームレスの視点の安直な導入という(ありがちなこと)は、メタファーの固着という効果しかもたらさず、それはゆさぶりどころか揺らぎすら結果しないだろう。岡田氏は、ここまで(一般)社会の縁取りを正確に行った上で、それと演劇空間を重ねる形で、壊す作業をこれ以降の戯曲で行ったといえる。
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by isourou2 | 2014-08-22 00:19 | テキスト

自転車日記(夏目漱石 1901 漱石全集第12集 岩波書店)

単行本未収録。ホトトギスに掲載されたエッセイというべき小作品で、漱石の公刊されている文章としては最初期にあたる。(我が輩は猫である、が1903年から連載)。
ロンドンで漱石が下宿の老婦人に自転車を勧められ、自転車を試すことになるが、うまく乗りこなすことが出来ずに終わったというだけの実に他愛のない無邪気な話である。しかし、ここでの自由闊達な筆さばきはもの凄い。平易な題材を腕の切れ味を試し、示し、楽しむために選んだともいえる。だから、ここで伝わってくるのは、抽象的なもの、あるいは感覚的なものの質である。もちろん、ユーモアがある。むしろ、ユーモアしかないともいえる。自転車で曲乗のように坂を駆け下るだけな場面も、曲がりやすい方にしか曲がれないために友人に街案内しても同じところを巡ってしまうことも、度重なる落車も衝突も、それは少しバスターキートンの無声映画にも似たおかしなシーンである。それらのシーンは、自分を相対化した目、相対化とだけでは言い表せない変幻な目で描かれている。それゆえのユーモアである。国木田独歩が「武蔵野」を書いて5年後に、ここまで自由な筆致が展開できる漱石には感嘆する。ここに横溢する愉悦の感覚は、自分と文章の間に幾多の流路を切り開くという快そのものからやってきている。そのようなことが漱石に可能だったのは(それが漱石の異郷での体験なのか、知識なのか、育ちなのか、漱石についてはよく知らないのだが)、変幻な視点によって、流路をつくりうるだけのひような「空き地」を心的に造作できているためである。
それは、逆にいえば、そのような空き地を必要とするだけの逃れがたい苦しさや固執さぜるえない自己が漱石にあったということでもある。初期から晩期の重苦しさへの変化というのは、そういう観点で理解できるような気がする。(といってちゃんと読んでないけど。)。ここまで考えてきて、この過剰なくらい自由闊達な筆で自転車を自由に乗れないことを書いたエッセイは、その対比の妙とともに、自由闊達さの挫折をもどこか暗示しているようでもある。

*ここでの文体で思い起こしたのは、昭和軽薄体。とすれば、吉本隆明が椎名誠を「自殺を禁じられた太宰治」と評したことがあったけど、むしろ「胃腸の丈夫な夏目漱石」と言った方が良かったのかもしれない。
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by isourou2 | 2014-07-02 00:06 | テキスト

独学者のための英語学習本ガイドコーナー その2

●「日本人の英語」「続日本人の英語」「実践 日本人の英語」「心にとどく英語」(マーク・ピーターセン 岩波新書)

英語学習本には、外国人(ネィティブ)が日本人に向けて書いたという1ジャンルがある。その代表格がマークさんだろう。同ジャンルには、T.Dミルトン(ここがおかしい日本人の英文法)、ロジャー・バルバース(ほんとうの英語がわかる)、ディビッド・セインなど。その中で、マークさんの特徴は、自分で日本語の文章を書いているということだろう。後の人は、英語で書いたものを翻訳して本にしている。マークさんの日本語はちょっと信じられないほどに上手ではある。ただ、本人は「日本人の小説や優れたエッセイなどを読んだあとに自分の書いた日本語を読むと、どことなく不自然に感じる。」(実践)とする。それが感じられるというのだけでも卓越した日本語の感覚があるわけである。しかし、たしかにどことなく不自然にはちがいない。そのことから、分かることもある。つまり、日本人が英語で書く時に誤りやすいことを指摘したこのシリースの中で、マークさんが説明していることを逆にしたことが、英語を母国語とする人の日本語の使い方にもいえる。たとえば、英語は論理関係を大切にするのに、日本人は、論理関係を示す接続詞の使い方に神経が行き届いていないという指摘。マークさんの日本語が不自然である1つの理由は、ちょうどその逆で、日本語としては必要以上に論理関係をはっきりさせる、文章のつなぎ方をしているためである。日本語だったら、読み手で補うことが出来る「つなぎ」については、多少あいまいになっても省く方がすっきりするわけである。また、英文がぶつ切りになってしまう英文を子供っぽくみえると指摘しているが、逆にマークさんの日本語は長すぎるところがある。
語学の学習の目的が、とりあえずのコミュニケーション能力の確保を超えて、他の言語のくせや構造を知ることを通して、母語のくせや構造を知ることだとすれば、このようなことが分かるのは非常に有益なことだろう。ぼくなどは、まずは外国語をまるで話せない状態をどうにかしたいわけだが、本当に興味があるのは、言葉の構造を実感としても知ることである。なぜならば、母語のくせや構造が自分の考え方を大いに規定しているに違いないためである。

英語学習本を大きく2つ、ネィティブの発想・発音・綴り方を手本にそれに近づくべきだとするもの、と、通じれば日本人らしい英語でもよいとするもの、に分けることが可能かと思う。
もちろん、多数は前者であり、マークさんの本もまたそうである。後者は少数派だが、会話を中心にした本にそういう傾向の本が多く根強い人気がある。文章と会話という違いもあるにせよ、この2つの考えには溝があり、これらの本を同時に読むと混乱してしまうところもある。
マークさんは、日本人英語、カタカナ英語は、「もったいない」という立場である。つまり、英語は何が何でもネィティブに近づくべきという無理強いはしないものの、日本人英語では、誤解されやすく、内容が子供っぽく軽く見られることになるので「もったいない」というわけである。さらに、英語の使い分けが日本人に難しいように、日本語学習者が日本語の使い分けが難しいのであるから、それは「お互いさまの問題」で、お互いの言葉の論理を身につけていくしかない、というのがマークさんの持論である。
しかし、これにはぼくは簡単に説得されない。英語と日本語の間には、圧倒的な不均衡がある。英語は、半ば強制的に学ばなければいけないものとして日本人にとってあるが、日本語はそのようなものとして英語を母語にする人にあるわけではない。日本に住んでも英語のみで生活している人も多いだろう。日本語の習得に苦心するマークさんという個人とはお互いさまといえるだろうが、それは特殊なケースである。日本人英語を日本にくる人は勉強するか、または、国際語としての英語を英語そのものとは違うもの(簡略化したり)にするかして、ようやくその不均衡は少し是正され、お互いさま、といえる状態に一歩近づくことになるのではないか。
そういうことがなされないまま、ぼくたちは国際語としての英語の勉強を強いられているわけである。英語の勉強は、そのような不当な一面をかみしめることでもあることをマークさんは理解していないし、できないだろう。
そして、英語本の後者の立場は、その不当さの認識に意識的無意識的に立脚しているはずである。

マークさんの本はどれもためになるいい本だと思うのだが、その例文の選択において女性に対して否定的なものが多いのはどうしたことだろう。「心にとどく英語」では、意志貫徹の会話術という章に「女を侮辱する表現あれこれ」というものすらある。対になって「男を侮辱する表現あれこれ」があるならまだ分かるが、それはない。何か、女性に恨みかコンプレックスでもあるのか、それがマークさんの日本への愛着に関係でもしているのか、と勘ぐってしまう。たぶん、読むと不快になる人もいるのではないだろうか。

どの本もいいと思うが、英語の勉強するならおすすめは「日本人の英語」「実践日本人の英語」「続日本人の英語」「心にとどく英語」の順。

●ほんとうの英語がわかる(ロジャー・パルバース 上杉隼人 新潮社2001)

何度も版を改めている本である。英単語のうち、日本人が誤解しがちな単語について詳しく解説した本である。有益そうでしょ。しかし!この本の翻訳は、ひどすぎる。読むのが苦痛なほどひどい。いくら内容が良くても、これでは読む度にうんざりする。
翻訳がひどいと断定する理由は、訳者が後書きで、ロジャーさんの英文の見事さを「英語特有の音声と比喩の美しさをここまで引き出せる作家は、なかなか今の時代には少ないと思います」とまで誉めているのを一応信用するためである。そうだすると、日本語としてここまで読む気をなくさせる翻訳は、なかなか今の時代には少ないと思います、ということになる。理由は、これまた、単純でおもっきり直訳だからである。美しい英文をそのまま訳しても、美しい日本語にはならないのは当然である。訳者としては、英語表現の型を日本語への直訳を通して学ばせたいと考えているかもしれないが、それはいかに日本語として不自然かを通してしか学ぶことが出来ず、そのようなことが文章に対しての繊細さを持つだろう作者の意にかなったやり方とは到底思えない。読解のための注をつける形で英文のまま出版した方が余程ましだろう。
訳の意図が奈辺にあるかよりも、そもそも日本語に対してのセンスが訳者に欠落している問題のような気もする。そして、他の著作も同じ上杉氏に翻訳されているロジャー・バルパース氏は、不幸としか言いようがない。他の本を確認したわけではないが、この翻訳をみる限り、とても期待はできない。
もっとも、ロジャーさんは日本に住み日本語も使えるとのことだから、訳文のひどさに気がついても良さそうなものだ。もし気がついていないのなら、例え外国語が堪能になっても、母語の言い回しや構造にそっている文章について問題点を把握することが外国人にとっていかに困難であるかを示しているのかもしれない。
ともあれ、いつまでもこの翻訳のままで本を出し続けている出版社の見識を疑う一冊である。

*アマゾンの評を見てみたら、訳文が読みやすいという評価はあっても、読みにくいというのはなかった。うーーん、ちょっと言い過ぎたのかな。
適当に抜粋してみると「人間は、望ましい、あるいは理論的な意味にことばを落ち着かせようとします。ことばは1つの形から始まりますが、普通に使われているうちにだんだん変わってくるのかもしれません。」
なんだか分かりにくい上に、「人間は、望ましい、あるいは~」のような言い方は日本語としては、翻訳の中にしかないと思う。
「ぼくが1967年に日本の土を初めて踏んでからというもの、ほんとに目まぐるしいほどの変化がありました。当時はまだグレープフルーツが輸入自由化されていませんでした。それが自由化されて、ぼくはうれしいです。自由(FREEDOM)はいいことです。グレープフルーツのとっても。」
たぶ著者がユーモアをこめた部分だと思うけど、訳が下手でそれが伝わってこない。「それが自由化されて」などの代名詞を訳しすぎ。短文の効果も生きていない。グレープフルーツにとって、なぜ自由化がいいことなのか、、、というのがそもそもよく分からないがこれは原文の問題かもしれない、、、。
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by isourou2 | 2014-05-05 00:18 | テキスト

坂口安吾全集5(ちくま文庫 1990)

坂口安吾を面白くないと思っていた。構成はぎこちないし、理屈が勝ちすぎてるし、なにより文章が下手だ。小説の繊細さを崇める一方、力技で壊そうとして逆に型にはまる、、腕力を持て余したボクサーが影と戦い消耗しているようなそんな印象。要は不良は不良でも消化不良なのだ。中上健次もまたぼくの中では同じような印象があり、なんで評価が高いのかよく分からない作家の一人だ。坂口安吾は、例えば太宰治の自在さとは天と地ほどの差がある。と思っていた。しかし、この全集5を読んで印象は一変した。
全部面白い、しかも駄作ほど面白い。(ただし、時代物である「2流の人」は読んでない。時代物やSFは、ぼくはなぜか関心が持てない)。この巻では、22年4月から23年1月にかけての10ヶ月間で発表した小説が集められている。よくぞこれだけ書いたものだ。きっと他にもエッセイなども書いているにちがいないから大変な熱量だ。坂口が乗りに乗っているのがよく分かる。ここでの坂口の筆はぎこちなさを脱し、自在さを獲得している。時代の無意識と作家の無意識が同調して、自分のどこを取り出してみてもかまわない状態がその自在を作り出している。戦後の焼け跡、それは坂口にとっての故郷であると同時に、坂口に活躍の場を保証するものであり、リアリティを与えるものであり、それだからこそ、坂口はこれほどの熱量をもって発言し小説を書き飛ばしたのである。ちがう文庫についていた作家の年譜をみて、坂口が50歳にも満たずに、1955年に亡くなっていることを知って、時代というものを考えさせられた。坂口は終戦時から10年間しか活躍していない。「もはや戦後ではない」と経済白書が言ったのが1956年であり、すでに経済は戦前の水準まで復調した。何より、焼け跡はなくなり露天商はマーケットにマーケットはデパートに姿を変えた。そのような時代の地殻変化を予示するかのように坂口は亡くなったのだと思う。後知恵にすぎないこのような感傷的な言い方が許されるとおもうのは、それだけ戦後の焼け跡の時空に坂口が深く一体だったためである。そのような特権的な芸術家はそれほどいるものではない。(ぼくが、思い出すのは、例えば、99年に若くして亡くなったフィッシュマンズの佐藤伸治のことである。90年代の都市に生きる20代30代の心情を深く描いた彼が、911後にどういう音楽が作れたのかと思うと、やはり時代というものの持ちえる冷酷な切迫を感じる。)
坂口にとって、なんで焼け跡が故郷であり「なつかしいもの」なのか。それは、そこに真実の人間の姿、裸の人間の姿があったからだ。この巻の小説において、それは繰り返し描かれている。ラテン語を解し、プラトンを論じていた哲学者が、焼け跡で飲み屋をはじめ闇屋になり金の亡者と化す(金銭無情)、特高隊員が生き残って女の取り合いをする(決闘)、仮に舞台が焼け跡でないとしても、既成の価値観が瓦解したあるいは通用しない場や心情で生きている人たちが好んで描かれる。つまりは、焼け跡で露呈する裸の人間の実質、が様々なバリエーションで描かれている。
人間の実質というのは、国や共同体がお仕着せで押しつける価値や制度ではない。それが、焼け跡で鮮明に現前化したがゆえに、坂口にとって焼け跡が故郷なのである。ただ、坂口がそのような人間の実質を単純に好んでいたわけではないだろう。むしろ、そのような俗に染まれない自分というものを思うがゆえに、そのような「実質」に愛着したという側面があったにちがいない。そのような「実質」に生きている人間は、評価などはしないし、もちろんそれを称揚しない。焼け跡が人間の実質だ、としたところに、坂口の小説の面白さが起因していると同時に限界もそこにあるだろう。焼け跡が「実質」なら、所与の制度や価値観に作られるのも人間の「実質」だからだ。どっちがどっち、というものではない。むしろ、焼け跡の「人間」は、状況の変化に依存する人間の可塑性を表しはするが、「裸の人間」というのはどこにもない幻想というべきか。焼け跡を「実質」とするのも、一つの型になり、それは坂口の小説の造形に単調さを作りだし、やがては桎梏になるのが予感される。坂口が、仮に幻想だとしても、手応えのある幻想を足場にして身を投じたのは、戦中兵隊にもならず左翼にもならなかった彼の「暗い青春」の代償が見いだしたものが焼け跡だったためだろう。「焼け跡」に可能性をみて、それに最大の賭け金を差し出したのが坂口の魅力だった。それが、存分に水を得ているのが、きっとこの時期の作品群だろうと思う。
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by isourou2 | 2014-03-18 02:34 | テキスト

独学者のための英語学習本ガイドコーナー

プチ収集癖があるのである。それで、同じようなジャンルの本ばかりがある期間急増することになる。それらはたいていヅンドク状態。過去でいえば、気功関係、明治大正期についての本、最近でいえば、英語の学習本である。
英語についての本がいつのまにか、30冊くらいという事態に。で、まだほとんど読んでない。このままでは悔しいので、評価するためにも読むことにする。
ちなみに、私は英語の超初心者である。これまでの人生で何回か英語を話せるようになろうと試みた(NHKラジオを聞いたり)が、実を結ぶことはなかった。今年の1月に、20年ぶりに海外に行くことになり、英語の特訓をしようと思ったけど、時間がなくてまるでできなかった。飛行機に乗ったとたん添乗員の英語が全く聞き取れないことが判明しあせった。1週間の滞在で意志疎通の困難さにつらい思いもした。第一、海外まできて話せません、ではもったない。そこで、遅ればせながら本腰を入れることにした。
英語、に対する反感もある。一部の人の母国語が世界共通語になるというのは、どうもかなりおかしい。不公平だ。帝国主義でしょ。そういう違和感、反感もまた英語を忌避する原因でもあった、、、と言いたいが、しかし、実際は本気になるだけの必要がなかっただけだろう。今回は本気だ。そのつもりだ。30冊ある。はたして上手くなるのか。感想はどんどん追加していきます。

*アメリカの子供が「英語を覚える」101の法則(松香洋子 講談社2000)

図書館のリサイクル本にあった文庫サイズの本。
しかし、これは革命的。副題の「目からウロコの発音術」というのは伊達ではない。
英単語のスペルと発音の関係や法則をまとめたフォニックスを説明した本です。英語は、まずはここから始めた方がよいと絶対思う。
なぜ、中学でこれを教えてくれなかったのか。というか、ぼくらの中学の英語教師の発音は、全くネイティブに通じなかったので、それ以前の問題であるが。今は、中学(小学校?)でこれを教えているとの噂も聞いたが、まさに基礎中の基礎だから当然。フォニックスを知ると、単語のスペルを見ただけで発音が出来て、発音を聞いただけで単語を綴ることが出来る。(もちろん、例外もあって完璧ではない。)それだけで、どれほど英語の学習が楽になるか、その効果は計り知れない。
フォニックスについては、類書はいろいろあるけど、この本が解説が詳しいし、包括的だと思う。そばに置いておきたい一冊。巻末のスペルと発音記号のつきあわせ表はフォニックスから発音記号への橋わたしとして便利。
元になっている本が1981年刊行のため、発音の説明ががところどころ古い部分もあるかもしれない。(THやFの発音など)。しかし、それで困ることもないと思う。
ただ、フォニックスが分かれば、英語の聞き取りや発声も大丈夫なのかとはじめ勘違いしたが、あくまでも単語の聞き取り発音に有効、というもの。実際の文章の聞き取りや発声には、フォニックスだけではなく、強弱、省略、リエゾン、高低、などの文章や単語間のルールを知ることが必要。
繰り返し読んだ英語の本は、今のところこれだけ。本当の初心者には強力にプッシュします。

*英会話・ぜったい・続・シリーズ(國弘正雄・千田潤一 講談社2004)

入門編、標準編、挑戦編の3冊シリーズ。ちなみに、同様のタイトルで「続」がつかないものがあるが、ほぼ同内容らしく音声は「続」の方がいいらしい。ブックオフなどでは混在しているので、注意が必要。
入門編は中1・2、標準編は中3、挑戦編は高1、英語の教科書からテキストを10数個選び、それを朗読しているだけの実にシンプルな内容。主な単語の意味は書いてあるが、文法などの解説は皆無で実に薄い本。ちなみに、巻頭25ページくらいの國弘氏の解説はどの本も同じだから実質100ページに満たない。
とにかく、これらの朗読を聞き、音読して、筆写する、その様々の方法が説明してあるだけである。
しかも、1冊を終えるには毎日2ヶ月繰り返してやらないといけないとなっていて修行みたいである。徹底的に、音を頭に複写するという方法である。たしかに、やりきれば聞くのも話すのもそれなりに自然と出来るようになりそうだ。だが、これをやりきれる人はどれほどいるのだろうか、、、。ぼくはすぐに飽きた。
なんだか、手抜き本のようだが、特筆すべきことがある。テキストの読む音声が非常にクリアで質が高いことである。とても丁寧に作られているのが分かる。付属CDが音質やクオリティは、持っている本でこれが今のところ一番いいようだ。
だから、NHKラジオ講座をきちんと聞くなんてことが出来ない人(=私)が、この教材を使うといいのではないかと思う。
この本で推奨している苦行に近い勉強方法ではなく、好きなところを繰り返し聞いたり、この本で紹介されている方法を様々試したり、自分なりカスタマイズして使ってもよいのではないだろうか。
ブックオフで買った本は、巻末の自己評価の表への書き込みによって途中で挫折している様子が手に取るように分かる。挫折するくらいなら、このクオリティの高い朗読を自分なりの方法で活用する方がましな結果が生まれるのではないか、、、と期待したい。

*ブックオフで英語本を買う時のコツ

コツというか、まず付属CDやDVDが欠けていることがけっこうある。それを平気で高い値段をつけているので注意が必要である。また、書き込みがある本は、交渉によって格安にすることが出来るので、あんまり書き込みだらけでうんざりさせられなければ狙い目である。
辞書の類は10年前のものなら、100円から350円くらいで買える。それで、充分だと思う。最新版とそんなに内容は変わらないだろう。コストパフォーマンスで考えればとんでもなく安い。

*代々木ゼミ方式英文読解入門基本はここだ!<改訂版>(西きょうじ 代々木ライブラリー)

受験学習書である、、、しかも、予備校が出している、、、という時点で、受験生以外のたいていの人は気分が萎えるのではないだろうか。当然である。しかし、実は受験参考書はよく出来ている。効率よく学習するノウハウが詰め込まれているためである。(翻訳家の行方昭夫「英文快読術」(岩波同時代ライブラリー1994)においても、大学入試の問題の質の高さ、学習参考書の内容の良さをほめ、大人の英語学習の方法として再読をすすめている)
もちろん、こちらはテストで得点をとることが目的ではないので、若干ずれるところもある。
学習参考書に限ったことではないが、英文解釈と和訳、は似ているけど同じではなく、受験生でなければ和訳の機会はそれほどなく読みとりだけできればよい場合が多いだろう。この本も解釈と和訳の方法についての参考書である。

この本は薄い。150ページくらいである。そして、実質的に英文を読むときに役に立つポイント、誤解しやすいポイントが丁寧に解説されている。ただ、基本といいつつ、文法用語の説明はほとんどないので、そういう知識(中学校レベルの文法)は必要である。たぶん、これだけ分かっていたら充分に英文は読みこなせるのではないだろうか。
そして、この本の特徴は、著者の独白がところどころに挿入されていることである。そして、これが、ナルシスティックで実にうざい!ただ、うざすぎて独特のリズムをこの本に与えている。「・・・余談ですが、わたしの部屋の窓は森に面していて、雪で真っ白になった木々を見ながらこの原稿を書いています。(以下7行略)。じゃあね、SEE YOU LATER!・・・」という感じのものが随所に書かれてある・・・。しかも、例題からは、どことなく著者の妄想的恋愛観やコンプレックスが伝わってくる。それらに、受験生が励まされたり共感したりしているとしたら、それもまた、なんだか、、という感じ。(たぶん、そんなことにはなってないと思うが。)著者の個性を出すことによって、無味乾燥になりがちな参考書を読みやすくするという手法はさまざまな形で他でもあるが、だいたいあまり成功していない。著者の個性は、英語についての考え方や教え方で現れればいいので、それ以外の部分は余計である。この本の場合は、手法というのを超えて、誰にとっても不必要というところまで、独白がせり出していて、その意味不明さ、気味悪さがだんだんサイコな雰囲気を生み、読み終えた時には、親切な人でもある変態からようやく逃れえたような解放感がある。「・・・笑顔は自らにも他者にも新たな力を呼び起こすものです。つらければつらいほど、にこっと笑ってみることが解放につながる力を生むものです。この参考書は、以上で終了です。最後まで読み通せた自分に自信を持って、笑顔で終わりましょう。SMILE!・・・」
内容はいい。再読予定。

*再読しました。2回目はたぶん数日あれば読了できる。そして、内容が丁寧であること、そして間違えやすいポイントを押さえてあることがよく分かった。また、機械的な受験問題に対しての一定の距離もあり、そこに好感がもてる。文の書き換えなどにおいても、実際は意味がどう変わってしまうかを繰り返し書いているし、日本語らしく訳しかえることの問題も書いている。旧情報ー新情報、なども押さえてある。2回読んで、だいぶ整理がされたような気になった。ただ後半の倒置とか省略、同格などの部分は、概略しか書いていない。基本に重点を置いているので、それは仕方ない。(受験生ならずとも、英文読解の透視図、に進めばよいのではないかと思う)
あと、再読の良い点は、2回目は作者の独白(地雷)を飛ばして読めばいいこと。

*実は知らない英文法の真相75(佐藤ヒロシ プレイス2006)

またもや、代々木ゼミナール講師。
過去分詞、というのは、過去(つまり時制)と関係なさそうだ、ということに気づき、本の中にそのことについての「真相」が書いてあったので購入。
しかし、この本は誤植が多い。校正がちゃんと行われていない本というのは、参考書では致命的。
かつ、あやふやな説明も散見。たとえば、「「TO+原形」も未確定状態だから「TO不定詞」というのです。」
という説明は、間違いではないだろうか。
(意味上の)主語に対応して動詞の形が変わる(定まる)ことがないために「不定詞」と呼ぶはずである。(「英文法の疑問」大津由起雄)
また、TOO=TWO、だというのは、語源的には別だが語感的には似ていて「元は同じ」と考えるとすっきりする、というのが2ページにわたって書かれているが、首をひねらざるえない。2つを別に覚えればいいし、当然覚えていることだから、無駄な文章を読まされているだけである。
「真相」というわりには、こう考えた方が便利とか分かりやすいみたいなあやふやなことがいくつも書いてある。なんか、予備校教師の駄弁を聞かされているのではないかという不安が払拭できない本である。
中には有益な話もあるのだろうが。
ぼくが買ったのは初版本だが、初版本は誤植が多いのかもしれないので、注意が必要。
*追記 20150130
通読してみた。この素っ気なく予備校的なセンスのない表紙、そして、やけに目に付く誤植。それにも関わらず、実は内容は参考になる目から鱗なところがけっこうある。短い読み切りのためそれほど苦にならず読める。たしかに、序文にあるように重箱の隅をつつくようなものではなく、英語の核に触れるような骨太な内容も多く、この種の英文謎とき本の中で秀逸だと思う。ぼくのせいかもしれないが、今一つ謎ときになっていないところや、前に書いたように覚えることが増えるだけのようなところ、があるとは思うが、それほど多くはない。多いのは、何度も書くように、誤植。こんなに誤植の多い本は見たことがない。出版社も作者も、まじめに校正したとは思えない。そういう部分で出版側の誠意や意気込みが受け取れなく、本の価値が目減りしている。内容が悪くないだけに、もったいないことである。(ちなみにぼくは6カ所以上の誤植を見つけた。)本書の続編も出ているが、安ければ入手したい。
*追記 20150401
ちなみに、この本の印刷・製本は株式会社シナノである。最終的に誤植の多い本を出した責任は、著者と出版社にあるわけだろうが、その原因はシナノなのではないだろうか?ちなみに、田中 茂範氏の「表現英文法」という分厚い参考書があるが、ブックオフで見つけたが、巻頭のあいさつ文からして誤植があり買うのを控えた。(数日前に出た改訂増補版では修正されているのだろうか、、、気になる)。同書のアマゾンレビューには、「※ 以前に過去最悪のとんでもない誤植本にあたったことがあったが、印刷会社は忘れもしない本書と同じ シナノ だった。」という一文がある。同書には200か所以上の誤植があるとの指摘である。印刷会社がなぜ誤植の原因になるのか分かりにくいところもあるが、シナノの関連会社は編集業務もしており、そのためなのかもしれない。シナノは激安の印刷会社らしい。ちなみに、ここ(転職会議http://goo.gl/WqO8NB)を見るとかなりブラック企業な感じが漂っている。「とにかく残業が多く仕事量が半端ではない朝から深夜まで働きずめの毎日でした。日々納期に追われる毎日で精神に異常をきたしてしまう人間も多かったです。」「平日のプライベートな時間が皆無です。人間らしい生活を捨てるのであれば構わないと思いますが、仕事量が増えれば休日も犠牲になります。」「会社の近くに住み、自宅と会社をただひたすらに往復してるだけ。家には寝に帰るだけ。生きがいを無くしました。」「基本的に毎日、深夜まで働かされました。残業代はもちろん出ません。」などという言葉が並んでいます。推測だが、こういう職場環境ゆえに誤植が多発しているのではないだろうか。出版社や著者も、安ければいい、ではなくこういう部分もきちんとチェックしてもらいたいと思う。

*「英語」なんて話してたまるか!(河口鴻三 サンマーク出版 2003)

簡単に英会話をするための本。基本的にアメリカ人がよく使う短いフレーズを集めるという類書も多いジャンルの本。だけど、日本人が会話で不得意とする部分(聞き返す、確認する、あいづちを打つ、沈黙を作らない、など)や発想(上下関係を気にしない、など)を作者のアメリカでの苦労に裏打ちされた内容でまとめたもので、親しみが持てる。また、3時間くらいで読めて、けっこう実際役にも立ちそう。作者は英文法や言語学についてもある程度は知識がありそうで、その点もやや安心感がある。
内容としては、まったく基礎の基礎。学校英語とはちがう知識もあるので、ある程度分かる人にも読み物としていいかもしれない。もちろん、ぺらぺらの人には不要。
ブックオフではあまり見かけないが、200円で売ってました。初版本のためか、大きな誤植あり。実用書で、初版本は忌避すべきなのかも。
出版社は、スピリチャル系やうさんくささで有名なサンマーク出版ですが、、、まぁ、、、悪い本ではないです。

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by isourou2 | 2014-03-09 21:42 | テキスト

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(増田俊也 新潮社2011)

厚さ4.5センチ。この本を60才の知人に渡したら、一晩で読んだ。そういう磁力のある本である。さすがに、ぼくも一晩ではないが、ついつい夜更かししてしまった。
小学生から高校生、たぶん30代半ばくらいまではプロレスや格闘技に強い関心を持っていた。ただ、それは専門的な知識を求めたり、自分が行ったりするものではなく、自分の世代としては割と平均的でもある流れであった。なんといってもまだ、小学生の頃は金曜8時には新日本プロレス、土曜午後には全日本プロレス、時間帯は忘れたが国際プロレスと、子供が視聴できる時間にプロレスの放映が3回もあった。女子プロレスもやっていたかもしれない。
ブッチャーやスタンハンセン、タイガージェットシンやアンドレザジャンアント、出てくる外人レスラーたちもキャラ立ちがすごくて、ほとんどファンタジーの世界であった。たしか、小学校高学年ぐらいでタイガーマスク。タイガーマスクのトリッキーな動きには本当に魅了された。そして、アントニオ猪木。彼が次第に衰えていくのを画面で確認していくというのがある意味、ぼくの(そしてぼくら世代の多くの)プロレス物語の軸になっているが、それでも、猪木は闘い、プロレスは最強だといい、八百長ではない証明をするためとして異種格闘技戦を行っていた。今、考えれば、そんな(ほとんど)嘘を堂々と言い、その責任が追求されないのも不思議なことのようにも思うが、そんな言動自体もプロレスのファンタジーの一部である、という風に半ば受け取られていたためであろう。結局、そのような「闘いのファンタジー」に幼少期からがっちりと胸をつかまれてしまっている人たちが、大勢いるわけである。そして、もちろん、この作者の情熱の元にもやはりそれがある。そのファンタジーに一度掴まれた人はどんどん引き込まれる内容だろう。しかし、そうではない人にとっては、この厚さを読破するのは難しいと思う。とはいっても、この本はそれだけではない。木村政彦が生きた時代を活写するための時代背景の説明やサイドストーリーがおもしろい。また、木村以外の柔道家たち(講道館柔道という現在メインの柔道から見れば異端の柔道家たち)の個人史の記述も興味深い。ブラジルの日本人移民社会の話(特に戦後10年たっても日本が戦争に勝ったと誤解している「勝ち組」の話)など、木村を通して昭和という時代を興味深く描いている。また、嘉納治五郎が創始した講道館柔道が、どのようにして戦後GHQに潰されず(その結果総合格闘技としての性格が失われた)、講道館=全柔連として柔道界を覇権したのか、の歴史が詳細に書かれ、そこからは最近の柔道の暴力問題や全柔連のセクハラ問題などの根が垣間見られるように思えた。
しかし、この本は、繰り返しになるがプロレスや格闘技のファンタジーに胸を掴まれた人間がそのような読者に対して書いた本(ゴング格闘技に連載)したものである。なので、この本の重要なアングルは、誰がどのように強かったか、をそれぞれのキャラクターと物語性の中で語るもので、言ってみれば、非常にプロレス的なノンフィクションである。プロレス的なノンフィクションという矛盾こそが魅力なのである。木村政彦ー岩釣兼男ー石井慧という物語は、まるで力道山ーアントニオ猪木ー小川直也、という闘魂伝承みたいな話ではないか。作者は、真実を追い求めているようにみえるが、そのこと自体がプロレスや格闘技のファンタジーの心性の中にあり、だからこそ(ぼくのような読者を)夢中にさせるのである。1976年のアントニオ猪木(柳澤健)、という本も同様である。非常に優れた本が生まれているのは、もともとプロレスは言葉と相性がいいからである。古館一郎が天才的な実況なくして新日本プロレスの成功はなかっただろう。それは、格闘技でも同様である。ファンタジーの世界が重要だからである。だから、実際の動きを見ることができないという大きなハンディがありながらも、活字で読むプロレスや格闘技というのは魅力がある。そして、この本がそのようなファンタジーの引力圏にあることは、結局、木村政夫というのはどういう人間だったのか、があまり伝わってこないことも意味している。それは、師匠の牛島辰熊が国粋的な思想の持ち主だったのに比べ、木村には「思想」がなかった、としてしまったことも原因だったかもしれない。断片的なエピソードからは、権威的なものや権力的なものに対しての忌避という木村の思想が読みとれるのだが。
ともかく、この本は、明晰なアングルのもとに、木村政彦と作者が渾身の力で組み合った手応えのある試合である。手に汗にぎり、夜更かしすることになるだろう。
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by isourou2 | 2013-11-04 00:51 | テキスト


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