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歌う女・歌わない女(アニエス・ヴェルダ 1976)

女の人のための映画である。
女の子だけではなく、これは女の人のための映画である。
そういう映画ってありそうで、今まで見たことがなかった。そういうのを感じた小説というと、ガートルード・スタインの「3人の女」。スタインとアニエスヴェルダは、ぼくの中ではとても息遣いが似ている。

ヴェルダの映画は、これで3本目だが、どれも構成はあっても構造はない。
つまりは、いってみればガールズトークのように続くのである。タペストリーのように、つづれ織り。ブリコラージュのように出来上がる。なのでぇ、面白いんだけどぉ、ちょっと、早く終わんないかなぁって、思ったりしちゃうわけ。口調を戻す(しかもこんな口調な人はこの映画に出てこなかった)と、ヴェルダのテイストに、はまればとても面白く親密なる世界があるのだが、外れると退屈に思えてしまう映画なのである。
そして、このヴェルダのテイストというのは、チャーミングで才気があるが、同時に控え目で上品で慎ましくもあるように思える。
これは、この映画が「中絶」を描いている(あるいは女性の自立を描いている)ために、1週間しか上映がされなかったということと矛盾はしない。どの映画もそうだが、これは、どこを切ってもヴェルダ自身なのだから、テーマというのは、それほど重要ではない。
重要なのは、痛みを伴いながらも画面に流れる親密さというのが、永遠に続くような気がすることである。
なので、状況の構造をえぐり出すというような部分は、きっとある程度はじめは意図していたと思うが、次第に薄れて曖昧になっていく。
ヴェルダの持つテイストというのも、女性に期待される「好ましさ」からはそれほど大きくは外には出ていかない。そして、男であるぼくには、それは安心感として感じられるところがある。そして、描かれる男が類型的にも見える(類型的ではない男がどこにいる?)にしても、排除されるわけではない。それが、見る人にとって(女性にとって)物足りないかといえば、きっとそうではない。
この映画を見ようと思う女性にとっては、きっとそれはツボであり泣き所であり矛盾であり、リアルなことが親密に語られていることである。冒頭の文章を書き換えるとこうなる。
これを見ようと思ったあなた、これはあなたのための映画です。
ここで描かれるような女性の友情はうらやましい。
ガールズトークもうらやましい。(ところもある。)
そういう男であるぼくにも、この映画は遠くて近い輝きを見せてくれる。
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by isourou2 | 2012-02-29 00:30 | 映像

どこに思想の根拠をおくか 思想の流儀と原則(鶴見俊輔座談 晶文社)

この2つは、吉本隆明と鶴見俊輔の対談で「思想とは何だろうか」という鶴見俊輔の座談集に含まれている。たぶん、吉本の本のどこかにも入っていることだろう。この対談のタイトルなどは、吉本っぽいし。
この2つの対談は、1967年と1975年に行われている。(この間に、二人が対談をすることはなかったようである。)

この2つの対談において、二人は相互に批判しあって緩むところがないという意味で、見事な対談になっている。
しかも、お互いがお互いの思想の徹底を望むという信頼に基づいているので、読んでいて不快なところは少ない。(吉本の女性観がにじんでしまう発言など、読む人によっては不快かもしれないが。)

ここでは、主に戦争体験から来るお互いのちがいが、複雑に交差しているのだが、簡単に図式化してみれば、

吉本ー原理的=硬直=切実さ
鶴見ー状況的=余裕=絶望

ということになる。いくつか発言を拾ってみる。
鶴見「どんな思想でも対象をまるごとつかめない。思想は、何かの器とか象徴を媒介にしていて、本人にとってさえ意味が揺れ動いているものです。」
吉本「あいまいさは残らないのだということが1つの原理として組み込まれいなければ、それは思想じゃない。~思想というものは、極端に言えば、原理的にあいまいな部分が残らないように世界を包括していれば、潜在的には世界の現実的基盤をちゃんと獲得しているのだ。」

吉本からの鶴見への批判としては、村上一郎という人の言葉を借りる形で、「昔、わりに名門の子どもたちを集めて座談会をやったとき、鶴見さんが、自分は総理大臣になるか乞食になるかどっちかだ、というふうに発言したので、村上一郎はびっくりしたっていうふうなことを言っている。いまでもおそらく鶴見さんには、そういう意味のラジカリズムがあると思うんです。だけど鶴見さんが、そういうふうに言えるということは、それ自体たいへん恵まれていることを意味するんじゃないのか、自分にはとてもそれだけ言う力はなかったと村上一郎は言っている。そこのところから、鶴見さんの身をやつしたいという願望が思想家としての原動力にもなっているんでしょう。またある意味で、中間段階でコミュニケーションを重ねていけば、何かそこから出てくるかもしれないという着想の根源になっているというふうにぼくには思えるわけです。」
この名門の子どもの座談会っていうのが、謎ではありますが、、、、。
要は、吉本は鶴見に、あんたがあいまいさを許容するのは、精神的に余裕があるからだよ。と言っている。
そして、余裕があることに自責があるから、どうでもいい(と吉本から見えるべ平連とかに)に身を挺しているんじゃないの、そして何もうまれるわけがない人たちと手を組んでいるんでしょ、、、と言うわけである。
この座談のシリーズの中には、小林よしのりから安部譲二、南しんぼうまで多種多様のメンバーが含まれ、それらを鶴見さんが、ちょっと首をひねる程いちいち絶賛している。それは、やはり精神的余裕がもたらすものと言われればそうであろうし、日本的な柔構造、無限抱擁、という感じもある。小林よしのりとの対談においては、絶賛しつつ、南京事件のことで牽制する(偶然かも?)ことを言ったりしているが、ともあれ、これらの人に対して、ズブズブなのは間違いない。ズブズブというか、まるでいかようにも誉められるという技を見せているかのようだ。
吉本は、これらの点は、鶴見のいい点でもあり、弱点でもあると言っている。

それに対して、鶴見の見解が示されているわけではないが、対談の中で繰り返し披露される「シニズム」というのが一応の返答になるのではないか、と思う。つまり、余裕と見えるもののすべてではないが、ある部分はシニズムから生まれているとの自己省察があるようだ。
鶴見「わたしは自分の狭さをおそれずに言えば、政治に関するかぎりはシニシズムだな。~戦後の初めの5年間は、シニシズムに対しては失望的なことばかり起こったんだ。というのは、もう少し頑強に抵抗するであろうと思ったファシストが全部、生まれながらの民主主義者みたいな顔をして、どんどん論壇に登場してくるわけです。~、そのうちに、こと昭和35年以降、ついにひっくり返っちゃって、次々と戦後民主主義は虚妄だったとか、いろんなことを言い出した。そのとき、シニックとしては不思議な快楽があるんです。やっぱり自分の考えたカーブのとおりに動いた。その快楽は他人には伝えがたいね。~吉本さんは不必要に、バカ野郎、バカ野郎と言っている。そこが違うんだ。わたしはそこのところで楽しむから、それが出ない。」
このシニシズムは、当然のこととして自分の身も蝕む。それは、絶望に近い。
鶴見「わたしはあの戦争で死んだかもしれないわけで、いつもあの戦争より、より多く自分の目的に合っているかどうかを考えるのです。ここには、何の場合についてでも完全に自分の目的に合致する行動のチャンスはないだろうという人間の条件についての前提があります。わたしは、何でもそうとうなにせものだ、どんな政治目標でもにせものだと思うのです。安保闘争の目標だって、かなりにせの部分を含んでいた。~、しかしこの程度のにせなら、その人たちと同体に倒れたっていいという考え方でした。ベトナム反戦でも、わたしはこの運動のなかにあるにせの部分は小さくないと思います。しかし、自分にとっての反戦感情のもともとの原型である戦争体験と絡み合わせてみると、これで死んでもいいと思うのです。」
鶴見の思想的な寛容さは、戦争で死ぬ予定だった自分の「死者の目」から生まれている、という認識が語られている。そのような超越的な視点が、ある客観性を自分に対しても、もたらしている。
一方、吉本に対しての鶴見の批判は、その体系化、硬直、純粋さに向けている。
鶴見「(戦後マルクス主義に)対抗する力としてはあれだけごり押しにやらなきゃいけないんだということはわかるわけなんだけども、あんなに硬直した体系をつくらなくていいんじゃないか。」(言語にとって美とは何かを評して)
鶴見「わたしが吉本さんに一つ批判をもっているといえば、わたしには純粋な心情というのがいやだなという価値判断が抜きがたいのですよ。」
それに対して吉本は、体系といってもいくらでも修正できるようにつくってある、ということと、そのように硬直化や純粋化していくのは観念としての自然過程で、そこからもう一度、大衆的なものを見ていくというのが知識の過程である、ということを言っている。
吉本の話で印象的なのは、戦争中に自分は加害者であった、つまり戦争を熱烈に賛美していたということだと思うが、その時においても英語教師を学生らが吊し上げをすることに対しては嫌悪感があった、あったが結局吊し上げについていってしまう、という話。それで、絶対にいかなる吊し上げに対しても肯定しないと言っている。
ある共同性があって、それが個人をやっつけるというのに対する嫌悪感というのは、吉本の思想の源泉の1つが語られていることになる。そこから自己(あるいは他者)の内面性に対する擁護と、そこから共同体が生む心性とのズレへの鋭敏さと、それに裏付けられた理論化がなされた。
一方、鶴見は反戦主義者として軍隊に入り、そこで、ボソボソと軍隊への不安を陰でいっている万年3等兵みたいな人たちの中で、戦争中をどうにか生きてきた。

鶴見はズレる中に可能性を見、吉本はズレを理論化することに可能性を見ている。

二人の対談は、他の論点も面白いが、このことのバリエーションであるともいえる。そして、結局は、戦争経験や素質のちがいとしか言えないような地点まで二人の思想の地肌を露出させている。

そして、余裕のあるはずの鶴見が、安保闘争の国会突入した中で、死んでもいい、と、一見上は純粋な態度になり、純粋な吉本氏が、自分の命と引き替えにはできない、と一見上はとまどう態度になるという逆転が面白い。しかし、それは、二人の自分と社会(共同性)に対する考えからすれば、当然のことである。

さて、いきなりだが、ぼくが読みながら考えたのは以下である。
自分の立ち位置は、鶴見の方にどっちかといえば近いような気がする。時に、態度を余裕があるものとして、それが、たとえば、男である、という社会的立場に拠っているとして批判されることもある。また、何かを批判する人のその硬直ぶりが気にかかることもある。
しかし、こう思う。
何かを批判している人、怒っている人、切実な人が、硬直するのは当然のことである。また、一面的に見えるのも当然である。怒るという心的状態が、硬直する、ということと切り離せないものだからである。硬直しない怒りというのは、あり得ない。そして、それは、そのようなある意味不快な心的状態を代償にして、何かを訴えているのであり、それを思っても、耳を傾けるのが倫理である。
そこから、なるべく多くを受け取るべきである。
と同時に、自分が怒る時には、怒ることをやめずに、しかし、なるべく多面的に自分を見れたらと思う。なぜなら、怒りは、共同の心性に吸い上げられやすく、自分を見失いやすいからである。

しかし、鶴見はこうも言っている。

わたしが万が一、人を殺すようなことがあっても、殺すのはよくないという方向に何かの力で向いていたい。それは南無ということかもしれないし、何でもいい。紋切型にすぎない、そういう型が人間としては最終のことなんだ。それは言語とか人間の表現のかたちの、一種の抜けられざる宿命なんですよ。
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by isourou2 | 2012-02-29 00:06 | テキスト

日本精神分析(柄谷行人 文芸春秋 2002)

柄谷氏が「資本制=ネーション=ステート」の3位一体として現代社会を解釈しはじめたのは、2000年くらいかららしい。それから、何回か図書館から借りたけど読んでない大著「世界史の構造」(2010年)まで、10年間、いわばこのアイデアをずーーと書いている。おそらく、話は精緻化し構想は広大になっているのかもしれないが、基本的には同じことを言い続けている。
これは、どういうわけか。
「思想家」の誕生。
それが特異なものであっても文芸批評家としてやってきた柄谷氏は、批評対象がまずあって、それによって思考を展開してきた。しかし、2000年にいたって、柄谷氏は、批評対象の反射として変化する批評ではなく、自己の思想を定立しそのことを実践し追求する立場へとシフトチェンジした。
この「資本制=ネーション=ステート」というアイデアがどこから生まれたのか、何かの影響という風にも言っていない(と思う)以上、今までの思考を熟成したあげく天から降ってきたオリジナルなものということになるのだろう。ポストモダンな思潮を通り過ぎてきた以上オリジナルを標榜することはないだろうが、しかし、やはりこの思考に取り憑かれたのは、そのオリジナル性であり、また不謬性ゆえでしょう。
つまりは、「資本制=ネーション=ステート」を出せば、ハハーと伏す、印籠になっているわけです。
そして、この「日本精神分析」です。
ぼくは、柄谷氏のことをなんとなく気にしているという程度の人文書の読み方なのですが、それにしてもこんな本があるのは、知りませんでした。それは、たぶん、この本の奇妙な立ち位置にも拠っている気がします。
あとがきに
「つまり、本書はいつのまにか、芥川龍之介、菊池寛、谷崎潤一郎という大正作家についての文芸評論となった。私は文芸評論をやめたと考え、また、人にもそう言っていたので、これはわれながら意外であった。私は根っからの批評家なのか、と思った次第である。」
ここでの各作家の作品の取り扱いは、柄谷氏の問題意識にかなり強引に引き寄せたものになっています。菊池寛に至っては「今日話すことは、別に文学論ではないし、菊池寛論でもありません。話の成り行きから、それにふれないわけにはいかないという理由で、話すだけです。」という扱いです。しかし、それは熟練たる批評家としての余力も感じさせる、面白いものです。つまり、この本は、批評家と思想家の間で揺れる柄谷氏を看取できるわけです。
そして、根っからの批評家なのか、という慨嘆は、思想家になることの不安を暗に現してもいるような気がします。
ただ、批評から、つまり対象である文芸から、離れられないのは、単に長年の習慣という理由だけではないでしょう。それが、思想というものに付きまとう欠落を補填する相補的なものだからです。
文芸というものは、批評にも(1つの視点)にも還元できないし思想でもない、それらとの緊張関係にあります。
人間の感情の動きを捉えようとする文芸は、システムへの還元に対する緊張関係にあり、また、最終的にはシステムへの復讐を含むものです。
柄谷氏は
「私は、権力を志向する人間性は変わらないと思います。しかし、同時に、人間性がまったく変わらない、とも考えません。「人間性」は、菊池寛がそう考えたように、ちょっとしたシステムを変えるだけでかなり変わってしまうのです。」
と語っています。菊池寛がそう考えたかどうかはわかりませんが、、。システムがもたらす定型的な人間性の相関を描くのが文芸ならば、また、そこから踏み外す予測できない人間を描くのも文芸です。そして、柄谷氏が批評家であるのは、柄谷氏の意図とは異なるかもしれませんが、文芸の後者の側面と触れあう必要があるためでしょう。それは、批評の表には出てこないことなのかもしれませんが。
柄谷氏の文芸に対する評価の高さにはそういう機微があるような気がします。
柄谷氏は、日本文化の無原理性、包容性などについて「私は、社会科学、思想史、心理学などの本をたくさん読んできましたが、芥川の短編小説以上に洞察力をもったものに出会いませんでした。」と書いています。
これは、ものすごい高い評価ではないでしょうか。その小説は「神神の微笑」というものです。あんまりよく出来た小説でもないような気もしたのですが、、、。
話しは、逸れますが、でも、この明治・大正・昭和(高度成長くらいまで)の文学者は偉かったのではないか、、という気もこの本を読んでしてきました。古本屋で、チラと立ち読みしたのですが、金子光晴の「日本人の悲劇」という本があって、これは古代から現在に至るまでの日本の歴史を扱った本みたいだった。とにかく、自分なりに歴史を語るくらいの勉強は、なんとなく色と酒みたいな印象である金子光晴だってやっている。いや、たぶん、金子光晴の醒めた厭戦思想は、アジアからヨーロッパまで歩いた見聞と深い歴史認識がもたらしたものだったのかもしれないから、偉い人だったのかもしれず、でも、そのような人が結構いたような気がする。この本に出てくる坂口安吾にしても芥川にしても夏目漱石にしても然りだろう。
なんか今の文学者は、そういう感じでもないなぁ、と思う。これは、前回の鶴見俊輔に言わせれば、きっと「転向」の問題、あるいは転向を強いるほどの大きな社会変動の問題かもしれません。
話しを戻して、そういう批評家と思想家の振り幅の中から、「資本制=ネーション=ステート」の3位一体を武器に思想家として出立していった柄谷氏は、その思想の実践として、NAMという運動をはじめ、Qという市民通貨を発行を始めた。本も「生産協同組合」から出すようになり、活発に活動をしました。(ここは、「ニッポンの思想」(佐々木敦より))しかし、この運動は、メンバー間のトラブルなど複数の問題によって、2年半で潰れてしまう。この経緯については、今もって、明らかにされていないことが多いらしいです。ぼくも、きちんとした説明や総括を読んだことがありません。しかし、ぼくは、勝手に、これは文芸の復讐ではないか、と思っています。
つまり、このような世界全体の解釈をする思想(理論)は、その間隙から文芸的なものが侵入し、復讐するに至る。
ぼくは、柄谷氏は、文芸を対象をする批評へと戻ってくるか、小説を書くようになるかもしれないと思います。
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by isourou2 | 2012-02-10 22:35 | テキスト

戦時期日本の精神史1931ー1945(鶴見俊輔 岩波書店1982)

鶴見俊輔のイメージというのは、思想界の淀川長治、というか、、、。
いつもニコニコして、良かったですねぇ、と言うというイメージであった。
しかし、「日本人の振り幅」という対談で橋本文三氏が言っている。
「ぼくの印象に残ってた鶴見さんというのは、日本に生きているよりもロシアに生きて、ドストエフスキーの作品の人物になったほうがいいというイメージをもっていた時期があったんです。~、非常に暗かったですね。その暗さがふつうの暗さと違うんだ。あれはドストエフスキーしか書けないような暗さだとぼくは勝手に考えた。」
同じ対談で鶴見氏は、自分のことをこう言っている。
「やさしさじゃないんです。鈍になったんだ。それだけが振り幅なんだ。自分の予測できなかった大きな揺れ。びっくりしたな。これがわたしにとって少なくとも主観的には人生最大の転向なんですよ。~、つまりペシミズムからの転向ですよ。」
この著作の元になったのは、カナダの大学での英語での1979年から80年にかけての講義だから、先の対談(1977年)以降だ。それにも関わらず、ここには、かなりの複雑さを持った鶴見俊輔の姿がある。未明の深みに沈殿する思考というのが続いている。
そして思えばこの本の翌年には、浅田彰の「構造と力」が出てニューアカブームが起こるのだから、この本で鶴見氏が追求している「転向」ということ柱にした様々は、何とも「暗い」主題に思える。スキゾキッズとか言っていたのでは、「転向」という主題は出てこない。ような気もするが、そうでもない。ここで展開されている思考は、おそらく浅田彰が理念として現そうとしたことが、無理のない形で実現されているようでもある。
この無数のエピソードがちりばめられた本は、そもそもエッセイなのか思想書なのか歴史書なのかもよく分からない。
原理や理念に還元できないということを前提として、それでも枠組みを作りながら生きていく人間をその振り幅の中で浮かび上がらせるような、常に決定できなさを含んだ思考が行われている。
この本の底に流れるのは、吉本隆明の「転向」論との相克だと思う。(たぶん、浅田彰の仮想敵も吉本だったのではないだろうか。)
先の対談では鶴見氏は
「吉本の視点は画期的なものなんだが、~、そんなに非転向というものを簡単化してはいけない。非転向が1つの思想として生きられたものとすれば、必ずそれは揺れ幅をもっていたし、自らの揺れ幅に対する計算をふくんでいたと思うんです。こういう状況に入ったら自分はこういう風に揺れるんだろうなということが、あらかじめ自分のなかで大きな勘としてとらえられている。そういう思想の設計をするのでなければ、思想として重大ではないとわたしは思うんです。」
吉本氏の転向論は読んでないけど、この本での説明では以下のようだ。
「転向とは、近代日本の社会構造に自分自身を投入して考えることに失敗した結果、知識人のあいだに起こった観点の移動である。このように定義することによって、吉本は1930年代の状況と有効に取り組むことのできなかったすべての例を転向という中に入れました。転向はそのとき、すべての非効果的な思考に対するもう一つの名前となり、獄中共産党によってなされた非転向を含むことになります。」
これは、たしかになかなか鋭い着想っぽいです。ここには、「大衆と知識人」「理論と現実」などの問題系が含まれそうです。一方、鶴見氏の転向の定義は、がっかりするほど常識的です。
「国家の強制力行使の結果として、個人あるいは個人の集団に起こる思想の変化」。
吉本氏の定義が国家の強制力による変化と見えることを、知識人の自らが抱える問題の顕在化という捉え返しをしているのに対して、鶴見氏の見解には面白味がないような気がします。しかし、鶴見氏が見ようとするのは、(ここが独特なところですが)「私は転向の結果として現れたさまざまな思想の中から実りあるものを明らかにしたいという希望を持っています。」ということです。
転向(非転向)を単に錯誤の面から見ようとするのではなく、現実の中にある思想とはあらかじめズレと振り幅を持っていて、そこに希望をみる考えとの違いともいえそうです。そう言った意味において、どこか人生につきまとうペーソスが感じられる本でもあります。
そして、ここにおいて、思想界の淀川長治、という印象はおそらくそれほど間違ったものでもないと思い当たります。(たぶん、淀川さんも暗くて複雑な人だったのでしょう。よく知らないけど、、、。さよなら、さよなら、さよなら。)
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by isourou2 | 2012-02-10 22:33 | テキスト


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