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NHK鉄の沈黙はだれのために 番組改変事件10年目の告白(永田浩三 柏書房 2010)

内容は、冒頭の一文に集約されている。
「本書は、2001年1月30日に放送されたNHK教育テレビ「ETV2001」シリーズ「戦争をどう裁くか」の第二回「問われる戦時性暴力」の内容が、国会議員らの圧力によって放送前に改変された事件について、当時NHKの番組担当プロデューサーであったわたしの体験と、その思いをつづったものである。」
つまり、その後裁判にもなる出来事の一方の当事者の手記である。
ぼくは、この本は一気に読んだ。最近、一気に読んだ本は珍しい。決して、うまく整理された本ではない。話は、あちこちに飛び、エピソードの軽重もよく分からなかったりする。しかし、この本を一気に読ませるもの、それは著者の書かずにはいられないという、それも一番つらいことを書かずにはいられない、という真摯で強い気持ちである。それには、読んでいて何度も心を揺さぶられた。彼のその思いは、メディアというもの、テレビというもの、ドキュメントというもの、に向かっている。
「番組改変事件によって蹂躙されたのは、まず、なによりも、番組制作の現場なのだ。~事件によってわたしというプロデューサーが蹂躙された、被害を受けたと言いたいわけではない。それどころか、わたしは加害者のひとりである。」
著者は、相当な覚悟でこの本を書いていることが伝わってくる。自分の加害者としての振る舞いについてもかなり書き込んでいる。
番組制作の現場が蹂躙されたという意識と、自分が加害者であるという意識は、おそらく同時に存在し、同時にやってきたものだろう。なぜなら、これは、NHKという組織のシステムが生んだものだからだ。そのシステムの被害を現場が受けた、という自覚は、そのシステムの中にいる自分が他者に対して加害をしているという自覚、と同時に発生する。NHKというシステムと書いたが、それは、会社というシステムでは常態として発生し、日本という社会を覆っているものでもある。そのシステムの中で、充分に奇怪にふるまう人々の姿をこの本は描き出している。そのような奇怪さこそが、被害であり加害のあらわれである。それに耐えられない人たちも描かれ、それは胸を熱くする。著者もまたそのような人である。しかし、そのような自覚が著者に訪れるには5年近い時間がかかっている。
著者は、ドキュメンタリーの仕事を降りてからは、NHKアーカイブスの仕事をやり、その後、学校に通って精神保険福祉士の資格をとり、武蔵大学教授として地元の密着する形の活動を続けている。このようなアーカイブスで仕事(あるいはNHKドキュメント)の振り返りを行い、さらには人生の振り返りをしていく流れはよく理解できる。
福祉専門学校の実習で、統合失調症の人が多い作業所でキャンドルをつくりながら著者はこう述懐する。
「これまで、ひたすらに番組を世のなかに送り届けてきたが、それは本当に豊かな時間を届けることになっていたのだろうか。喧噪と騒音を届けただけだったのではないだろうか。」
この社会、特にそれを凝縮しているような会社という社会(システム)を相対的に見ることが出来て、ようやく被害も加害も浮かび上がってきたのだろう。それは、その中で守られ生きてきた人にとっては生木を裂くような苦しみ、時間のかかることだったろうと思う。その上でも、著者が、なぜ、この番組に登場している慰安婦への謝罪を一人一人行ったり、話しを聞きにいこうとしないのか、という疑問は残る。この本は、著者のこれまでの経験や手法が活かされた生生しいドキュメントであり、具体的なメディア論に結実している。それだからこそ、価値があるともいえる。でも、そのことにどこか陥穽があるような気がする。ドキュメントは事実をして語らしめる、黒子に徹する、と本書に書かれている。そして、黒子の立場を踏み越えたことで、恐ろしさと恥ずかしさで身がすくむ思いだ、と書いている。この番組改変で起きている事態は、編集段階で安倍晋三や中川昭一といった政治家からの「偏向」という批判をうけ、次々とカットし、国際法廷に批判的な論者を追加し、ということを番組放映の1時間半前で繰り返し、ズタズタな番組を作ったということだ。メディアは公正であるべき、不偏であるべき、という時に、その公正や不偏の評価軸や視点はあらかじめ決められてはいない。その評価軸や視点をつくるのは、その人の思想である。だから、偏向、という批判に対して、自分の軸の設定を守るには、思想が必要になる。もちろん、大きな権力からの検閲をさせない仕組みをつくることは大切だ。しかし、メディアの自主独立を守るには、そのような思想も必要だったことが今回の出来事からは、はっきり読みとれる。そして、思想というのは、会社などのシステムや組織という仕組みの中からは本当は生まれない。なぜなら、それは「当事者」であることを回避する仕組みであるからだ。思想は「当事者」しか必要としていないから「当事者」の中からしか生まれない。(当事者、という言葉をある幅、様々な立場、を含む上で使っている)。この本の中で著者は、従軍慰安婦や天皇の戦争責任ということについてどう考えるか、という思想について多くを語らない。しかし、それなしには、話しは完結しないような気がしてならない。このようなことは、現代社会を生きる「当事者」として語りうるはずのことだ。(とはいえ、ぼくも自信はないが)。著者は、当事者とメディアということをかなり突き詰めて考え、メディア論を超えて(それこそ黒子を超えて)当事者としての思想の手前まで来ているようにみえる。そして、そのような思想がなければ、取材という立場ではなく、慰安婦と対面することは難しいことだろう。
また、もう一点気になるのは、この本の中で活写されているNHKの内部は、パワハラの温床のような感じがすることだ。メディアの職人の徒弟的な世界がまだ存在し、それは著者にとって懐かしい人間くさい世界としてあるのだろうが、しかし、上司から罵倒されることが常態化しているようにも読める。加害の認識は被害の自覚と共にやってくるとしたら、このようなシステムの中で、蹂躙されているのが、冒頭引用のように「番組制作の現場」だけではなく、著者自身でもあったことの自覚が、今回の出来事で被害をうけた人たちを著者が理解することに必要なことのような気がする。
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by isourou2 | 2014-11-03 15:23 | テキスト


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