奇怪ねー台湾(青木由香 東洋出版2011)

最近、海外旅行づいている。昨年、香港、今年はもうギリシャと台湾に行った。もちろん、他人のお金で(ある意味でビジネス)旅行である。成田まで行くお金がないくらいなので、そうでもしないと海外へは行けない。
海外に行く前には、出来ればその国についてよく知っておきたいと思う。それが、お邪魔する方の礼儀だと少しトンチンカンかもしれないが思っている。しかし、実際はそんな時間がない。地球の歩き方に載っている簡単な歴史を機内で読む程度になってしまう。地球の歩き方、というのはお守りみたいな感じがあり、もちろん買わないが、必要そうなところは図書館で借りてコピーしておく。地図とか、電車の乗り方とか、空港マップとか。でも、実際に使うのは、地図だけだ。電車とか空港とかは、初めての人でも分かるように作られているものだし、聞けばどうにかなる。ただし、街はそこまで親切ではない。でも、地図だって、現地で手に入る可能性が高い。だから、何となくのお守りである。
台湾に行くとなって、図書館で色々と台湾に関する本を借りた。しかし事前に読了したのはこの本だけだ(あとは、旅先で「台湾ナショナリズム(丸川哲史)」を読み終えた)。
この本は意外にいい。台湾の雰囲気が伝わってくるのである。つまり、地球の歩き方みたいな情報とも、歴史書のような情報とも違う、肌合いや体温といういわく言いがたい情報。それが、本の装丁を含めたところで伝わってくる。ああ、こういう感じか、という、、、少なくとも美大女子の視点からはこういう風に見えるのか、そしてぼくの中のそれらの人たちを思い浮かべてみれば、だいたいなんか台湾の肌合いが(ある種の客観性を帯びて)位置づけられてくる。それで、なんかぼくはホっとしたのだった。
そう、この本のテイストは、美大女子っぽい。といっても、ぼくが知るそれらの人たちはもう15年以上前のことだけど。多摩美(著者が卒業)や武蔵美、女子美や京都造形大、といったもろもろの学校(それの作風の違いまでぼくはよく知らない)の学生の感じがある。というか、そういう人が社会に出て、そういう感じでは生きていくのは難しく、いろいろ苦節もあり台湾にたどり着きノビノビとした、という遍歴を感じる。そのテイストが本に生かされている。基本的には、ぼくは嫌いではない。嫌いにはなれない。
この本で直接役だったこともある。まず、台湾のトイレは紙を流さないこと。拭いた紙は、くず箱の中に入れる。それではトイレが臭くなりそうだが、そうでもない。トイレの作法はその風土に根ざしたものだから合理的なのである。理由は分からないが臭くない。
もう一つは、台湾の人が人前であがらない、という指摘。旅の采配をしてくれた(展示のキュレーターの)女の人は、なんていうか日本的感覚からすると大らかというか細部を詰めない感じの人だったが、人前で話す時は立て板に水のようにトウトウと立派な人のようだった。よく分からなかったのだが、これは、きっとあがっていないせいだろうと思った。というか、韓国の人も中国の人も日本の人ほどあがらないような気がする。自然体だ。
ただし、彼女いわく、細部をつめない感じはぼくがそういうことを嫌うタイプの人と読んでのことだった、そうだ。そう言われるとたしかに反論しずらいが、そういう決めつけをして平然としているところがなかなか大ざっぱとも言えるし、また立派だとも言える。
自分と人の差を気にしない、という指摘もそうかもしれない。旅先で、ぼくは一人でやたらに他人に気を回している自分に気づいた。まわりは、なんかもっと好き勝手に自然体で生きている。それでいてとても親切だ。日本は島国で狭いから常に他人を意識して細かい調整をしないと生きていけない、みたいなことが頭に浮かんだ。けっこう息苦しい社会だということが、なんか他国の肌合いにふれると実感できる。
この本には、へんてこなものや少しズレているものを偏愛する美大女子が、その価値観で生きていける場所を探して台湾に出会い、ちょうどよく花開いたという著者のバックストリーが込められている。
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# by isourou2 | 2015-07-05 23:51 | テキスト

物語 近現代ギリシャの歴史~独立戦争からユーロ危機まで(村田奈々子 中公新書 2012)

ギリシャの近現代史。様々な哲人や巨大な遺跡、そして民主主義の発明でその名を輝かせる古代ギリシャでも、経済が破綻しヨーロッパの鬼子となっている現在のギリシャのことでもない。どれくらいの人が関心を持つだろうか。
また、正直言って、日本に住む自分にとっては、その古代ギリシャにしろ、今のギリシャにしろ、それほど身近な存在ではない。ギリシャに行く前に、自分の本棚を探してみるとギリシャ哲学の本が3冊、経済破綻に触れたものが1冊あったが、いずれも未読。教養として押さえておくべきだろうが、切迫した興味の対象ではなかった。
だから、ギリシャ(アテネ)に5月に2週間ほど滞在するという予定がなければ、この本に手を出すことはなかっただろう。
しかし、、、面白い。著者の視点が確立されており、歴史を語るとはこのようなことを指すのだと感得した。このタイトルにある「物語」は(シリーズものであるから深い意味がないかもしれないが)、近代のギリシャという国がどのような物語を編むことによって国としての統一体を作ってきたのか、という問題設定への示唆があるのだろう。また、著述という統一体を作ることは、ある視点からの物語であるという意識を明示するものでもあるはずだ。つまり、歴史家が歴史を語るというのは、ある物語に対する批評的な物語である(べきだ)。
だから、この本は、「物語」という言葉で通例想定するような<やさしい><噛み砕いた><子ども向け>とかいう内容ではない。

と、ここまで書いて間が空いてしまった。そのため、これから内容に触れようとしていたのだが、それはちょっと難しい。
ただ、このギリシャという小国がヨーロッパの大国との間で様々な駆け引きすることと表裏一体に自らのアインディンティティを模索・確立していく様子が描かれている。特に、言語をめぐる話には啓発されることが多かった。なので、序章の後に第三章「国家を引き裂く言語」から読んで正解だった。
そのような大国との関係・独自性の模索、というギリシャの歴史の流れは、借財をディフォルトしてEU離脱するのかどうかで全世界の注目を集めているたった今現在まで脈々と続いていることが分かる。

ギリシャ滞在の感想を少し。
帰ってきてから、1ヶ月がたってのギリシャの印象は、「途方にくれている」というものだ。街には、乞食をしている人が多く、電車に乗れば必ず、自分の窮状を訴えながら小銭をもらう人が現れる。その時、その声を耳にしながら、乗客たちは少しだけ凍り付き、彼らがあきらめて過ぎていくのを待っている。広場では、難民が寝泊まりをしている。しかし、広場にはトイレも水もない。彼らは、アラビア語で訴えるが、その意味はギリシャ人には分からない。炊き出しには、女の人や小さな子供がかなりいる。この現状をフォローするために、動いている人たちはいる。でも、多くの人は、どうしてこうなってしまったのか、分からないだろう。政治家が悪い、私腹を肥やしている、公務員が多すぎる、と理由をあげても、なお納得には至らない。そして、どうすればいいのか、はなおさら分からない。インテリそうな人に、EUを離脱する方がいいのか、聞いてみたが、やっぱり明確な答えをする人はいなかった。難民排撃を訴えるネオナチなど極端に分かりやすい主張の政党に人気が集まり、それらしい若者が電車でシュプレーをあげる。やはり、乗客は眉をひそめてそれを見ている。そのような状況の中で、途方に暮れている、そんな印象を持った。
人だけでなく建物も、廃屋になっても建築途中でも、費用がなくて町中でそのままになっている。
グラフィティはアテネはものすごく豊富にあるが、それを見る人に熱意がない。つまり、消す熱意も共感する熱意もないように感じた。放置されているのだ。野良犬がうろつき、子猫がたくさんいる。
もちろん、その下では旅行者には見えないちがう動きがあり、それが形になるまでの過渡期なのかもしれない。嵐の前の静けさということもある。きっとやってくる大きな変動は、前述したように、ヨーロッパの小国としてのギリシャのアイディンティティの模索の歴史が重要な因子となることは間違いないと思う。
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# by isourou2 | 2015-07-05 23:50 | テキスト

独学者のための英語学習本ガイドコーナー4

今回は、軽い英語雑学本を取り上げてみよう。あんまり、机にかじりついて勉強ばかりしていても疲れてしまう。寝ころびながら、あるいは、電車の中とか少しの空き時間で読むのに適した本。それで、それなりに役立てば言うことはない、というあたりのラインにある本。おすすめというよりは、たまたま身のまわりにあった本にすぎないが、いくつかレビューしてみる。ただし、これらを定価で買うのはバカげている。無駄に蔵書を増やしても仕方ないわけで、図書館で借りて一読するので十分(もしくは破格値の古書で買うなら悪くはない)。

●「よろしくお願いします」と英語で言いたいあなたへキャノン英語マンから20のアドバイス(リチャード・バーガー 朝日新聞社 2008)

表紙には、胸に<英>と書かれたシャツを着た背広姿の著者(英語マン)。なぜかその姿は呼吸のために水面に首を突きだした亀を思わせる。中にはアメコミっぽいイラスト多数。かなり面白本狙いの企画くさく見える。というより、無味乾燥になりがちな英語本をどうやって面白く見せるのかという苦闘がやけに伝わってくる。(こういうアメリカ人のステレオタイプを逆用した見せ方の路線というのは、1000本ノックシリーズとかいろいろある。ある意味、ハートで感じる英文法もそうかも)。しかし、それがそれほど嫌みな感じはしない。基本的に本の内容がとてもしっかりしているのである。しかも、だいたい2時間もあれば読破できるだろう。ぼくにとっては、20のアドバイスがどれもが有意義だった(中には少しピンとこない話題もあったけど)。会話(ビジネスに限らず)や英語でのコミュニケーションの初心者なら得るものがあるはず。英語になった日本語で「hantyou(班長)」=責任者、「skosh(少し)」があるとは知らなんだ。あと、英語の顔文字や略語もこの本以外でこんなに取り上げているのは見たことがない。
日本人の英語下手に対する著者の共感的な態度が伝わってくる良書でもある。でも、もちろん、1400円出して買うようなものではない、とアドバイスしておきます。

●英会話どうする?(里中哲彦 現代書館 2003)

もともとは、英会話以前、というタイトルするつもりで書いたという本。英語(学習)にまつわるエッセイだが、全部読んだわけではない。でも、この本の有用な部分が集約されているのは第2章だろう(章のタイトルが「英会話以前」なので著者もそのつもりだろう)。特に「勘違いにご用心」で列挙されている名詞・動詞・形容詞・副詞の使い方のところ。ぼくは知らないことが多くて、そうなんだー、と思わされた。そんなに量はないから、ここだけは数回読んでもいい。あとは、イギリス人の不満、というアメリカ英語に対する思いを書いた(推測した)部分も勉強になった。あとは、ペーパーバックの読み方で「最初の50ページだけは丹念に辞書を引く」という作戦を勧めているのは、なるほど!。最初の方で出てくる単語は、その後のページで繰り返し出てくるという指摘は的を得ていると思う(ちなみに、ぼくはまだ原書は一冊も読めていないが。)
あと、なぜか英語(学習)の本で目につくことが多いのだが、性的なことに絡んだことを書く時の著者の姿勢がいまいち気分良くない。なんか、著者のオブセッションが中途半端ににじんでユーモアには感じられないのである。

●英語のツボー名言・珍言で学ぶ「ネィティブ感覚」(マーク・ピーターセン 光文社知恵の森文庫 2011)

この本を読んだのは少し前。軽い雑学の本といっても、かなりの量があるし、出てくる英文は初級のものとは限らないので読破するのにそこそこ時間がかかった。
なんといっても、マーク・ピーターセンである。腐っても鯛である。それに別に腐ってないので、アラでも鯛、というところか。よく出来た丁寧な本である。読み切り3ページくらいで、その名言のキーフレーズや重要な言葉の活用では英語の勉強になり、その名言の背景説明や人物紹介で社会常識も学べる。難しい単語には訳語もついているので辞書がなくても良い。ハンディなので読む場所も選ばない。そして、値段も良心的だ(なので、前2書とはちがって買っても損はないかも)。名言・珍言もけっこうバラエティがあるので楽しめる。時間がある時に再読してみたいと思っています。
ちなみに、この本で取り上げられているグラウチョ・マルクス(マルクス兄弟の1人)の「I don't want to belong to any club that will accept me as a member」という言葉は、ウディアレンの「アニーホール」の冒頭で主人公(アレン)がもっとも好きな言葉(か人生訓か)で取り上げていたもの。この映画のキーワードにもなっていた。この本のいくつの言葉は英語ネィティブの精神に深く浸透しているのかもしれない。




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# by isourou2 | 2015-04-15 00:31

通じる英語・上達のコツ(平澤正夫)

発音記号を読めるようになれ!という新書版の本である。そして、これはけっこういい本のように感じた。まず、発音の本なのに、CDが付いていないという心意気が気に入った。ぼくのように、本メディア好きだとどうも、本にCDやましてやDVDが付いたりすると、気分が乗らない。あくまで、文字で音を表現するという難問に立ち向かう努力が著者の真摯さに思えてしまうのだ(勘違い)。
それはともかく、発音の本でこれですべてを網羅しているという完全なものはあるのだろうか。管見では見当たらない。そのため、結局複数の本から自分なりの発音を組み立てないといけない。
読解に中心を置いている(という古典的な英語学習方法の)自分だが、さすがにもう少し話せてもいいのではないか、フォニックスの次に行ってもいいのではないか、、、と思いたった。しかし、次に攻略すべきと思われる発音記号自体が、この本と手持ちの辞書でも異なるところがある。辞書の間でもちがう。また、「t」はこのような時はラ行で読む、とか様々なルールがあるが、なぜそれを表す発音記号がないのか、、、結局はどこまで詳しく発音を分析してそれに対応する記号をつくるのかという程度問題なのだろうが。また、その音の正確さよりも、他の音との識別が重要なのだろうが、発音記号だけではそのようなところまではなかなか分からない(気がする)。
その一方で、発音記号は世界中の言語の発音を表すことも出来るという話を聞いたことあり、発音記号全体の仕組みというのから本当は分かる必要もありそうだ。つまり、この発音記号という奴をどこまで信頼して付き合っていける奴なのかが、ぼくなどにはよく分からない。そういう不安の中で、この本は、ところどころ、エッセイ風になったりして、アレレ、という感じもありつつ読み終えてみれば類書の中でもポイント絞ったところはかなり詳しい。ただし、網羅的ではなく、著者の経験に基づいて大胆に発音(記号)の説明を取捨選択している。
フォニックスから、そろそろ発音記号にトライする必要があるのかも、と思って読むのにはそこそこ良かったようだ。フォニックスの基本的な知識、つまりはスペルから発音へのルールについては、この本には何も記されていない。逆に、フォニックスの本だけだと、弱母音やフラップTやリエゾンやアクセントの規則などのことはほとんど分からない。だから、相補的であるといえる。あと、長めのテキストを使って読み方を解説しているところもあるのだが、、、正直、音声が聞けたらなぁ、、、と(矛盾)。
あと、著者の左翼っぽいスタンスがなんとなく見え隠れするが、ぼく的には、それは嫌ではない。ただ、アメちゃんだって、とか言い出すのは興ざめである。
日本人は東南アジアではリラックスして英語をしゃべるのに白人のネィティブ(WSAP)を前にすると話せなくなるのは、東南アジア人に対する差別的優越感なのではないか、という著者の指摘はそのとおりだろう。しかし、それだけではないようにも思う。アジア人同士が、意思疎通するのに、英語が必須というこの倒錯的な状況の不自然さの苦さ滑稽さを共有するがゆえに、話しやすいこともあるのではないかと思う。一方で、英語ネィティブの多くは、英語が世界共通語であることを当たり前だと感じている。そのような無自覚で傲岸な自信を背景にして「正確に話そうとしすぎる」「日本人はシャイすぎる」などと善意の英語ネィティブに励まされても、こちらはしどろもどろになるばかりだ、、、、、。
この本を読んで、コピーがうたうように「あなたの英語が大変身する!」という実感は全くわかないが、ほんの少しは進歩した気になる。
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# by isourou2 | 2015-02-17 22:56 | テキスト

ほんとうの中国の話をしよう(余華 飯塚容訳 河出書房新社 2012)

中国に行くかもしれないので、中国に関するものを読んでいる。
中国国内で発禁処分、と帯に大書してある。
そして、表紙は真っ赤であり、明らかに毛語録に模倣していて、日本語タイトルもまたどこかで聞いたようなものになっている。
内容は、文革を少年時代に過ごした筆者の当時と経済中心になっている現在を比較する視点で様々なテーマをとりあげ、エピソードをちりばめたエッセイである。このエピソードが、どれも興味深く、だれないで手際よくまとめられている。戦後の中国の変転のダイナミックな激しさは、強い政治主導が1つの原因であるのは確実だろう。そのような中で、生き抜くためにそれを冷静にみる目は、民衆のもの(知恵)だったろうし、また芸術の視点でもあるだろう。つまり、この両者が重なる条件が現代中国にはあり、魯迅(10のエッセイのタイトルの1つだが)から、この著者まで脈脈と流れているもののような気がする。
「革命とは何か?過去の記憶の中から引き出される答えはさまざまだ。革命は人生を不確定要素に満ちたものにする。人の運命は一朝一夕で、まったく変わってしまう。ある人はとんとん拍子に出世し、ある人は奈落の底に落ちていく。」
著者の革命に対する解釈は平凡なものだが、しかし、生活の実相からみれば、革命の結果とはこのようなものとしか言いようがないだろう。そして、理想や理念よりも、このようなところに革命の魔力も、このようなものでしかないその限界もある。
10のエッセイの最後の2つは、現在の中国ではやっている2つの言葉「山寨」「忽悠」をめぐってだ。「山寨」はコピー、物まね、という意味で、「忽悠」はデタラメ、騙し、ということ。もちろん、この本の装丁とタイトルは、このことを意識しているだろう。秀逸なあとがきの末尾にはこう記されている。
「私はこの本で、中国の痛みを書くと同時に、自分の痛みも書いた。中国の痛みは、私個人の痛みでもあるからだ。」

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# by isourou2 | 2015-01-23 22:20 | テキスト

NHK鉄の沈黙はだれのために 番組改変事件10年目の告白(永田浩三 柏書房 2010)

内容は、冒頭の一文に集約されている。
「本書は、2001年1月30日に放送されたNHK教育テレビ「ETV2001」シリーズ「戦争をどう裁くか」の第二回「問われる戦時性暴力」の内容が、国会議員らの圧力によって放送前に改変された事件について、当時NHKの番組担当プロデューサーであったわたしの体験と、その思いをつづったものである。」
つまり、その後裁判にもなる出来事の一方の当事者の手記である。
ぼくは、この本は一気に読んだ。最近、一気に読んだ本は珍しい。決して、うまく整理された本ではない。話は、あちこちに飛び、エピソードの軽重もよく分からなかったりする。しかし、この本を一気に読ませるもの、それは著者の書かずにはいられないという、それも一番つらいことを書かずにはいられない、という真摯で強い気持ちである。それには、読んでいて何度も心を揺さぶられた。彼のその思いは、メディアというもの、テレビというもの、ドキュメントというもの、に向かっている。
「番組改変事件によって蹂躙されたのは、まず、なによりも、番組制作の現場なのだ。~事件によってわたしというプロデューサーが蹂躙された、被害を受けたと言いたいわけではない。それどころか、わたしは加害者のひとりである。」
著者は、相当な覚悟でこの本を書いていることが伝わってくる。自分の加害者としての振る舞いについてもかなり書き込んでいる。
番組制作の現場が蹂躙されたという意識と、自分が加害者であるという意識は、おそらく同時に存在し、同時にやってきたものだろう。なぜなら、これは、NHKという組織のシステムが生んだものだからだ。そのシステムの被害を現場が受けた、という自覚は、そのシステムの中にいる自分が他者に対して加害をしているという自覚、と同時に発生する。NHKというシステムと書いたが、それは、会社というシステムでは常態として発生し、日本という社会を覆っているものでもある。そのシステムの中で、充分に奇怪にふるまう人々の姿をこの本は描き出している。そのような奇怪さこそが、被害であり加害のあらわれである。それに耐えられない人たちも描かれ、それは胸を熱くする。著者もまたそのような人である。しかし、そのような自覚が著者に訪れるには5年近い時間がかかっている。
著者は、ドキュメンタリーの仕事を降りてからは、NHKアーカイブスの仕事をやり、その後、学校に通って精神保険福祉士の資格をとり、武蔵大学教授として地元の密着する形の活動を続けている。このようなアーカイブスで仕事(あるいはNHKドキュメント)の振り返りを行い、さらには人生の振り返りをしていく流れはよく理解できる。
福祉専門学校の実習で、統合失調症の人が多い作業所でキャンドルをつくりながら著者はこう述懐する。
「これまで、ひたすらに番組を世のなかに送り届けてきたが、それは本当に豊かな時間を届けることになっていたのだろうか。喧噪と騒音を届けただけだったのではないだろうか。」
この社会、特にそれを凝縮しているような会社という社会(システム)を相対的に見ることが出来て、ようやく被害も加害も浮かび上がってきたのだろう。それは、その中で守られ生きてきた人にとっては生木を裂くような苦しみ、時間のかかることだったろうと思う。その上でも、著者が、なぜ、この番組に登場している慰安婦への謝罪を一人一人行ったり、話しを聞きにいこうとしないのか、という疑問は残る。この本は、著者のこれまでの経験や手法が活かされた生生しいドキュメントであり、具体的なメディア論に結実している。それだからこそ、価値があるともいえる。でも、そのことにどこか陥穽があるような気がする。ドキュメントは事実をして語らしめる、黒子に徹する、と本書に書かれている。そして、黒子の立場を踏み越えたことで、恐ろしさと恥ずかしさで身がすくむ思いだ、と書いている。この番組改変で起きている事態は、編集段階で安倍晋三や中川昭一といった政治家からの「偏向」という批判をうけ、次々とカットし、国際法廷に批判的な論者を追加し、ということを番組放映の1時間半前で繰り返し、ズタズタな番組を作ったということだ。メディアは公正であるべき、不偏であるべき、という時に、その公正や不偏の評価軸や視点はあらかじめ決められてはいない。その評価軸や視点をつくるのは、その人の思想である。だから、偏向、という批判に対して、自分の軸の設定を守るには、思想が必要になる。もちろん、大きな権力からの検閲をさせない仕組みをつくることは大切だ。しかし、メディアの自主独立を守るには、そのような思想も必要だったことが今回の出来事からは、はっきり読みとれる。そして、思想というのは、会社などのシステムや組織という仕組みの中からは本当は生まれない。なぜなら、それは「当事者」であることを回避する仕組みであるからだ。思想は「当事者」しか必要としていないから「当事者」の中からしか生まれない。(当事者、という言葉をある幅、様々な立場、を含む上で使っている)。この本の中で著者は、従軍慰安婦や天皇の戦争責任ということについてどう考えるか、という思想について多くを語らない。しかし、それなしには、話しは完結しないような気がしてならない。このようなことは、現代社会を生きる「当事者」として語りうるはずのことだ。(とはいえ、ぼくも自信はないが)。著者は、当事者とメディアということをかなり突き詰めて考え、メディア論を超えて(それこそ黒子を超えて)当事者としての思想の手前まで来ているようにみえる。そして、そのような思想がなければ、取材という立場ではなく、慰安婦と対面することは難しいことだろう。
また、もう一点気になるのは、この本の中で活写されているNHKの内部は、パワハラの温床のような感じがすることだ。メディアの職人の徒弟的な世界がまだ存在し、それは著者にとって懐かしい人間くさい世界としてあるのだろうが、しかし、上司から罵倒されることが常態化しているようにも読める。加害の認識は被害の自覚と共にやってくるとしたら、このようなシステムの中で、蹂躙されているのが、冒頭引用のように「番組制作の現場」だけではなく、著者自身でもあったことの自覚が、今回の出来事で被害をうけた人たちを著者が理解することに必要なことのような気がする。
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# by isourou2 | 2014-11-03 15:23 | テキスト

独学者のための英語学習本ガイドコーナー その3

英文読解の透視図(篠田重晃、玉置全人、中尾悟 研究社1994)

もう20年前の参考書である。でも、おそらく現役で活用されているだろう。誰に?もちろん、受験生である。
難関大学の長文読解のための参考書なのである。著者は、河合塾講師。そんなもん、今さらやる気するか。というか、受験勉強などしなかった口だから、今さらも何もないのだが、学校英語・受験英語の弊がこれだけ説かれている今、40才を超えて受験参考書をやるなどというのは、たしかに何か違う。相当な説得力がなければ、目的の是非を問わない闇雲さなどすっかりないのだから、ページを開く気すらしない。しかし、この本(参考書)は、その説得力がある。
学校英語・受験英語の偏りや無効さをその結果から説く人は多い。というか、これだけの難題をこなす勉強をして、有名大学を出てもちっとも英語をはなせない人がたくさんいるのは事実だろう。しかし、それをいう前に、英語以外の学校の勉強、受験勉強は何か役に立っているのか?おそらく、何も覚えていないし、全く役に立っていない。それが、問題にされないのは、単にそれを必要とする機会や状況がその後のほとんどの人の人生にないからだ。英語の場合、それなりに、必要とする機会はある。英語で道を聞かれたりすることは誰にもあるが、いきなり物理や数学の知識が要求されることなどない。しかし、たとえばそのような知識を必要とする分野で活動している人にとっては、高校での知識は前提として十分に役立っているはずだ。
英語の場合も同様である。ほとんどの人にとって、英語は必要がない。だから、実用する機会がないので、勉強してもすぐに忘却の彼方へと葬られる。脳だって、使わないことを貯めとくほど在庫整理が下手ではない。しかし、その他の教科とちがうのは、たまに、場合によっては切実に、必要とする機会が存在するのが英語だという点だ。その時になって何も出来ないことと、過去の懸命な勉強の対比が、学校英語や受験英語への批判や不信の底にはある。でも、使ってないのだから、忘れたのは当たり前。数学の公式、何か覚えてますか。
と、受験英語を弁護するのも自分ながら謎ではあるが、要は、受験英語も実用の必要が前提ならば役には立つはずだろう。ましてや、いい加減大人であろう著者たちは、受験という事態に対して、そのむなしさも熟知しているだろうし、またその子供だましの職業的要請もまた下らないものであることを日々思っているであろうから、その要請に応えつつもそれを超えた部分で本当に将来に役立つものをどうにか組み入れたいという思いは、抑えきれないでしかるべきだと思う。と期待する。また、予備校講師は、学校教員という枠に納まれない部分と学校教育よりさらに受験マナーである現場、という屈折を抱えた人たちだろうと思う。想像する。
そこで、「英文読解の透視図」である。とりあえず、一読した。ほぼ毎日やって約1ヶ月。10ページくらい進むのに1時間以上はかかる。とにかく内容は濃い。パズルのような入試試験の長文をテキストにして、間違えやすいポイントを徹底的に扱っている。その読み解き方は、文型(主語・目的語・補語)と各詞の働きという平易で基本的なもので一貫性があるのが、特徴である。その読解においての読み誤りやすいポイントと解説は、ぼくにとっては非常に参考になり、また教材として隅から隅まで手抜きが全く感じられず続けられる安心感がある。その内容の濃さゆえに、時間がかかる作りにかかわらず、読了できたわけである。おそらく、非標準的語順を含む長文読解において、かなり有効なのではないかと思う。しかし、なぜ、そのような形に(たとえば、倒置とか移動とか強調とか)なっているのかという文法の原理的な説明はほぼない。そのような追求よりも、いかに読みこなすかというところに力点がある。それは受験参考書の限界でもあるが、読解の実用においてもそのような追求は必ずしも必要ないだろう。ぼくのような人文的発想の人はそういう原理的な部分に興味を持つのだが。なので、情報構造や機能文法といった、最近の受験参考書でも取り入れられている、原理的な部分は欠落している。よって、ライティングの上達にはこの本は直接的には役立たないだろう。あくまでも、読むにはどうするか、という追求であって、ただその丁寧さの熱量は半端ではない。
しかし、最後にある、JSミルを引用した卒業問題をやってみて、暗然とした。ぜんぜん読めてない。
うーーん、もう一回やるべきか、、、。
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# by isourou2 | 2014-10-24 21:30 | テキスト

エンジョイ・アワー・フリータイム(岡田利規 白水社2010)

面白いものを読む、という体験を現代詩、と名付けてみたい欲求がある。つまり、ぼくにとって、面白い読み物を現代詩といってもいいわけだが、それがどのようなジャンルであれ、読んでいるうちに、これは現代詩だと感じるようなもの、それがぼくにとって面白い読み物なのだ。それは、体験としてやってくるようなものだ。言葉の、言葉たちの、様々な要素の質感の中で作られる空間に対しての意識が鋭敏に働いているものが現代詩であり、それへの参入が読むという行為である。
伊藤比呂美の、笙野頼子の、川上美映子の、そしてはじめて読んだが、岡田利規の、最良の部分というのは、ぼくにはそう感じられる。
そして、岡田氏の場合(とここで、このような場合の通例として失礼にはあたらないだろう呼び捨てではなく、なんとなく氏とつける方がふさわしいような感触がこの作品にはある)に、特異なのは、言うまでもなく、これが演劇作品の戯曲だということだ。
つまり、ある空間を構築することを前提として言葉が並んでいる。また読む場合も、そこには、うっすらと舞台が浮かんでくるようである。演劇なのだから、空間を作るための他の(たとえば舞台美術や照明など)参加も想定されているだろうし、なにより現実の生身を持った役者という存在が不可欠だ。そのようなものとして演劇は舞台を空間として形づくるための様々な試行としてある、しかし、そのように演劇を考えるのはおそらく間違っている。少なくともそれは現代詩ではない。観劇が耐えがたい時間の強制となるのは、そのような空間の捉え方のためである。
むしろ試行されるべき、思考されるべきなのは、何もしなくとも舞台という空間があらかじめ客の前に成立してしまっているという事態、そこに何かが出現すればすでに演劇がはじまってしまうという事態、そこにおいて空間の感覚が安易なものになってしまうという事態、にどう対抗するかということだ。
このような事態は、言葉、という事態においても、本質的には同様であり、それに対する拮抗を、ここではあえて、現代詩と呼んでいる。
演劇におけるそのような事態に対抗するために、岡田氏がもがいていることが、その作品を質の高い現代詩にしているということでもある。そして、それが具体的な現場を持つということによって、その抵抗が緊張度を継続させうる要因になっているのだろう。また、それが妥協や制約をも生むだろう。あとがきにはこうある。(というか、このあとがきは、ここで書いたことを巡ってのことだと私には感じられるから、どこをとっても、良いようなものだ。)
「わたしは、自分の書く戯曲が、上演を形作っていくために必要なさまざまなことについての決定権を、できるだけ持たないものであるようにしたいと思っている。、、、それは、戯曲というよりも、単にテキスト、ということなのかもしれない。、、、「フリータイム」を制作中のわたしの念頭にあったのは、現行の「フリータイム」よりももっともっと抽象的な、構成をほとんど持たない、単に断片の集積でしかないような、テキストだった。けどれも、それは叶わなかった。そこに届くのに、挫けてしまったのだ。いつか、それに届くテキストが書きたい。そのときわたしは初めて、自分が劇作家であるということを、つまり、自分のテキストが誰かによってどこかの稽古場で作られる演劇に対して、その創造性を妨害するのではなく反対に奉仕できるものとして機能するものだということを、確信できるだろう。」
岡田氏が挫けてしまったのは、それは、岡田氏の頭にある演劇(それは、安易に空間を作ってしまう、すでにある空間としての劇場を含むもろもろの現実的なシステムだろう)によってである。それらの現実的な条件をぬけたところに未知の演劇はあり、またそのためのそれらの桎梏に縛られない戯曲=テキストがあるはすだ、そのようなテキストを書きたい、と岡田氏は言っている。しかし、ついにそのようなテキストはなく、それに届きたいという試行だけがある。なぜなら、演劇という事態、のその奥には、言葉、という事態があるためだ。つまり、戯曲がテキストになったとしても、問題はちがうレベルで繰り返される。演劇という事態へのテキストによる抵抗、拮抗、挫折、の軌跡にこそ岡田氏の行っていることだろうし、その現場との緊張度こそ作品を形づくっているものだ。あとがきを読むと岡田氏の感じている現場は、劇場よりも稽古場であるような印象だが、そこでの空間が劇場よりも、たしかにはるかに生成的なものであるだろうことは想像できる。(素の役者、言い間違え、時間終了を告げる管理人、、、)。とすると、今までの話とは少し違っていて、岡田氏は劇場よりも稽古場を焦点にして、その稽古場の制度への介入を戯曲でなそうとしていることになるのかもしれない。
たとえば
「男優5 ~~この人たちになにかこっちの価値観で言ってもある意味しかたない、みたいな雰囲気の、そういう、雰囲気という形での、(溝)、
女優2 えー、うるせいよって、だったら言えばいいのに、思っているんだったら、」
という会話での(溝)というのをどのように解釈するのかというのは、稽古場において問題にならざるえないだろう。そのまま、括弧溝、と読むのか、溝はあってもなくてもいいという意味で受け取るのか。しかし、ぼくが読んだ時の印象としては、この(溝)は言葉の連なりからの突出を感じて、男優5と女優2との溝、という設定に対する言及にも思えた。(誤読だと思うが)。つまり、ところどころにある「間」という指示に似た、溝、という指示にも思え、溝という指示を具体化するのは一体どのようなことなのか、と。このようなことは、稽古場では問題になっても、劇場(上演)ではその問題になった痕跡は残らないだろう。生成的でありながら演劇という制度に縛られもしている稽古場への介入が岡田氏の真骨頂であることは理解できる。そして、この、(溝)、という表記は、やはり現代詩だと思うのである。また、当然、岡田氏は、稽古場から劇場への移行したときの戯曲的介入の変質にも注目せざるえないだろう。
また、これらの戯曲の内容は、派遣労働や労働環境のことを巡っているが、単に時事的なことを取り上げたわけではないだろう。演劇の空間と労働環境の空間の結びつきがあるのが感じられ、それが作品の強度を高めている。

というところでほとんど内容的な部分は、さらっと触れて終わるつもりだったが、最後のエンジョイを読んでみたら、そういうわけにもいかなくなった。
なぜなら、ここでの登場人物でもあり(最後に通り過ぎるだけだが)、話題になっていることでもあり、また全体に影さすようでもある、ホームレス、という存在は、私自身でもあり、また、身のまわりにいる人たちでもあるためだ。この戯曲においては、マンガ喫茶の店員(バイトで30代)から見たホームレスについてを描いているところもあるわけだが、それに対して、私はホームレスからそれを見返すことのできうる位置にいる。
実際のところ、私も急にマクドナルドの店員がやってきて「お客さん、週に何回利用されていますか?」と牽制以外の理由が思いつかない質問をしてきたりするし、知人たちからマクドナルドを追い出されたことについての相談も受けている。
ちなみに、ホームレス対策(ここではジーザス対策と呼ばれている)は、マンガ喫茶(とここでは言われているが、今ではネットカフェですよね)は身分証明書が入店時に必要なため、そもそも、ホームレスの利用が現実的に難しくなっている。この戯曲でのカウンターでの店員による水際作戦というものと、現在は状況が変化している。
この戯曲の空間は、ホームレスから見返す視点が排除されたところで成立している。最後に通り過ぎる、という指示によって、かろうじてそのような視点を提示しているかのようで、そうではない。ここでは、お互いの臭いを店員の男女がかぎあう側をホームレスが通り過ぎることによって、店員のホームレスになる可能性への不安を提示するにとどまっているためだ。
(もし、ぼくが演出家であったら、通り過ぎる、という指示を(拡大)解釈して、このホームレス役に、10分かけて通り過ぎるように言うかもしれない。そうする時、この戯曲の意味はだいぶ反転するかもしれない。)
岡田氏が、ホームレスからの視点を排除した理由は、それを描くことができなかったということではなく、この(一般)社会というのは、ホームレスからの視点を排除することによって、ホームレスということが暗然たる影を投げかけている社会であるためだろう。つまり、ホームレスという存在が、常にメタファーとして効いている社会なのである。メタファーとして社会の意識や無意識を反映しながら規制し、つまり枠組みを作りだしながらも、それは実際の存在として目の前におり、そして、誰もがなる現実的可能性もある。そのような中で、そのメタファーに発言や振る舞いを整序される形でホームレスは言葉を奪われる。しかし、現実に目の前にいる以上、そして、それが自分と地続きである以上、その存在がメタファーに沿わない可能性は常にある。そういう社会への侵襲と社会からの新たな線引き・再メタファー化が繰り返される波打ち際にホームレスはいる。その線はそれなりに揺らいでいる。
そのような揺らぎを含めた(一般)社会の様相をこの戯曲は上手に描いている。しかし、それだけでは物足りない、それはもちろん私がホームレスであり、またその社会で生きているからである。ただし、それ(社会からの新たな線引き・再メタファー化の繰り返しを戦略的に分析して戦うこと)は、何より、私や私たちのやるべき課題だ。ホームレスの視点の安直な導入という(ありがちなこと)は、メタファーの固着という効果しかもたらさず、それはゆさぶりどころか揺らぎすら結果しないだろう。岡田氏は、ここまで(一般)社会の縁取りを正確に行った上で、それと演劇空間を重ねる形で、壊す作業をこれ以降の戯曲で行ったといえる。
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# by isourou2 | 2014-08-22 00:19 | テキスト

自転車日記(夏目漱石 1901 漱石全集第12集 岩波書店)

単行本未収録。ホトトギスに掲載されたエッセイというべき小作品で、漱石の公刊されている文章としては最初期にあたる。(我が輩は猫である、が1903年から連載)。
ロンドンで漱石が下宿の老婦人に自転車を勧められ、自転車を試すことになるが、うまく乗りこなすことが出来ずに終わったというだけの実に他愛のない無邪気な話である。しかし、ここでの自由闊達な筆さばきはもの凄い。平易な題材を腕の切れ味を試し、示し、楽しむために選んだともいえる。だから、ここで伝わってくるのは、抽象的なもの、あるいは感覚的なものの質である。もちろん、ユーモアがある。むしろ、ユーモアしかないともいえる。自転車で曲乗のように坂を駆け下るだけな場面も、曲がりやすい方にしか曲がれないために友人に街案内しても同じところを巡ってしまうことも、度重なる落車も衝突も、それは少しバスターキートンの無声映画にも似たおかしなシーンである。それらのシーンは、自分を相対化した目、相対化とだけでは言い表せない変幻な目で描かれている。それゆえのユーモアである。国木田独歩が「武蔵野」を書いて5年後に、ここまで自由な筆致が展開できる漱石には感嘆する。ここに横溢する愉悦の感覚は、自分と文章の間に幾多の流路を切り開くという快そのものからやってきている。そのようなことが漱石に可能だったのは(それが漱石の異郷での体験なのか、知識なのか、育ちなのか、漱石についてはよく知らないのだが)、変幻な視点によって、流路をつくりうるだけのひような「空き地」を心的に造作できているためである。
それは、逆にいえば、そのような空き地を必要とするだけの逃れがたい苦しさや固執さぜるえない自己が漱石にあったということでもある。初期から晩期の重苦しさへの変化というのは、そういう観点で理解できるような気がする。(といってちゃんと読んでないけど。)。ここまで考えてきて、この過剰なくらい自由闊達な筆で自転車を自由に乗れないことを書いたエッセイは、その対比の妙とともに、自由闊達さの挫折をもどこか暗示しているようでもある。

*ここでの文体で思い起こしたのは、昭和軽薄体。とすれば、吉本隆明が椎名誠を「自殺を禁じられた太宰治」と評したことがあったけど、むしろ「胃腸の丈夫な夏目漱石」と言った方が良かったのかもしれない。
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# by isourou2 | 2014-07-02 00:06 | テキスト

『ワレサ――希望の男』(アンジェイ・ワイダ2013)

招待券をもらったので、岩波ホールまで観に行った。ワイダ監督の作品も見たことない(白黒だったなぁ、、としか覚えていない)し、ポーランドの歴史が分かるかなぁ(連帯って何だったのだろう??という)程度の気持ちで、あんまり期待をせずに観に行ったのだが、これが、、、、本当に凡作だった。生ける伝説、というのがキャッチコピー(ワレサのことでなくワイダのこと)だったが、これでは、死せる伝説か、生ける屍、だなぁ、、と。まぁ、それは言い過ぎか。
ダメ出しすると、ワレサを家庭と政治運動に引きさかれる存在に描き、その一方の家庭を守る役割としてワレサの妻を描く、それが史実がどうかよく知らないが、この構図によって何とも陳腐なメロドラマになっている。仮にそれが事実としてあったのだとしたら(たぶんある程度そうなのだろう)、そのことをどう描くのかというのが映画に批評性を持たせるはずなのに、妻は夫(男)は外へ、妻(女)は家に、そして妻は夫を支える、という前提を単にベタになぞるだけだ。そんなジェンダー視線もないメロドラマで共感が得られると思っている監督の浅はかさ。そういうベタさは、妻役の女優が美人すぎたり、ワレサが単なる物まねをたいして超えていないようにしか見えなかったり、ということにも現れてなんだか居心地悪い。
あと、劇中の音楽は、ポーランドのオールドパンクバンド(たぶん)ぽい音で、当時の若者の気持ちを表しているのは理解できるのだけど、ワレサ本人とはかなりのズレを感じる。ワレサって人は、日本でいえば演歌や民謡でもカラオケスナックで歌っていそうな感じだった(この映画の印象だけど)。なんとなく監督が年だけど感覚は若い、ということが言いたいのか?と勘ぐってしまった。
外国人の辣腕そうな女性ジャーナリストとワイダとのインタビューを映画の軸にしているのだが、こういう構成もそれほど面白味はない。ワレサの年代記や成長物語、などを丁寧に作った方がすんなり受け取れたのではないだろうか。全体としては、雑な気がして、結局、ワレサの人間性や考えも、ポーランドの歴史も、連帯についても、あまり伝わってこなかった。
*今、監督の年齢が87才だと知って、そこまで高齢だと思っていなかったので、この年齢で映画が作れること自体が素晴らしいようにも思い、内容についての評価はあんまり変わらないけど、ワイダさん偉い、とも思いました。
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# by isourou2 | 2014-05-20 01:57 | 映像


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