独学者のための英語学習本ガイドコーナー その2

●「日本人の英語」「続日本人の英語」「実践 日本人の英語」「心にとどく英語」(マーク・ピーターセン 岩波新書)

英語学習本には、外国人(ネィティブ)が日本人に向けて書いたという1ジャンルがある。その代表格がマークさんだろう。同ジャンルには、T.Dミルトン(ここがおかしい日本人の英文法)、ロジャー・バルバース(ほんとうの英語がわかる)、ディビッド・セインなど。その中で、マークさんの特徴は、自分で日本語の文章を書いているということだろう。後の人は、英語で書いたものを翻訳して本にしている。マークさんの日本語はちょっと信じられないほどに上手ではある。ただ、本人は「日本人の小説や優れたエッセイなどを読んだあとに自分の書いた日本語を読むと、どことなく不自然に感じる。」(実践)とする。それが感じられるというのだけでも卓越した日本語の感覚があるわけである。しかし、たしかにどことなく不自然にはちがいない。そのことから、分かることもある。つまり、日本人が英語で書く時に誤りやすいことを指摘したこのシリースの中で、マークさんが説明していることを逆にしたことが、英語を母国語とする人の日本語の使い方にもいえる。たとえば、英語は論理関係を大切にするのに、日本人は、論理関係を示す接続詞の使い方に神経が行き届いていないという指摘。マークさんの日本語が不自然である1つの理由は、ちょうどその逆で、日本語としては必要以上に論理関係をはっきりさせる、文章のつなぎ方をしているためである。日本語だったら、読み手で補うことが出来る「つなぎ」については、多少あいまいになっても省く方がすっきりするわけである。また、英文がぶつ切りになってしまう英文を子供っぽくみえると指摘しているが、逆にマークさんの日本語は長すぎるところがある。
語学の学習の目的が、とりあえずのコミュニケーション能力の確保を超えて、他の言語のくせや構造を知ることを通して、母語のくせや構造を知ることだとすれば、このようなことが分かるのは非常に有益なことだろう。ぼくなどは、まずは外国語をまるで話せない状態をどうにかしたいわけだが、本当に興味があるのは、言葉の構造を実感としても知ることである。なぜならば、母語のくせや構造が自分の考え方を大いに規定しているに違いないためである。

英語学習本を大きく2つ、ネィティブの発想・発音・綴り方を手本にそれに近づくべきだとするもの、と、通じれば日本人らしい英語でもよいとするもの、に分けることが可能かと思う。
もちろん、多数は前者であり、マークさんの本もまたそうである。後者は少数派だが、会話を中心にした本にそういう傾向の本が多く根強い人気がある。文章と会話という違いもあるにせよ、この2つの考えには溝があり、これらの本を同時に読むと混乱してしまうところもある。
マークさんは、日本人英語、カタカナ英語は、「もったいない」という立場である。つまり、英語は何が何でもネィティブに近づくべきという無理強いはしないものの、日本人英語では、誤解されやすく、内容が子供っぽく軽く見られることになるので「もったいない」というわけである。さらに、英語の使い分けが日本人に難しいように、日本語学習者が日本語の使い分けが難しいのであるから、それは「お互いさまの問題」で、お互いの言葉の論理を身につけていくしかない、というのがマークさんの持論である。
しかし、これにはぼくは簡単に説得されない。英語と日本語の間には、圧倒的な不均衡がある。英語は、半ば強制的に学ばなければいけないものとして日本人にとってあるが、日本語はそのようなものとして英語を母語にする人にあるわけではない。日本に住んでも英語のみで生活している人も多いだろう。日本語の習得に苦心するマークさんという個人とはお互いさまといえるだろうが、それは特殊なケースである。日本人英語を日本にくる人は勉強するか、または、国際語としての英語を英語そのものとは違うもの(簡略化したり)にするかして、ようやくその不均衡は少し是正され、お互いさま、といえる状態に一歩近づくことになるのではないか。
そういうことがなされないまま、ぼくたちは国際語としての英語の勉強を強いられているわけである。英語の勉強は、そのような不当な一面をかみしめることでもあることをマークさんは理解していないし、できないだろう。
そして、英語本の後者の立場は、その不当さの認識に意識的無意識的に立脚しているはずである。

マークさんの本はどれもためになるいい本だと思うのだが、その例文の選択において女性に対して否定的なものが多いのはどうしたことだろう。「心にとどく英語」では、意志貫徹の会話術という章に「女を侮辱する表現あれこれ」というものすらある。対になって「男を侮辱する表現あれこれ」があるならまだ分かるが、それはない。何か、女性に恨みかコンプレックスでもあるのか、それがマークさんの日本への愛着に関係でもしているのか、と勘ぐってしまう。たぶん、読むと不快になる人もいるのではないだろうか。

どの本もいいと思うが、英語の勉強するならおすすめは「日本人の英語」「実践日本人の英語」「続日本人の英語」「心にとどく英語」の順。

●ほんとうの英語がわかる(ロジャー・パルバース 上杉隼人 新潮社2001)

何度も版を改めている本である。英単語のうち、日本人が誤解しがちな単語について詳しく解説した本である。有益そうでしょ。しかし!この本の翻訳は、ひどすぎる。読むのが苦痛なほどひどい。いくら内容が良くても、これでは読む度にうんざりする。
翻訳がひどいと断定する理由は、訳者が後書きで、ロジャーさんの英文の見事さを「英語特有の音声と比喩の美しさをここまで引き出せる作家は、なかなか今の時代には少ないと思います」とまで誉めているのを一応信用するためである。そうだすると、日本語としてここまで読む気をなくさせる翻訳は、なかなか今の時代には少ないと思います、ということになる。理由は、これまた、単純でおもっきり直訳だからである。美しい英文をそのまま訳しても、美しい日本語にはならないのは当然である。訳者としては、英語表現の型を日本語への直訳を通して学ばせたいと考えているかもしれないが、それはいかに日本語として不自然かを通してしか学ぶことが出来ず、そのようなことが文章に対しての繊細さを持つだろう作者の意にかなったやり方とは到底思えない。読解のための注をつける形で英文のまま出版した方が余程ましだろう。
訳の意図が奈辺にあるかよりも、そもそも日本語に対してのセンスが訳者に欠落している問題のような気もする。そして、他の著作も同じ上杉氏に翻訳されているロジャー・バルパース氏は、不幸としか言いようがない。他の本を確認したわけではないが、この翻訳をみる限り、とても期待はできない。
もっとも、ロジャーさんは日本に住み日本語も使えるとのことだから、訳文のひどさに気がついても良さそうなものだ。もし気がついていないのなら、例え外国語が堪能になっても、母語の言い回しや構造にそっている文章について問題点を把握することが外国人にとっていかに困難であるかを示しているのかもしれない。
ともあれ、いつまでもこの翻訳のままで本を出し続けている出版社の見識を疑う一冊である。

*アマゾンの評を見てみたら、訳文が読みやすいという評価はあっても、読みにくいというのはなかった。うーーん、ちょっと言い過ぎたのかな。
適当に抜粋してみると「人間は、望ましい、あるいは理論的な意味にことばを落ち着かせようとします。ことばは1つの形から始まりますが、普通に使われているうちにだんだん変わってくるのかもしれません。」
なんだか分かりにくい上に、「人間は、望ましい、あるいは~」のような言い方は日本語としては、翻訳の中にしかないと思う。
「ぼくが1967年に日本の土を初めて踏んでからというもの、ほんとに目まぐるしいほどの変化がありました。当時はまだグレープフルーツが輸入自由化されていませんでした。それが自由化されて、ぼくはうれしいです。自由(FREEDOM)はいいことです。グレープフルーツのとっても。」
たぶ著者がユーモアをこめた部分だと思うけど、訳が下手でそれが伝わってこない。「それが自由化されて」などの代名詞を訳しすぎ。短文の効果も生きていない。グレープフルーツにとって、なぜ自由化がいいことなのか、、、というのがそもそもよく分からないがこれは原文の問題かもしれない、、、。
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# by isourou2 | 2014-05-05 00:18 | テキスト

坂口安吾全集5(ちくま文庫 1990)

坂口安吾を面白くないと思っていた。構成はぎこちないし、理屈が勝ちすぎてるし、なにより文章が下手だ。小説の繊細さを崇める一方、力技で壊そうとして逆に型にはまる、、腕力を持て余したボクサーが影と戦い消耗しているようなそんな印象。要は不良は不良でも消化不良なのだ。中上健次もまたぼくの中では同じような印象があり、なんで評価が高いのかよく分からない作家の一人だ。坂口安吾は、例えば太宰治の自在さとは天と地ほどの差がある。と思っていた。しかし、この全集5を読んで印象は一変した。
全部面白い、しかも駄作ほど面白い。(ただし、時代物である「2流の人」は読んでない。時代物やSFは、ぼくはなぜか関心が持てない)。この巻では、22年4月から23年1月にかけての10ヶ月間で発表した小説が集められている。よくぞこれだけ書いたものだ。きっと他にもエッセイなども書いているにちがいないから大変な熱量だ。坂口が乗りに乗っているのがよく分かる。ここでの坂口の筆はぎこちなさを脱し、自在さを獲得している。時代の無意識と作家の無意識が同調して、自分のどこを取り出してみてもかまわない状態がその自在を作り出している。戦後の焼け跡、それは坂口にとっての故郷であると同時に、坂口に活躍の場を保証するものであり、リアリティを与えるものであり、それだからこそ、坂口はこれほどの熱量をもって発言し小説を書き飛ばしたのである。ちがう文庫についていた作家の年譜をみて、坂口が50歳にも満たずに、1955年に亡くなっていることを知って、時代というものを考えさせられた。坂口は終戦時から10年間しか活躍していない。「もはや戦後ではない」と経済白書が言ったのが1956年であり、すでに経済は戦前の水準まで復調した。何より、焼け跡はなくなり露天商はマーケットにマーケットはデパートに姿を変えた。そのような時代の地殻変化を予示するかのように坂口は亡くなったのだと思う。後知恵にすぎないこのような感傷的な言い方が許されるとおもうのは、それだけ戦後の焼け跡の時空に坂口が深く一体だったためである。そのような特権的な芸術家はそれほどいるものではない。(ぼくが、思い出すのは、例えば、99年に若くして亡くなったフィッシュマンズの佐藤伸治のことである。90年代の都市に生きる20代30代の心情を深く描いた彼が、911後にどういう音楽が作れたのかと思うと、やはり時代というものの持ちえる冷酷な切迫を感じる。)
坂口にとって、なんで焼け跡が故郷であり「なつかしいもの」なのか。それは、そこに真実の人間の姿、裸の人間の姿があったからだ。この巻の小説において、それは繰り返し描かれている。ラテン語を解し、プラトンを論じていた哲学者が、焼け跡で飲み屋をはじめ闇屋になり金の亡者と化す(金銭無情)、特高隊員が生き残って女の取り合いをする(決闘)、仮に舞台が焼け跡でないとしても、既成の価値観が瓦解したあるいは通用しない場や心情で生きている人たちが好んで描かれる。つまりは、焼け跡で露呈する裸の人間の実質、が様々なバリエーションで描かれている。
人間の実質というのは、国や共同体がお仕着せで押しつける価値や制度ではない。それが、焼け跡で鮮明に現前化したがゆえに、坂口にとって焼け跡が故郷なのである。ただ、坂口がそのような人間の実質を単純に好んでいたわけではないだろう。むしろ、そのような俗に染まれない自分というものを思うがゆえに、そのような「実質」に愛着したという側面があったにちがいない。そのような「実質」に生きている人間は、評価などはしないし、もちろんそれを称揚しない。焼け跡が人間の実質だ、としたところに、坂口の小説の面白さが起因していると同時に限界もそこにあるだろう。焼け跡が「実質」なら、所与の制度や価値観に作られるのも人間の「実質」だからだ。どっちがどっち、というものではない。むしろ、焼け跡の「人間」は、状況の変化に依存する人間の可塑性を表しはするが、「裸の人間」というのはどこにもない幻想というべきか。焼け跡を「実質」とするのも、一つの型になり、それは坂口の小説の造形に単調さを作りだし、やがては桎梏になるのが予感される。坂口が、仮に幻想だとしても、手応えのある幻想を足場にして身を投じたのは、戦中兵隊にもならず左翼にもならなかった彼の「暗い青春」の代償が見いだしたものが焼け跡だったためだろう。「焼け跡」に可能性をみて、それに最大の賭け金を差し出したのが坂口の魅力だった。それが、存分に水を得ているのが、きっとこの時期の作品群だろうと思う。
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# by isourou2 | 2014-03-18 02:34 | テキスト

独学者のための英語学習本ガイドコーナー

プチ収集癖があるのである。それで、同じようなジャンルの本ばかりがある期間急増することになる。それらはたいていヅンドク状態。過去でいえば、気功関係、明治大正期についての本、最近でいえば、英語の学習本である。
英語についての本がいつのまにか、30冊くらいという事態に。で、まだほとんど読んでない。このままでは悔しいので、評価するためにも読むことにする。
ちなみに、私は英語の超初心者である。これまでの人生で何回か英語を話せるようになろうと試みた(NHKラジオを聞いたり)が、実を結ぶことはなかった。今年の1月に、20年ぶりに海外に行くことになり、英語の特訓をしようと思ったけど、時間がなくてまるでできなかった。飛行機に乗ったとたん添乗員の英語が全く聞き取れないことが判明しあせった。1週間の滞在で意志疎通の困難さにつらい思いもした。第一、海外まできて話せません、ではもったない。そこで、遅ればせながら本腰を入れることにした。
英語、に対する反感もある。一部の人の母国語が世界共通語になるというのは、どうもかなりおかしい。不公平だ。帝国主義でしょ。そういう違和感、反感もまた英語を忌避する原因でもあった、、、と言いたいが、しかし、実際は本気になるだけの必要がなかっただけだろう。今回は本気だ。そのつもりだ。30冊ある。はたして上手くなるのか。感想はどんどん追加していきます。

*アメリカの子供が「英語を覚える」101の法則(松香洋子 講談社2000)

図書館のリサイクル本にあった文庫サイズの本。
しかし、これは革命的。副題の「目からウロコの発音術」というのは伊達ではない。
英単語のスペルと発音の関係や法則をまとめたフォニックスを説明した本です。英語は、まずはここから始めた方がよいと絶対思う。
なぜ、中学でこれを教えてくれなかったのか。というか、ぼくらの中学の英語教師の発音は、全くネイティブに通じなかったので、それ以前の問題であるが。今は、中学(小学校?)でこれを教えているとの噂も聞いたが、まさに基礎中の基礎だから当然。フォニックスを知ると、単語のスペルを見ただけで発音が出来て、発音を聞いただけで単語を綴ることが出来る。(もちろん、例外もあって完璧ではない。)それだけで、どれほど英語の学習が楽になるか、その効果は計り知れない。
フォニックスについては、類書はいろいろあるけど、この本が解説が詳しいし、包括的だと思う。そばに置いておきたい一冊。巻末のスペルと発音記号のつきあわせ表はフォニックスから発音記号への橋わたしとして便利。
元になっている本が1981年刊行のため、発音の説明ががところどころ古い部分もあるかもしれない。(THやFの発音など)。しかし、それで困ることもないと思う。
ただ、フォニックスが分かれば、英語の聞き取りや発声も大丈夫なのかとはじめ勘違いしたが、あくまでも単語の聞き取り発音に有効、というもの。実際の文章の聞き取りや発声には、フォニックスだけではなく、強弱、省略、リエゾン、高低、などの文章や単語間のルールを知ることが必要。
繰り返し読んだ英語の本は、今のところこれだけ。本当の初心者には強力にプッシュします。

*英会話・ぜったい・続・シリーズ(國弘正雄・千田潤一 講談社2004)

入門編、標準編、挑戦編の3冊シリーズ。ちなみに、同様のタイトルで「続」がつかないものがあるが、ほぼ同内容らしく音声は「続」の方がいいらしい。ブックオフなどでは混在しているので、注意が必要。
入門編は中1・2、標準編は中3、挑戦編は高1、英語の教科書からテキストを10数個選び、それを朗読しているだけの実にシンプルな内容。主な単語の意味は書いてあるが、文法などの解説は皆無で実に薄い本。ちなみに、巻頭25ページくらいの國弘氏の解説はどの本も同じだから実質100ページに満たない。
とにかく、これらの朗読を聞き、音読して、筆写する、その様々の方法が説明してあるだけである。
しかも、1冊を終えるには毎日2ヶ月繰り返してやらないといけないとなっていて修行みたいである。徹底的に、音を頭に複写するという方法である。たしかに、やりきれば聞くのも話すのもそれなりに自然と出来るようになりそうだ。だが、これをやりきれる人はどれほどいるのだろうか、、、。ぼくはすぐに飽きた。
なんだか、手抜き本のようだが、特筆すべきことがある。テキストの読む音声が非常にクリアで質が高いことである。とても丁寧に作られているのが分かる。付属CDが音質やクオリティは、持っている本でこれが今のところ一番いいようだ。
だから、NHKラジオ講座をきちんと聞くなんてことが出来ない人(=私)が、この教材を使うといいのではないかと思う。
この本で推奨している苦行に近い勉強方法ではなく、好きなところを繰り返し聞いたり、この本で紹介されている方法を様々試したり、自分なりカスタマイズして使ってもよいのではないだろうか。
ブックオフで買った本は、巻末の自己評価の表への書き込みによって途中で挫折している様子が手に取るように分かる。挫折するくらいなら、このクオリティの高い朗読を自分なりの方法で活用する方がましな結果が生まれるのではないか、、、と期待したい。

*ブックオフで英語本を買う時のコツ

コツというか、まず付属CDやDVDが欠けていることがけっこうある。それを平気で高い値段をつけているので注意が必要である。また、書き込みがある本は、交渉によって格安にすることが出来るので、あんまり書き込みだらけでうんざりさせられなければ狙い目である。
辞書の類は10年前のものなら、100円から350円くらいで買える。それで、充分だと思う。最新版とそんなに内容は変わらないだろう。コストパフォーマンスで考えればとんでもなく安い。

*代々木ゼミ方式英文読解入門基本はここだ!<改訂版>(西きょうじ 代々木ライブラリー)

受験学習書である、、、しかも、予備校が出している、、、という時点で、受験生以外のたいていの人は気分が萎えるのではないだろうか。当然である。しかし、実は受験参考書はよく出来ている。効率よく学習するノウハウが詰め込まれているためである。(翻訳家の行方昭夫「英文快読術」(岩波同時代ライブラリー1994)においても、大学入試の問題の質の高さ、学習参考書の内容の良さをほめ、大人の英語学習の方法として再読をすすめている)
もちろん、こちらはテストで得点をとることが目的ではないので、若干ずれるところもある。
学習参考書に限ったことではないが、英文解釈と和訳、は似ているけど同じではなく、受験生でなければ和訳の機会はそれほどなく読みとりだけできればよい場合が多いだろう。この本も解釈と和訳の方法についての参考書である。

この本は薄い。150ページくらいである。そして、実質的に英文を読むときに役に立つポイント、誤解しやすいポイントが丁寧に解説されている。ただ、基本といいつつ、文法用語の説明はほとんどないので、そういう知識(中学校レベルの文法)は必要である。たぶん、これだけ分かっていたら充分に英文は読みこなせるのではないだろうか。
そして、この本の特徴は、著者の独白がところどころに挿入されていることである。そして、これが、ナルシスティックで実にうざい!ただ、うざすぎて独特のリズムをこの本に与えている。「・・・余談ですが、わたしの部屋の窓は森に面していて、雪で真っ白になった木々を見ながらこの原稿を書いています。(以下7行略)。じゃあね、SEE YOU LATER!・・・」という感じのものが随所に書かれてある・・・。しかも、例題からは、どことなく著者の妄想的恋愛観やコンプレックスが伝わってくる。それらに、受験生が励まされたり共感したりしているとしたら、それもまた、なんだか、、という感じ。(たぶん、そんなことにはなってないと思うが。)著者の個性を出すことによって、無味乾燥になりがちな参考書を読みやすくするという手法はさまざまな形で他でもあるが、だいたいあまり成功していない。著者の個性は、英語についての考え方や教え方で現れればいいので、それ以外の部分は余計である。この本の場合は、手法というのを超えて、誰にとっても不必要というところまで、独白がせり出していて、その意味不明さ、気味悪さがだんだんサイコな雰囲気を生み、読み終えた時には、親切な人でもある変態からようやく逃れえたような解放感がある。「・・・笑顔は自らにも他者にも新たな力を呼び起こすものです。つらければつらいほど、にこっと笑ってみることが解放につながる力を生むものです。この参考書は、以上で終了です。最後まで読み通せた自分に自信を持って、笑顔で終わりましょう。SMILE!・・・」
内容はいい。再読予定。

*再読しました。2回目はたぶん数日あれば読了できる。そして、内容が丁寧であること、そして間違えやすいポイントを押さえてあることがよく分かった。また、機械的な受験問題に対しての一定の距離もあり、そこに好感がもてる。文の書き換えなどにおいても、実際は意味がどう変わってしまうかを繰り返し書いているし、日本語らしく訳しかえることの問題も書いている。旧情報ー新情報、なども押さえてある。2回読んで、だいぶ整理がされたような気になった。ただ後半の倒置とか省略、同格などの部分は、概略しか書いていない。基本に重点を置いているので、それは仕方ない。(受験生ならずとも、英文読解の透視図、に進めばよいのではないかと思う)
あと、再読の良い点は、2回目は作者の独白(地雷)を飛ばして読めばいいこと。

*実は知らない英文法の真相75(佐藤ヒロシ プレイス2006)

またもや、代々木ゼミナール講師。
過去分詞、というのは、過去(つまり時制)と関係なさそうだ、ということに気づき、本の中にそのことについての「真相」が書いてあったので購入。
しかし、この本は誤植が多い。校正がちゃんと行われていない本というのは、参考書では致命的。
かつ、あやふやな説明も散見。たとえば、「「TO+原形」も未確定状態だから「TO不定詞」というのです。」
という説明は、間違いではないだろうか。
(意味上の)主語に対応して動詞の形が変わる(定まる)ことがないために「不定詞」と呼ぶはずである。(「英文法の疑問」大津由起雄)
また、TOO=TWO、だというのは、語源的には別だが語感的には似ていて「元は同じ」と考えるとすっきりする、というのが2ページにわたって書かれているが、首をひねらざるえない。2つを別に覚えればいいし、当然覚えていることだから、無駄な文章を読まされているだけである。
「真相」というわりには、こう考えた方が便利とか分かりやすいみたいなあやふやなことがいくつも書いてある。なんか、予備校教師の駄弁を聞かされているのではないかという不安が払拭できない本である。
中には有益な話もあるのだろうが。
ぼくが買ったのは初版本だが、初版本は誤植が多いのかもしれないので、注意が必要。
*追記 20150130
通読してみた。この素っ気なく予備校的なセンスのない表紙、そして、やけに目に付く誤植。それにも関わらず、実は内容は参考になる目から鱗なところがけっこうある。短い読み切りのためそれほど苦にならず読める。たしかに、序文にあるように重箱の隅をつつくようなものではなく、英語の核に触れるような骨太な内容も多く、この種の英文謎とき本の中で秀逸だと思う。ぼくのせいかもしれないが、今一つ謎ときになっていないところや、前に書いたように覚えることが増えるだけのようなところ、があるとは思うが、それほど多くはない。多いのは、何度も書くように、誤植。こんなに誤植の多い本は見たことがない。出版社も作者も、まじめに校正したとは思えない。そういう部分で出版側の誠意や意気込みが受け取れなく、本の価値が目減りしている。内容が悪くないだけに、もったいないことである。(ちなみにぼくは6カ所以上の誤植を見つけた。)本書の続編も出ているが、安ければ入手したい。
*追記 20150401
ちなみに、この本の印刷・製本は株式会社シナノである。最終的に誤植の多い本を出した責任は、著者と出版社にあるわけだろうが、その原因はシナノなのではないだろうか?ちなみに、田中 茂範氏の「表現英文法」という分厚い参考書があるが、ブックオフで見つけたが、巻頭のあいさつ文からして誤植があり買うのを控えた。(数日前に出た改訂増補版では修正されているのだろうか、、、気になる)。同書のアマゾンレビューには、「※ 以前に過去最悪のとんでもない誤植本にあたったことがあったが、印刷会社は忘れもしない本書と同じ シナノ だった。」という一文がある。同書には200か所以上の誤植があるとの指摘である。印刷会社がなぜ誤植の原因になるのか分かりにくいところもあるが、シナノの関連会社は編集業務もしており、そのためなのかもしれない。シナノは激安の印刷会社らしい。ちなみに、ここ(転職会議http://goo.gl/WqO8NB)を見るとかなりブラック企業な感じが漂っている。「とにかく残業が多く仕事量が半端ではない朝から深夜まで働きずめの毎日でした。日々納期に追われる毎日で精神に異常をきたしてしまう人間も多かったです。」「平日のプライベートな時間が皆無です。人間らしい生活を捨てるのであれば構わないと思いますが、仕事量が増えれば休日も犠牲になります。」「会社の近くに住み、自宅と会社をただひたすらに往復してるだけ。家には寝に帰るだけ。生きがいを無くしました。」「基本的に毎日、深夜まで働かされました。残業代はもちろん出ません。」などという言葉が並んでいます。推測だが、こういう職場環境ゆえに誤植が多発しているのではないだろうか。出版社や著者も、安ければいい、ではなくこういう部分もきちんとチェックしてもらいたいと思う。

*「英語」なんて話してたまるか!(河口鴻三 サンマーク出版 2003)

簡単に英会話をするための本。基本的にアメリカ人がよく使う短いフレーズを集めるという類書も多いジャンルの本。だけど、日本人が会話で不得意とする部分(聞き返す、確認する、あいづちを打つ、沈黙を作らない、など)や発想(上下関係を気にしない、など)を作者のアメリカでの苦労に裏打ちされた内容でまとめたもので、親しみが持てる。また、3時間くらいで読めて、けっこう実際役にも立ちそう。作者は英文法や言語学についてもある程度は知識がありそうで、その点もやや安心感がある。
内容としては、まったく基礎の基礎。学校英語とはちがう知識もあるので、ある程度分かる人にも読み物としていいかもしれない。もちろん、ぺらぺらの人には不要。
ブックオフではあまり見かけないが、200円で売ってました。初版本のためか、大きな誤植あり。実用書で、初版本は忌避すべきなのかも。
出版社は、スピリチャル系やうさんくささで有名なサンマーク出版ですが、、、まぁ、、、悪い本ではないです。

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# by isourou2 | 2014-03-09 21:42 | テキスト

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(増田俊也 新潮社2011)

厚さ4.5センチ。この本を60才の知人に渡したら、一晩で読んだ。そういう磁力のある本である。さすがに、ぼくも一晩ではないが、ついつい夜更かししてしまった。
小学生から高校生、たぶん30代半ばくらいまではプロレスや格闘技に強い関心を持っていた。ただ、それは専門的な知識を求めたり、自分が行ったりするものではなく、自分の世代としては割と平均的でもある流れであった。なんといってもまだ、小学生の頃は金曜8時には新日本プロレス、土曜午後には全日本プロレス、時間帯は忘れたが国際プロレスと、子供が視聴できる時間にプロレスの放映が3回もあった。女子プロレスもやっていたかもしれない。
ブッチャーやスタンハンセン、タイガージェットシンやアンドレザジャンアント、出てくる外人レスラーたちもキャラ立ちがすごくて、ほとんどファンタジーの世界であった。たしか、小学校高学年ぐらいでタイガーマスク。タイガーマスクのトリッキーな動きには本当に魅了された。そして、アントニオ猪木。彼が次第に衰えていくのを画面で確認していくというのがある意味、ぼくの(そしてぼくら世代の多くの)プロレス物語の軸になっているが、それでも、猪木は闘い、プロレスは最強だといい、八百長ではない証明をするためとして異種格闘技戦を行っていた。今、考えれば、そんな(ほとんど)嘘を堂々と言い、その責任が追求されないのも不思議なことのようにも思うが、そんな言動自体もプロレスのファンタジーの一部である、という風に半ば受け取られていたためであろう。結局、そのような「闘いのファンタジー」に幼少期からがっちりと胸をつかまれてしまっている人たちが、大勢いるわけである。そして、もちろん、この作者の情熱の元にもやはりそれがある。そのファンタジーに一度掴まれた人はどんどん引き込まれる内容だろう。しかし、そうではない人にとっては、この厚さを読破するのは難しいと思う。とはいっても、この本はそれだけではない。木村政彦が生きた時代を活写するための時代背景の説明やサイドストーリーがおもしろい。また、木村以外の柔道家たち(講道館柔道という現在メインの柔道から見れば異端の柔道家たち)の個人史の記述も興味深い。ブラジルの日本人移民社会の話(特に戦後10年たっても日本が戦争に勝ったと誤解している「勝ち組」の話)など、木村を通して昭和という時代を興味深く描いている。また、嘉納治五郎が創始した講道館柔道が、どのようにして戦後GHQに潰されず(その結果総合格闘技としての性格が失われた)、講道館=全柔連として柔道界を覇権したのか、の歴史が詳細に書かれ、そこからは最近の柔道の暴力問題や全柔連のセクハラ問題などの根が垣間見られるように思えた。
しかし、この本は、繰り返しになるがプロレスや格闘技のファンタジーに胸を掴まれた人間がそのような読者に対して書いた本(ゴング格闘技に連載)したものである。なので、この本の重要なアングルは、誰がどのように強かったか、をそれぞれのキャラクターと物語性の中で語るもので、言ってみれば、非常にプロレス的なノンフィクションである。プロレス的なノンフィクションという矛盾こそが魅力なのである。木村政彦ー岩釣兼男ー石井慧という物語は、まるで力道山ーアントニオ猪木ー小川直也、という闘魂伝承みたいな話ではないか。作者は、真実を追い求めているようにみえるが、そのこと自体がプロレスや格闘技のファンタジーの心性の中にあり、だからこそ(ぼくのような読者を)夢中にさせるのである。1976年のアントニオ猪木(柳澤健)、という本も同様である。非常に優れた本が生まれているのは、もともとプロレスは言葉と相性がいいからである。古館一郎が天才的な実況なくして新日本プロレスの成功はなかっただろう。それは、格闘技でも同様である。ファンタジーの世界が重要だからである。だから、実際の動きを見ることができないという大きなハンディがありながらも、活字で読むプロレスや格闘技というのは魅力がある。そして、この本がそのようなファンタジーの引力圏にあることは、結局、木村政夫というのはどういう人間だったのか、があまり伝わってこないことも意味している。それは、師匠の牛島辰熊が国粋的な思想の持ち主だったのに比べ、木村には「思想」がなかった、としてしまったことも原因だったかもしれない。断片的なエピソードからは、権威的なものや権力的なものに対しての忌避という木村の思想が読みとれるのだが。
ともかく、この本は、明晰なアングルのもとに、木村政彦と作者が渾身の力で組み合った手応えのある試合である。手に汗にぎり、夜更かしすることになるだろう。
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# by isourou2 | 2013-11-04 00:51 | テキスト

終わりの感覚(ジュリアン・バーンズ 新潮社2012)

新作の翻訳が出るのを楽しみにしている作家というのは、ぼくの場合、この人しか思い当たらない。といっても、熱心な読者というほどでもなく、読んでいないものもある。「101/2章で書かれた世界の歴史」は、とんでもなく傑作だとは思うけど、そして何度もチャレンジしているが、つまみ読みの結果として読了しているのかどうかは自信がない。「ここだけの話」は読んだはず。短編集も面白かった。そして、この最新作は、図書館で借りて、次の日の昼前(今)には、もう読み終えた。長くないし、読みやすい。ミラン・クンデラもそうだと思うけど、恋愛における男の心理描写が上手。その結果、いろいろと想起させる、、、どう思っても未熟であった青年期の恋愛と結局はそのころからたいした成長していないこと、、、。思い上がり、身勝手さ、共感や想像の欠如、性にふりまわされ知恵や感情を見失う、この小説で描かれていることは、おそらく多くの男が経験してきたことだろう。主人公のようにして、読者(ぼく)も過去を想起した。
ぼくは、この小説を読む前に、図書館の棚の前で「人生の経験」を描いた小説が無性に読みたいと思っていた。
「人生の経験」というのは、ある種の表現の中にこそあって、むしろ、それを受け取ることで、人生は「経験」になる。人生の経験を構成する出来事や感情などが、少し分からなくなってきた、そういう思いが図書館の棚の前でしていた。なぜ、そういう思いがしているのか、それは分からない。忙しいせいなのか、忙しさが1段落したせいなのか、これから転機を迎えそうな予感のためか、何か人生における決断が迫っている不安のためか。
現在いまここで様々なことが起こり、そのただなかにいる自分は、出来事を被爆しまた行動しているが、それが「経験」であるわけではない。「経験」以前、あるいは「経験」としての形をなす余裕がない、それが現在である。
そのため、「経験」は想起の中にある。想起は現在の中にある過去である。そして、小説は「経験」のための優れたメディアになりうるものだろう。読むことも、書くことも。
これが、ぼくの読みたかった小説だろうか?ちょっと違う気もする。でも、夢中で読めた。ちょっと文句をいうとすると、最後の方で出てくるのだが、主人公の障害を持つ人に対する捉え方は軽薄だと思う。それは、作者の障害を持つ人への捉え方の軽薄さに起因し、またそれがこの作品を損なっていると思う。とはいうものの、まさに前述した意味で、正統的な小説であり、同時に飛び道具のある小説である点で、バーンズらしさを満喫できる作品だった。
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# by isourou2 | 2013-09-19 17:31 | テキスト

逝かない身体 ALS的日常を生きる(川口有美子 医学書院 2009)

逝かない身体、という言葉に何かひっかかりを感じる人もいるかもしれない。しかし、読み終えてしばらくたってみると、納得する言葉である。あるいは、同シリーズ(ケアをひらく)の「ALS不動の身体と息する機械」(立岩真也)というタイトル。
人間の尊厳といわれたりする意思や精神や心、という言葉を使わずに人間の状態を表していることへの違和感。しかし、それは、考え抜かれた戦略であることに思い至ることになる。むしろ、その違和感のよってきたるところを問う、ような本である。
死ぬ、死なない、というのは、それは、端的に身体というシステムの問題なのだ。その身体というシステムには、近代科学の成果である人工呼吸器をはじめとする様々な機械類を含んでいる。そのシステムにおいて、脳、はその一部であり、脳と強く結びつけられている意思や精神や心、という言葉の安易な使用を避ける理由も、脳が機能を失う、ことをもって、身体の死、と同一視する発想に足をすくわれないためだろう。
ALSという病気になると、体の各部が次第に動かせなくなる。それに対応して介護の方法も変わり、意思伝達の手段も変わり、機能を代替する機械も変化する。
著者の母親のALSは進行が早いタイプだったとのことで、発病してから3年で瞼を動かすことすら出来なくなった。そして、それから10年近く自宅で療養生活を続け、それは著者が介護を続けたということでもある。
この本には、介護者であった著者がその間に感じたことや考えたことが具体的な介護方法などを交えながら書かれている。患者である母親の生と死を巡る迷い、介護者であり娘である著者の生と死を巡る迷い、が率直に書かれてある。経験から掬いとれるものを慎重に取りこぼさないように書こうとする著者の視点は、とても冷静で、それだけに描かれている状況や気持ちがすごく伝わってくる。
「透明文字盤のサ行の「し」とナ行の「に」タ行の「た」は接近していて、瞳をそれほど動かさずに、指し示せる言葉である。「死にたい」はALS患者の間では頻出単語である。それは本当にこの世から一瞬にして煙のように消えていなくなってしまいたいという気持ちも含まれるが、手荒な介護者に対する最大の非難でもあった。」
「しにたい」が文字盤で示しやすい、という冷静な指摘には驚嘆したが、実際に消えてしまいたい気持ち、介護者に対する非難、と相手のメッセージを幾層にも受け止める姿勢こそが著者の物事への対し方をよく表している。そのような著者が迷わないわけがない。著者は、一時「尊厳死=安楽死」賛成とHPに書き込むことになる。そして、40歳のALS患者の息子の人工呼吸器を止めて、自殺未遂した母親への減刑嘆願をALS協会そのものが呼びかける。(ここで、脳生麻痺の我が子を殺した母親への減刑運動に反発する形で、脳性麻痺者の当事者団体である「青い芝の会」が1970年に運動を起こし、障害者運動の画期的な起点となったことを思い起こしてしまう。)しかし、嘱託殺人として無罪判決が出る過程で、著者は息子が「本当に」呼吸器を外してもらいたいと思っていたのか疑問に感じる。
「実際のところとてもたくさんのALSの人たちが死の床でさえ笑いながら、家族や友人のために生きると誓い、できるだけ長く、ぎりぎりまで生きて死んでいったのである。だから、あえて彼らのために繰り返して何度も言うが、進行したALS患者が惨めな存在で、意志疎通ができなければ生きる価値がないというのは大変な誤解である。」
著者は多くのALS患者と知り合い、学び、やがて訪問介護の事務所も作るようになる。
著者は、使える制度がなかった95年に発症した母親を、2000年の介護保険、2003年の支援費制度、2006年障害者自立支援法と問題は様々ありつつも法整備が進んでいく時期に介護をしている。制度がない時期に自宅療養ができるのは、経済的にある程度恵まれた状況があってのことだったのだろうとは思う。人工呼吸器300万は自己負担だったという。また、もし介護人の24時間派遣すれば月400万かかるという状況だったという。そのような中の在宅介護では家族もしくはボランティアがいないと(よほどの金持ち以外)成り立たない。現在では、だいぶ経済的な負担は減ってきたはずだが、そういうALS在宅介護の初期の状況が分かる本でもある。ボランティアの人を引きつける人間的な魅力が患者に要請されるというのは、ある意味不当で残酷なことだろうが、しかしそういう中で培われた人間性というのもあるだろう。この本で紹介されるALSの人たちの姿には、やはり制度がなかったころの脳性麻痺者たちのたくましく賑やかな姿がだぶる。
1つ1つ噛みしめることが出来る創見に満ちた本である。ALSの人、その介護をする人を通して、人に対する愛おしさが読後に残るように思う。

この「ケアをひらく」シリーズは、ものすごく充実していて個人的には、もっとも注目している叢書である。ケアというものに興味がなくても、人に興味があるならきっといい出会いになると思う。
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# by isourou2 | 2013-08-23 15:05 | テキスト

誰も知らなかった小さな町の「原子力戦争」(田嶋裕起 WAC 2008)

出版年に注目してほしい。2011年3月以降であったら、おそらくこの本は出版されないか、内容の大幅改変を強いられただろう。そういう意味で、今となっては貴重な部分のある3・11以前の本ということになる。
この本の著者は、高知県の過疎の町である東洋町長を務めていた人であり、原子力発電所の放射能廃棄物の最終処分場建設を反対を押し切って推進したその張本人。そして、辞職をしてからの施設の是非を問う出直し選挙で、反対派の候補者に圧倒的な差で負けた人。その人が、なぜ候補地として応募するに至ったかについて、精一杯主張をしている本です。
で、反対派に対する悪口批判と安全という宣伝を除いてみると、この本が訴えていることは実にシンプルな話です。金が欲しかった。施設にまつわって入ってくる交付金が目当て。
東洋町の財政について、いろいろと資料をあげて、危機的状態を説明しています。まずは、農林・漁業の第一次産業は斜陽であり、サーフィンなどの観光は日帰りでお金を落としてくれない、そういう中で若者が流出し、収入も減る。その上で、小泉政権の「3位一体の改革」により、国庫支出金や地方交付税が削られ公共事業が出来なくなった。平成11年度で42億超えていた予算は平成19年には20億と半減しています。子育て支援の出産祝い金も払えなくなり、職員の交通費の至急もストップ。企業誘致は立地が悪すぎて出来ず、刑務所誘致さえ遠い夢。
そういう状況の中で、最終処分場の建設をめぐる交付金はあまりにボロい、そして甘い話だったわけです。
調査の段階で、文献調査(2年)期間内20億、概要調査(4年)期間内70億が国から交付され、その半額は市町村の収入になる。その後の精密検査(15年)、建設(10年)、操業(50年)の間には、それを上回る額が入ることになる。300年は管理するということだから、その間も交付金はあるだろう。それだけではなく、関連企業の進出で町は活性化し年2200人もの雇用も創出できる。
まさに、バラ色の未来を思い描いたわけです。
もちろん、そのバラは、何か事故が起きたらとたんに灰色になってしまうものなわけですが。
これは、いつの間にか原子力発電所が55基も出来てしまった仕組みと基本的には同じではないかと思います。
しかし、それにしてもこれほどの交付金を国が出すのには、一体どのような背景があるのか。それだけ、やりたがる自治体がないのに、強引に事業を進めたいという、その背景には何があるのか。(ということは、この本からは分からないことですが、、、)
あと、この元町長は、町長時代から「いつでも計画はストップできる」ということを強調していて、反対派に対する反論ということとともに、どうも本音はそこいらへんにもありそう気がしました。概要調査や精密調査に入る段階で住民投票を行うということを記者会見でも述べています。つまり、処分場は必ずしも出来なくてもよいから、もらえるだけ交付金をもらってから辞退すればいいではないか、というのがどうも本音のように見える。
この元町長は、町議員時代は共産党の議員だし(共産党が原子力発電についてどういう見解を昔持っていたのかは分からないが)、原発建設に反対した経験もあったということです。
ただ、その点においても、やはり反対派の意見の方が筋が通っています。「当該都道府県知事又は市町村長が概要調査地区等の選定につき反対の意見を示している状況においては、(略)概要調査地区等の選定がおこなわれることはありません」というのが国や原子力機構の見解だが、中止にすると書いていない以上、知事・町長の意見が変更するのを圧力をかけつつ待つ、と言っているだけにすぎない。まして、住民投票の結果を尊重するとも言っていない。そう簡単にあきらめるわけがない、と思う方が妥当でしょう。また、処理場の安全性についても、輸送途中の安全については、著者は答えられていない。
あと、印象に残ったのは、反対派にはサーファーが多かったと書かれてあることだ。ちょっと意外。
この本は、最後に1章使って、もし処理場の交付金があったら、こんなことが出来たのに、、、といういささか未練がましい著者の夢が語られているわけだが、、、福島原発、東北の復興、などいろんなイメージが重なってきて、なんともいえない読後感が残る本である。
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# by isourou2 | 2013-08-23 15:03 | テキスト

だいにっほん、おんたこめいわく史(笙野頼子 講談社2006)

ネクストレベル、という言葉が少し前にはやっていた。この小説を評するに、このネクストレベル、という言葉を贈りたい。しかし、ネクストレベルという言葉は、たいてい、一体何が何に対してネクストなのか、が曖昧で、というか曖昧がゆえに発されるコピーであった。笙野頼子の作品で通読したのは、これが2冊目である。面白さを感じながらも読む方が息切れするというか、、、。しかし、この本は読める、こちらの状態というよりも、この本が作者によれば、一気に書かれたという事情が関係してそうだ。つまり、脂って(のって)いるわけだ。笙野頼子の持っている言語感覚、手法、問題意識、これらの作家の基礎体力というものは、飛び抜けていると思うのだが、この作品では、それらを自在に駆使しながら、それらを踏み越えた地点に到達している。それは、やはり書く速さが(とここで、謎の電話がかかってきて、聞き取りに苦労し、この先に書くことを失念した。)

2006年にこの本は出た。これは、村上隆や東浩紀が猪瀬直樹(都知事)に群がり、現在現出し、これから東京にオリンピックが決まった日には、増大していくだろう気色悪い文化状況を抉りだしている(ような気がする)。笙野頼子がいれば、村上春樹も高橋源一郎もその他もろもろの若手作家も必要ないのではないか(そんな気がする)。
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# by isourou2 | 2013-08-09 16:01 | テキスト

遊覧日記(武田百合子 作品社1987年)

ピントの合っているエッセイ集。遊覧という言葉といい、ぼーとしていて、という言葉が数回出てきたり、全体の雰囲気は穏やかのように誤解する。しかし、ピントの合っている場所がちがうだけなのだ。表象のあれこれ、人物のあれこれ、のさらにもう一歩深いところに鮮やかに標準が合っている。カウンセリングの心得で、相手の全体を俯瞰するように見ながらでも集中力を絶やさない、みたいなことをどこかで読んだことがある。半眼の状態もボヤーとしながらその奥を手放さないという感じがある。もちろん、カウンセラーでも坊さんでもない武田さんが意識してそのようであるわけではないだろう。いたって自然体に思える。意識が開かれているから、様々な人の話し声が耳に入り(ところどころで羅列しているその言葉は現代詩のようであり)、様々な人の様子が描写される。見慣れた場所の見慣れた風景であるはずのところが、異星人(は言い過ぎだが)が見たように独特に再現される。そして、ズバっとくる。ズバっとこないままに終わる時もある。それはそれで味がある。そのピントが合っている場所は、それまで不分明だったり見過ごしていたことが、一気に新たな了解に向かう場所である。そういう場所を押さえることが、表現においては大切なはず。そして、それは難しいことだ。たいていは失敗する。そして、なにも表現しないままになってしまう。たとえば、黒沢明監督の「どですかでん」で、どもりの中年の男が、貧しい自宅に同僚を呼ぶが、妻はふてくされたように一向に同僚たちをもてなさず、妻が席を外した時に、その妻のあまりの態度に心優しい同僚たちが男のために義憤にかられ様々いう。黙って頭を垂れて聞いていた男が、急に怒りだし、いかにいままで妻と苦労を共にしてきたか一体何がわかっているんだ、というようなことを同僚にいう。あのシーン。そこには、ある了解点にピントが鮮やかに合っている。同映画の乞食と子供の会話もそうだろう。それは、人間に対する理解の深さであり、そういうことは狙っても理づめでも分からないむしろある種の態度である。
料理を作りながら、ふとこの本の一節が甦ってきた。武田さんの夫の友人のインド学者Mさんの章だ。Mさんに夫の「とんび」(服)をもらってもらい、そのお礼にお酒を武田さんと武田さんの娘さん(Hさん)がご馳走してもらうことになる。Mさんは、インド酒場に案内するが店は休み。しかし、Mさんは店に入り込み、迷惑がられながらビールを3本注文する。さらに、もう一軒。さらにもう一軒。それぞれに特徴のある店に入り酒を飲む。Mさんは店の中で放歌し、他の客は帰ってしまう。Mさんは「ボクの蓮の研究は、あと三〇〇年かかります」「コドクを恐れてはいけません。平凡な人間は友達が多いが、平凡でない道を歩く人はコドクになります」という。小便をして帰ってくると「友達は多い方がいい」という。店主が武田さんの夫(泰淳)さんのことを知っていて思い出話になる。
12時を過ぎ小便に再び行ったMさんは頭に雪をのせて戻ってくるなり「つっ立ったまま、「イワの上にタオルが干してある」と、うわ言のように独り言を呟き、それからどっかり腰かけると、「ボクはこの頃、三十五、六年前に死んだ飼犬のことをしきりに思い出します。Yさんのこともそうだ。生きている者より死んだ者の方が日々記憶に新しく生きているんです。泰淳さんもそうです。」と、涙声になった。「M先生。ここのお勘定はあたしが払いたいのです」Hが財布を握って立ち上り、一番早く調理場の方へ入ろうとした。「いえ、あたしが」と私が追いかけた。そのあとから「ボクが」とMさんが割り込んできたので、人一人の幅しかない通り口に三人の胴体がぎゅうと詰り、動けなくなってしまった。」
と長く引用してしまったが、ここが三人がある了解に達した場面であり、そしてそれを素晴らしい精度で捉えている文章である。でも、読んだ時にはあまり気づかなかった。料理をしていて突然ぼくもその了解に達し涙がこぼれそうになったのである。
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# by isourou2 | 2013-06-19 18:29 | テキスト

WEEKEND(ジャン・リュック・ゴダール 1967年)

高校生の頃から、現在までそれなりにゴダールの映画は見てきた。熱心に見たわけではなく、なんとなくだから、たぶん半分くらいを見ている感じだろう。しかし、これまでそれほどピンとはこなかった。何かいつもインテリくさかったりアートくさかったり、要はあまり面白くなかった。しかし、今までゴダールを見捨てなくて(見捨てられなくて)良かった。それは、この映画を見たからだ。ウィークエンドは完璧に近い。このテンションの持続、覚醒、笑い、は奇跡的。もちろん、映画についての自己言及などの悪い癖というか無駄にポストモダン的とも現在から見えるところ、長い帝国主義批判や暴力闘争への言及は人によってはだれるかもしれないが(この映画に関してはそれほどぼくは気にならないが)、しかし、この映画でのゴダールの感覚は卓越している。おそらく、多くの人(映画に限らず)が目指したがたどり着けなかった境地に、やすやすと着地している。演奏が終わってみると誰が何をしてそうなったのか分からないけど最高だったジャズのセッションみたいな映画である。しかし、ゴダールだけはひらめきのただなかで冷静に効果を計算も出来ている、完全に映画を掌握している。すごいねぇ。こういう全能感にひたされた作品というのは、微妙なバランスで成立しているはずで、おそらく生涯でそう何度もない出来事(たいていは一回きり)だろう。たとえば、69年の「東風」にはこのテンションはなく、バランスと出口を失った残滓があるだけだ。「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」を見てもピンとこなかった人は、ウィークエンドを見てほしい。67年にこの映画で、映画が前進できる広大な領野が開拓され、そしてそのことによって、映画はほとんど終わってしまっていることが確認できるはずである。
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# by isourou2 | 2013-04-18 19:52 | 映像


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