とかげのおっさん

出ましたねぇ。とかげのおっさん。「ダウンタウンのごっつええ感じ」の連続18話に及んだコントである。ぼくは、オンエア時にこの第一話をテレビで途中から見た。ダウンタウンをおもしろいとは少しも思ってなく興味もなかった。偶然テレビをつけたらやってた。番組自体知らなかったから、演劇かなとはじめおもったのだ。しかし、ダウンタウンだとは分かった。ベンチに座っている二人の会話をノーカットで写している。それがえんえんと続く。ゴールデンタイムに、まるで、エアポケットに入ったような時間が流れている。それでいて、なんだか生生しい。面白いってすぐには、分からないほど、何か異質な面白さ。ナンセンスな平熱感。これは、すごいと思った。それだけで一時間番組が終わってしまった。なんだか、奇跡に出会ったような感触。ただ、それ以後、別にこの番組を見ようとは思わなかった。なんとなく、頂点でこれ以上はないと思ったから。それから、ずっと、このコントのことは頭にこびりついていたのだった。

18話を全部見た。松本扮する、胴体がとかげで手足や首から上が人間のハゲズラを被ったのが「とかげのおっさん」で、しっかりした尻尾もある。(ありそうだが尻尾きりというネタはなかったな。)。一話をみながらすぐに分かったことは「とかげのおっさん」は「ホームレス」だということだ。舞台は、公園で、どこから出てきたのかと思う隅の物陰から、すっとあらわれる。これは、ホームレスの物語だ。ぼくは、そういう風に見て、そういう観点からこの文章を書こうと思う。おそらく、だれでも感じるはずのこのことは、あまり言及されていないだろうと思う。まず、時期。第一話は、96年夏。96年はじめに、新宿西口のダンボール街が強制撤去されている。これは、社会的にも大きな問題になった。ホームレスという存在が無視できなくなっていた時期だ。ぼくは、ホームレスを扱ったフィクションとしてこのコントが端緒ではないかと思う。(たぶん)。これ以後でもテレビであるだろうか?。浜田扮するマサくん(小学生、低学年か?)が、とかげのおっさんに、コロッケを持ってくるところから始まる。二人はベンチに座り、会話をする。

(この項つづきます!!!)
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# by isourou2 | 2007-12-07 19:01

「忘れられた日本人」を読む(網野善彦)

忘れられた日本人、は宮本常一の名著である。以前読んだことはある。(たぶん全部読んだと思うが、、、はっきり覚えてない。)。ともあれ、宮本常一と網野善彦である。この取り合わせ。ビックスターの競演だ。このなんとも地味な岩波セミナーブックスの一冊は、一部の人にとっては、ドーム級の夢の競演だろう。ジョンレノンの歌のカバーだけで、ミックジャガーがライブしているような。ジャイアント馬場の技だけで闘うアントニオ猪木といった感じの、、。二人は対談などしたことがない。意外だが、ほとんど会話したことすらないのだ。だから、多少のエピソードを除いては、(しかし、そのエピソードは濃いものだが。日本常民文化研究所に二人は勤めていて、宮本さんを含めて所員が借り受けてそのままになっていた大量の古文書を網野さんは、返却する作業をした。網野さんは、研究所とともに神奈川大学に移ったのだが、「長」のつく仕事をすると、返却の仕事が出来なくなるとして、辞表をちらつかせて対抗したと書いている。その15年の返却の旅は、一冊の本になっている。(古文書返却の旅、中公新書、未読)。返却の作業を網野さんがすると、どこからか聞きつけた宮本さんから電話があったそうだ。その時「これで、自分は地獄から這い上がれるような気がする。」と宮本さんは言ったそうだ。この言葉。その一年後に宮本さんは死去したから、網野さんが聞いた最後の肉声だった。忘れられた日本人の中で、対馬で文書を借りるときの半日がかりの村人たちとのやりとり(それは、村で物事をどう決めるかという方法の説明でもあった。)、それを思っても、当事者にとり、文書が非常に大切なものだ、ということを宮本さんが当然骨身に感じていたということでもあるとともに、なにか、それ以上のものがある。地獄にいる、という自己認識が、宮本さんにあった、ということも示す言葉だと思うと、この人にある底知れないもの、決して充足しないもの、に手が触れたような気になる。どっか、おっかない人だな、と手をひっこめたくなる、ところが宮本さんにはあるような気がする。佐野真一の「旅する巨人」という評伝があるが(おもしろい)、巨人というにふさわしい、人間ばなれした徹底さに、どこか虚無の刃の光を感じるところがある。と、長くなってしまったから繰り返すと)多少のエピソードを除いては、宮本さんの学問について網野さんが正面から説いている。学問と学問の真剣勝負、これは、火花が散っています。学問のおもしろさというのを、しみじみ感じる内容だな、と思っていたら、最後の小見出しは「学問とは?」。「常に新鮮な疑問を持ち続け新しい分野を開拓する。誤りははっきりと認めて正しい見方に従う、学問とはそういうものだと私は考えます。」当たり前かもしれない。でも、そういう網野さんだって、この時75歳。そういう学問の若々しさに、なんか感動する。

内容は、宮本さんの言いたかった部分を網野さんの見方で取り出す、最近の研究で補強する、網野さんから見て宮本さんの意見の足りない部分、違う部分をいう、というもの。発見が多いです。

宮本さんの入門としてもいいだけではなく、網野さんの考えもよくまとまって解かる。「アジール(無縁)」「遍歴民」「日本という国号」「東日本と西日本のちがい」「百姓について」と網野さんの天下の大技が繰り広げられている。その源泉が、宮本さんにあることもよくわかる。

(補記)これじゃ、内容について何も触れてないなぁ。網野さんにも通じる宮本さんの方法論について、分かる範囲で考えてみる。まず、「生活の実相」とは何か?というのが宮本さんの追求だと思う。これは、民俗学ってそもそもそういうものだ、といってみればそうかもしれない。しかし、いかに徹底的にそれを行うか。谷川健一との対談には、柳田国男を批判する言葉が見られる。「いったい、柳田先生は、昔話の採集者として、土地の教育のない古老なんかに直接話をきかれたことがあるでしょうか。佐々木喜善みたいな学問のある人でなくてね。」。生活の実相を知るには、話を聞くにしても、相手の心構えがなくならないといけない。だから、テープレコーダーは使わない。(テープレコーダーを出して失敗したという話もあるから、使うときもあったようだが)。「ほんとに嘘いつわりのない話を聞こうと思ったら、間引きの話とどぶろくの話が出れば本物ですね。そこまで出れば、こちらが割引きしたり、掛け値したりして聞く必要がぜんぜんない。」(水沢謙一との対談)。以前、宮本さんの自伝である「民俗学の旅」という本の中で、印象的だったのは、まだ学者になる前から乞食の集落をよく訪ねていることであった。そして、そこに貧しさではなく、統制のとれた生き生きした社会があることに驚いて感心している、そういうエピソードが数箇所でてくる。網野さんが引用した文章でも「われわれはともすると前代の世界や自分たちより下層の社会に生きる人々を卑小に見たがる傾向がつよい。それで一種の悲痛感を持ちたがるものだが、御本人たちの立場や考え方にたってみることも必要ではないかと思う。」とある。まったくもってそうだ、と喝采したくなる。網野さんも、私が強い影響を受けたのは、こういう姿勢で生きておられる宮本さんであった、と共闘ともいえる言葉を書いている。で、相手の価値観を見るには、どうやって自分の見方の枠を取り払っていくか、ということが問われるだろう。ぼくら、テント生活者も、路上の人に対して勝手な悲痛感を持つこともある。路上には、ぼくらが知らない路上の世界があるはずだ。話を戻して、当時、どのような枠があったのか。一つは、柳田民俗学。マルクス主義。戦後民主主義。学問体系。などなど。対談(神島次郎)で「よく人々に、お前の民俗学は、といわれるけれど、私のは民俗学じゃないんだ。私はもうはじめからアウトサイダーの一人だ、こう思っているんです。いつまでいてもそうだと思うんです。」と覚悟の言葉(だと思う)を言っている。宮本さんは、マルクス主義的な発達史観には批判的だった(というか教条的だったり抽象的なものはいやだったのだろう)が、赤松啓介という柳田さんに批判的な性民俗の研究をしていたマルクス主義の民俗学者から、戦中検挙没収を恐れた文書を預かった、という意外ないい話が「旅する巨人」に載っていたと記憶している。渋沢敬一の家に居候していながらも、柳田さんの家に話に行ったりしていて、(二代派閥だったのだと思うが)、そういうところも、捉われるのを嫌う、人間を見る目のしっかりした感じを受ける。この本の中では、網野さんは、フェミズムというのを慎重な筆致で評価しつつも、一定の枠(足かせ)としてとらえている感じだ。女の世間、という章だけ、構成的にはイレギュラーに、観衆との質疑応答が納められている。ここは、おそらく現在的な微妙な問題に触れている。(被差別部落の部分もそうかな)。網野さんは、自分の歴史的な見方は女性史の専門の人からみると「まだまったくの異端だと思います。」と答えている。法的な地位からの解放運動を女性が熱心にやってこられたのは当然なこと、としたうえで「女性と男性の関係を考える上で大切な点の一つは、世界全体をみまわしてみると、繊維関係の生産流通は基本的に女性が担っているという事実です。・・こうした繊維産業における女性の役割の重要性、社会的比重に関して女性史家は今まで見落としていたのではないでしょうか。・・女性の社会的な労働としては農業の補助労働しか出てこないのです。この見方から、女性の社会的地位が低くなったのは、基本的生産の農業・工業から女性が排除されたからだということになっています。・・「妻が夫に高利で金を貸す」ような権利を女性がもっていたことは事実ですから、男も相当女性におされているわけです。」とある。
体系について宮本さんは、「僕は、体系なんて必要ないだろう、一人一人が違った行き方でやればいいと思いますね。・・一人一人の声をあつめていくところに、民俗学という学問があるのではありませんか。体系に縛られていくところから無数の見落としが生まれるのですね。」といっている。(谷川健一との対談)
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# by isourou2 | 2007-12-05 17:51

さようなら、私の本よ!(大江健三郎)

ひさしぶりに読んだ、大江健三郎。久しぶりに読んだら、これは面白かった。このタイトルのように、というか、それがなぜ、さようなら、なのか、は謎だけど、いままでの大江健三郎の書いてきた小説と、この本の要素は、さまざまな響きあいをもっている。穏やか老後ではなく、老いていくことが突然の狂気をもたらすこと、おかしな二人組(それは、前は息子と父親、などだった)、血なまぐささ、アクチャルさ、などなど。若い二人の登場人物によって、無鉄砲さとその悲劇的な帰結、性欲の問題、など、も持ち込まれている。(が、印象は薄い)。特に、それを感じたのが、終章の前の突き放されたような読後感。この宙吊り感が、初期の小説の終わりには必ずあったと思う。それからの終章も、一区切りつけて蛇足のようなやり方も、大江の小説によくあることだった、と思う。だから、懐かしく今までの本を(といってもほぼ今は詳細を覚えてはいないのだが)思い起こさせる。それでいて、アクチャルさを失ってはいない。それは、自分に対する目の厳しさと、現状認識、の二つの要素がある。たとえば、映画監督の伊丹十造を模した登場人物の言葉として「古義人は小説家で、なにやらあいつ独自の書き方を工夫して、確かに在来の私小説とは違うが、面白くもない人生を、オーデンやらブレイクやら、引用沢山に書き続けるつもりだ。いまだって、アカリの誕生について飽きもしないで書いている。そんなことがどうして面白いものになる?。なぜ、まず面白い人生を生きないんだ。」「エリオットに感じ入っているように、見事に表現された哲学的な思いだけ、しびれるんだ。生を追想するようにして、感じ入っているんだ。小説を書くったって、その上での思いを書くだけだ。いかがわしいならいかがわしいなりに、実際の人生を生きることはない。高校生でもうあきらめていたんだ。そんな一生が何になる?。」。あと、大江の政治的なエッセイや評論を信用できない、とも言っていて、これだけいえば、大江批判としては、かなり部分言っていることにもなると思う。とすれば、よく言われることかもしれないが、作者としては、痛いことを自分の小説に書き込んでいることになるのではないか。
現状認識としては、「おれはね、東京でフリーターをやってる、見た目にはニューヨークの若い衆そっくりの連中のなかから、ある日、腹の据わった自爆テロの実行者が現れると、、、そのような時代だといいたい気持ちがあるんだ。」「この若い実行者のタイプはね、革命的なものであれ、反動的なものであれ、大義に動かされてなにかやるというのじゃない。煽動家に示されたテロの手法が面白いというだけで、それをやってしまう連中じゃないか、と感じる。」「この東京で連日、自爆テロが起こる、そういう時が来るのじゃないか?」というようなところだろう。この認識は、そんなにずれていないとぼくは思う。なんとなく思い当たるところもある。そういう小さな集団はいつ生まれてもそれほどおかしくない、という現状だと思う。ただ以前なら、その実行犯たちを主役にすることで、その内面のアクチャルさを描くことで、現状を描こうとするところだろうけど、それは、リアリティを持って今の大江には書けないだろう。そこで、小説に導入されるのが、主人公の老人に取り付いた、おかしなところのある若い奴、という存在(装置)。とすれば、そのおかしな若い奴をどれほど描けるかが、この小説自体のアクチャルさを保障するということにもなるだろうが、それがいささか心もとないところが、この小説の欠点になるだろう。だから主人公の作家が、テロの計画に半ば前のめりに巻き込まれていく、ということが、強い現実感を持ってこないうらみがある。だから、終章の前に、「自分の衰えた身体のうちに、あのおかしなところのある若い奴を手探りしたが、気配もなかった。」と突き放されて感じる失墜感には、この若い奴がなんだったのか最後までよく示されないうちに小説世界は閉じてしまったな、という失望感が何割か混じっている。それと関連して、大江には、老人の性とはどのようなものであるかを、(若い時に書いた性の主題とひびきあうようにして)その実相を正面からあからさまに描くということをしてもらいたい、と思う。たぶん、それが、そのおかしなところのある若い奴が老人にとって何なのかを明らかにしていく一つのやり方だろうと思うから。
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# by isourou2 | 2007-05-17 17:04

1961年冬「風流夢譚」事件(京谷秀夫)(平凡社ライブラリー)

この本は、まず、晩聲社から1983年に出た。なつかしい出版社だ。中学や高校のころ、よく読んでいた。表紙のデザインがなんか、文字が羅列されて鮮烈(ロシア構成主義っぽいのか、よく分からないが)で、だいたいは左翼的でとんがった本を出していた。中学のころは、天皇・統一協会・ポルポトが3大関心事で、そのへんの本もけっこう出していた。この本は読んでないと思う。深沢七郎は、近年になって、好きになってきた作家だ。この事件のあと、死ぬつもりで(殺してくれる人を探して)旅にでた、そのエッセイを読んだことがある。打ちのめされて、腑抜けのように風に流される草花のような深沢氏(それは、この人の持ち味のひょうひょうとした、根無しな感じが極まった感じでもあり)が、不良に会い、なにか励まされたりする話だった。と思う。この本のなかで、いくつか、この事件の深沢氏の動向が記されている。
「怒った手紙やハガキがたくさん来た。北海道からも九州からも来た。~ひまな時に読んでいるけど、おもしろい。激励や慰めのも来たけど、これはつまらない。~「なんたる無礼者ぞ いさぎよく自決して罪を天下に謝せ 問答無用 一家抹殺を期す 天誅を受けよ」というのもある。うまい文章だ。ぼくはふつうの人が貰えないようなハガキを貰って感動した。恨んでやるとか呪ってやるとか、とても純情だと思う。純情の人のラブレターだ。20年も前に別れた女の人からもらったラブレターのような気がする。住所が書いてあれば、僕は返事を書きたいぐらいだ。だけど、一緒に住んでいる親類たちが気の毒だ。みんなでご飯を食べているときも、カタンと音がすると、みんな青い顔になる。隠れてくれ、逃げてくれ、というから、ズッと隠れてるけれども、僕はみんなのことが気になってしょうがない。どうしているか心配でたまらない。「風流夢譚」で亡命してるのだから風流亡命だけど、亡命っていうものは放浪と同じものだ。」(朝日ジャーナル1961年一月)これは、まだ事件前のインタビューだ。インタビューとなっているが、これは深沢氏の文体そのままだ。ともかく、これは、立派な言葉だ。感心した。自分のスタンスをキチンと言っている。ぶれてない。すげえな、と思った。激励や慰めのも来たけど、これはつまらない、なんて、なかなか言えない。それが言えるだけの、内面をつくってきたのだし、それが許されるだけの外面をつくってきたのだ。事件(右翼の少年が、雑誌社の社長宅を襲い、妻を重傷、お手伝いさんを殺害)の後の、一週間後、深沢氏の記者会見が行われた。その記事の中での深沢氏は「額に刻まれた大きな皺に苦悩の色が濃い。ホホを伝わって落ちる涙をぬぐおうともしない。とても自分の足で歩けないほどクタクタに疲れていた。」。しかし、「いつ死んでもと思い風流夢譚の続編を清書しています。」「この事件で筆を折るのか」という質問には「折る気になれない。」と答えている。著者の推測では、この記者会見の一番の眼目は、雑誌掲載に社長は反対していた、(それは社長の身の上に続く危険を避けるため)ということだった。しかし、そうすると、編集長に掲載の責任が負わされることになり、それは深沢氏を苦しめたのではないか、と推測している。ともかく、続編を書くという、深沢氏はやっぱり立派だと思うが、ともかくも、このように独特な立ち位置の人がその独自性を維持できなくなるところに追い込まれるのが、ぼくは、本当に陰惨なことだと思う。しかし、この強靭な作家は、その後も、独自な作品を書いていくのであるが。(続編は発表したのだろうか)

この本には、この事件にまつわって、様々な人物が活写されていて、そこも魅力になっている。この本は、20年の前のことを、当時の記憶と当時の資料だけで、筆者が描いている。それなのに、ものすごく、濃密な空間が本の中にある。それだけ、この事件は濃密に作者の念頭から去らないのだという、その印象が強く残った。
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# by isourou2 | 2007-01-17 18:28

「神国日本」佐藤弘夫(ちくま新書)

この著者は、中世の専門家で、本の内容は、やはり、中世的な神国観が中心になっている。しかし、この刺激的に面白い本の中で、衝撃を受けたのは、まず、以下の古代律令制国家についての文章である。
「日本古代において、「国家」という言葉は、通常天皇個人の身体を意味した。」
「(日本書紀で)「国家」が「みかど」と読まれていたことにもうかがえる通り、国家はその唯一の代表者である天皇そのものを意味する概念だったのである。」
これは、自分にとって、とても気になることなのだ。なぜなら、現在のホームレス生活の中で、「身体」と「所有」の関係が、自分の問題になっているから。この著者は、律令国家において、国家は国土や人民のことではなく、天皇の身体、だといっているのであるが、ぼくは、天皇の身体と国土、が不分明だったのではないか、と考えてみる。所有をする、というのが、まずは、自らの身体を意識するところから始まったのだとすると、国家、というのを、自分(天皇)の身体の延長としてしか考えられない、そのような所有の観念の段階というのがあったのではないか、と考えてみる。そのような、身体の延長を可能にするのは、神、という考えだったのではないか。
「かつて、古代の天皇は国家の唯一の代表者であるとともに、「現御神」として人々の上に君臨する存在だった。この天皇を支えるために、大嘗祭をはじめとして、天皇が神の衣装を身に着けるための舞台装置が幾重にも設けられた。」
強権的な律令制国家が立ち行かなくなり、天皇の権威も落ちてくると、伊勢神宮を中心にした神々の構造も崩れ、寺社も荘園(土地)を獲得する競争をする。そして、その土地は神領や仏土として、国家からの課税を逃れ、住民に対する支配を円滑にする。
「こうした「仏土」「神領」の論理が神仏の権威を利用して寺社の支配を正当化するための、巧妙なからくりであることはすぐに理解できる。しかし、当時はまったく事情がちがった。中世人にとって、神仏の存在は、決してたとえ話でも空想の産物でもなかった。」
ただ、この時の所有は、神仏の身体とは、関わりを持っていない。だから、この段階では、すでに、所有は身体とは、切り離すことが出来る概念になっている。中世後期において、彼岸観念が縮小し、現世的な社会になると、この身体から切り離された所有観は、神や仏の後ろ立てがなくても、お金や権力による所有へと、変化していったのではないか。
「かつて神々は定まった姿をもつことなく、気ままに遊行を繰り返す存在だった。神は、祭祀の折りにだけその場に現れて、それが終了すればまたどこかに立ち去るものと考えられていた。」
そのような国家以前において、神は身体を持たず、身体を持たないがゆえに、それは、所有とは無関係な存在だったのではないだろうか。この本は、神国という考えの変化を追う本なのだが、その記述を縫うようにして、ぼくは、土地の所有について考えるところが多かった。

はじめに書いたが、この本は中世にポイントを置いてあり、古代において、その国家観を一般人はどう感じていたのか(特に、侵略された方はどう考えたか。資料もないのかもしれないけど)、とか、近代については、それほど詳しく書かれてはいない。そこらへんも、読んでみたいな、と思った。朝鮮と日本の古代の関係とかも気になる。
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# by isourou2 | 2007-01-17 17:00

「ソウル市民 ソウル市民1919 ソウル市民昭和望郷編」青年団

演劇の空間というのがどうも苦手だ。演劇の空間を意識してない演劇が苦手。意識しているからといって、好きかどうかわからないが。招待券をもらったので、観に行った。平田オリザである。喰わず嫌いだが、なんか面白くなさそうイメージだった。青年団という劇団名も、そそらないことしきりである。全然期待なしで行った。それが面白かった。

芝居の演技は、我慢できるぎりぎりだ。日常で、演技している人がいれば鼻持ちならないのに、なぜ演劇だと、我慢できるのか。生身の人間がいるのに、そこに人間がいないということは、気持ち悪くないのか。そういうことを感じさせないぎりぎりであった。だからといって、ぼくにいいアイデアがあるわけでもなく、ますます自然さを追求するか、ますます虚構化を追及するか、どちらにしてもたいして興味がない。能はすごかった。生身だけど、抽象。抽象だから、自由に解凍できるし、気にさわらない。ともかく、そこらへんのことはとりあえず、通り過ぎてくれれば、まずは席に座ってられる。熟年の人を年相応の人が演じていてくれるだけで、今まで見ていた演劇とは大違いで、ほっとさせられる。

ソウル市民の初演は、平田オリザ26歳の時だそうだ。この人は、その年で、やりたいことがはっきりやれていたのだ、と思った。この芝居の幕切れは、なるべくなんでもないタイミングで終わることに力をそそいでいるんだ、と思った。劇場に入ると、すでに舞台には役者が、背を向けてイスに座っている。これも、なんでもない時間の導入。はじまりは、それでいいけど、どう終わるかは難しい。でも、きれいに、なんでもない時に終わった。それで、ぼくは、背中が少しゾクとした。ちゃんとやれてたし、やられたから。一緒に観た人は、家族のアルバムを観てそれから終わったと、そこに円段を感じたようだけど、ぼくはちがうと思った。それじゃ、つまらない。

劇の後、平田オリザのトークがあり、なんとなく、感激が薄れた。せっかく説明しすぎないように、劇で気を使っているのに、説明していたからだ。

ソウル市民で、手品師が現れて、途中で居間から姿を消してしまうのだが、ぼくは、消えるところを見てなくて(トイレに行きますといい退室したそうだから、たんに見てなかっただけだけど)、
本当に消えた!と思い、どういう仕掛けか、なんて考えたり、そこから、ぐっとマジカルに見えてきた。

それで、あとの2作は、それほど感想はない。似たような設定とかの方法論も、平田オリザのやり方なら当然出てくるだろうけど、その当然さが、安易な感じもした。

それにしても、ぼくは歴史に疎い。全然基礎知識がない。勉強しなきゃな、と思った。

今、笙野頼子の一文、さっき引用しなかったのを思い起こした。「成田の農家の所有する土地はただ単にお金、地価に換算されるものではなく、家族の生き方、入植後代々の歴史とか、無農薬農業という選択をも含む、自分の人格にかかわるものではないかと(あくまでも私の主観でもそう)思えたのだ。」ちょっと当たり前なことだな、感じたので引用しなかったが、この植民地の話にはふさわしい予感がした。この文は、「反対派の中には、空港は軍事関連に使われる場合があるから嫌だという考え方もあったというし、一つの土地を所有する事によって人は様々な表現を取ると思ったのだった。人は戦う生き方を選ぶしかない時もあるのだろうと。」とつづく。

青年団という名前は皮肉を含んでいるんだ、と観終わってから分かった。だからといって、好きな劇団名とも思わないけど、それが分からないほど、平田オリザは面白くなさそうなイメージだったということだ。皮肉ぶくみの青年団は、平田さんの劇団名には、ぴったりで、やはり、やりたいことが分かっていてやれているんだな、と思った。
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# by isourou2 | 2006-12-22 20:00

「1,2,3、死、今日は生きよう  成田参拝 」笙野頼子

最近の関心事は、私有地とか公共地とか、の土地の所有の問題。この本は、それに触れてそうだから、借りた。笙野頼子は以前から気にしてはいたけど、なんとなく読めない文体だった。この本も最初のあまり有効とは思えない言葉遊びにひっかかり、もどかしく、読めなかったが、「語、録、7,8、苦を超えて行こう」から読んだら、すごい、と思った。欝と躁のブレンドが絶妙なのだ。狂いながら醒めて醒めながら狂って生きていく、感じがする。ぼくには、死ぬなら狂い死にしたい、それよりも狂い生きしたいという熱望のようなものがあるが、ここでの文章はかなり理想に近い。目に入った文章をいくつか。「埋没することと客観化することの両方が手放せないのである。」ああ、難しいな。読んでしまう。この本もう一回読んでから書くか。吉増ごうぞうに、リズムの魔、という言葉があった。このあたりは、絶頂期の吉増ごうぞうを思い出す。リズムの魔があるのである。本書のどこかで、現代詩出身だと誤解されるが自分はそうではない、と書いていたが、しかし、これは、やはり最良の現代詩ではないかとも思った。ちがいは、身辺のリアリズムから離れまいとする強い意志か。自分の視点、自分の生活、そこから踏み出すのは配慮をもって。そんな作者が、ネコのようにそろそろと、成田に近付く。まだ、3農家が残っていて空港に反対しているということをぼくは知らなかった。「第二滑走路の建設というのは成田に対して官警がした、最近の中では一番ひどい行為らしい。それは、ワールドカップに合わせて急に作られた。例えば、普通の滑走路を作ろうとすると、少人数でも農民がそこには残っている。ゆえに、その土地に作ることが出来ず、滑走路は通常より二千百八十メートルと短い。また闘争本部があるというので、誘導路(どういうものか私はよく分からない)もへの字に曲がっている。寸たらずへ曲がり、出来てみるとなぜか、そこに居座っている人がわがままで邪魔をしているかのように一瞬は見える。しかしそれは違う。要するに、人の家すれすれのところにわざと厭味のようにへの字のや短いのを拵えたのだ。」そういうことはよくあることの気がする。テント村でも。「自分が地上げされる側、という意識はそういえばなぜかなかったのだ。というか災難を潜り続けながら地上げという言葉に実感がない。でもその一端を、取材することに私は熱心だ。見えなくされる側、黙らされる側、圧倒的既成事実の前に脱力する側。常識や筋道を語れば納得出来るような簡単な事をたちまち押し流して来る大きな力によって、黙殺される側についての一部始終を。」これを書き写しながら、やはりテント村を思い出し、そして、自分が押し流す側であることもある(そういう非難されることもある)ということを思い出す。「所有とは、意識の緊張を強いるものなのだ。その意識の緊張が自我の起源であり、内面の、個の、起源なのだ。律令制が崩れて土地の集積が始まってからずっと、日本人はそのシステムの中にいた。持たざるものさえも地主になる可能性を持つという点では、所有という意識から逃れられないのだ。」「その小さな家は「私の」領土であった。また猫と私が暮らす「みんなの」聖域であった。」「共産主義の挫折とは理論の挫折には思えなかった。むしろ誤適用の問題に思えた。土地所有と宗教をその誤適用ではクリアできない。」ここらへんが、土地についてもこの本の中での考察だけど、なるほどと思うが、すこし物足りなさもある。自我と所有が直結していると結論できるのかな、とそこは考えたいと思う。他の本は読んでないけど、この人の最高傑作ではないかと思う。たぶん。これから、もっとすごくなるかもしれない。好きなところ少し。「いつものように寝入りばなに言葉が降ってきた。降るというよりそれはまさに頭悪い教祖的な言葉の見つけ方だった。「来る、言葉が、来る、言葉が、来る」という漢字で意図的に待っていたせいでその言葉は来た。異常に頭悪そうな、本当にインチキ霊能の来方で来た言葉だった。意識の皮一枚下にあるだけみたいなみえみえだった。そういう来方で降ってきた言葉は初めてだったし、とっさに扱い方も判らないほど幼稚なフレーズだったし。でも、夢の中で、太い、下品なおばさんの声がこう言ったのだ。
モリナガが、くるぞよ。」「仏の二の腕は体毛がなく筋肉が落ちていた。輝クー!アイドルに会った無神経な人のように、私は手を打って仏に叫んだ。輝クー!ムナシー!」また書くかもしれない。
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# by isourou2 | 2006-12-22 19:02

感想とは?

ぼくは、かなり記憶力がないのは自他認めるところです。それで、日々読んだり、見たり、した表現物についての感想を書くことにします。ほっておくと、ふわふわと霧散してしまう事柄だから、かなりメモ的になりますが、それなりに読めるものにしようと思ってます。なんか、冬になってきて、小屋にこもることも多くなりそうな感じがするのも始めようと思った動機なので、そのうちやるきがなくなるかもしれません。
感想と言う言葉について。感想と批評は違うと思ってます。批評というのは、相手のそれまでの文脈や作者を包む歴史的な文脈を考慮してそこからその作品について何事かを言うことだと思ってます。一方、感想は、あくまでも自分の立場から、その作品について何事かを言うことで、批評をするだけの準備もなくまた、気軽に書きたいがために、感想にしようと思いました。正確な引用や確認などはあまりしません。思い違いや誤りも多いと思います。感想世界とは、ぼくの環境に対する反応のようなものです。ふわふわと飛び散っていくものを集めていくと感想世界の地図が出来ていくのではと期待してます。付き合いいただければありがたいです。

*スパムが多いので、コメントとトラックバックができない設定にしています。
コメントやリンク希望などはisourou@hotmaill.comまでお願いします。
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# by isourou2 | 2006-12-19 20:56


日々触れたものの感想をかきます。


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