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生存権ーいまを生きるあなたにー(立岩新也・尾藤廣喜・岡本厚 2009)

たいていの本をテントの外にプラスチックケースや段ボールに入れて保管している。しかし、いつの間にか雨が入り込んでいたりしてカビてしまうことも多い。そもそも、きちんと保存したり整理したりするのが得意ではない。カビだらけの本は処分せざるえない。これもその一冊になりかかったが、ゴミ箱寸前でカバーだけ捨てて拭けばどうにかなると思い直し助かった本。タイトルの生存権が効いていたのかもしれない。
発刊当時に誰かからもらって未読だったものだが、読み始めるとインタビュー形式なこともあり、すぐに読めてしまう。重厚になりがちなテーマを小さな手軽な本にまとめた手腕は評価できる。
ただ、読んでいくうちに感じる微妙な違和感、、、それは読後も残り続ける。このテーマだから、自分にとって悪いことが書かれているはずがないと思い、いわば味方の本だと思い、実際なるほどと思うことはあるものの読んでいるとなんだかひっかかるところも出てくる。それは、立石→尾藤→岡本、という順番に多くなるようだ。全体のインタビューアーの山脇洋亮という人の姿勢も当然、関係している。(この人についての知識は何もない。カバーに何か書いてあったような気もするが、、、)
具体的に抜き書きしてみよう。
(生活保護の受付を水際でさせないようにしているという話の流れで)「追い返したって人間として存在するわけですから、ホームレスになってしまったら、またその対策も社会的コストですよね。」(山脇)
(ホームレスが自動改札を乗り越えているのを見たという話の流れで)
「駅員さんも、何日もお風呂に入っていない人を体を張って押しとどめるよりも、「まぁいいか」と。」(山脇)
「見て見ぬふりをしてるんでしょう。そういうのが、いまは一人とか二人だからまだいいけど、大半の人がそうなっちゃったら……そういうのって、崩れたら速いと思う。」(岡本)
「それこそ多くの人が思っていた日本ではなくなりますよね。」(山脇)

社会の中に浸透しやすい言葉というのはその社会の一定の層の価値観に沿った言葉である。ここで、発せられているのはまさに中流階級の価値観である。そして、それは無条件に肯定されている。

「僕のゼミの恩師は、中流階級がその国の力を決めるっておっしゃっていました。」(山脇)
「それはあるゆるところで実証されているよね。」(岡本)

そして、そのような肯定に対する批判については、

「没落していく人びとには、なかなか自覚できない恨みというか、憎悪というか、ルサンチマンを蓄積していく。」(岡本)
批判をそのように捉えることによってこの価値観は自己完結をしている。そして、そこから外れた人がこの価値観を乱さないように、生存権をあらゆる人に保証すべきだという話に収斂する。
生存権ってそういう話なんですか?

こういう発言もある。
「もう一つの問題は、こうした閉塞状態に対して発言するリベラルな大学の教授とか、ジャーナリストとか、労働組合とか、そういう人たちは、ある人びとから見ると特権層に見えるということ。そこから発せられる言葉は、何かきれいごとに聞こえるし、なぜかものすごい反発や憎悪を生み出している。」(岡本)
何か発言する際に発言者の立場が問われるというのは当たり前の話である。それは、科学的な学問、とされるものであっても同様なことは、昨今の原子力発電の問題によっても明白だろう。たとえば、学問の世界という真空地帯があるわけではなく、それは様々な政治力やお金やもろもろによって規定されている。そのために、自分の立場というのに自覚的になることが重要になる。学問の自由という言葉によって、そういうことが問われない現状があるとすれば、その自由にとって逆にそれは危険なことですらある。今までが、問われなさすぎてきたとも言える。マスコミの世界でも同様なことが言えるだろう。もちろん、岡本氏が想定していることやレベルはそのような話ではないことは分かる。とはいえ、このような発言によって、問われない立場というのに自分を滑り込ませている感は拭えない。

「僕も子どもがいたからこそ、例えば道を暴走してくる車とかに対して、ものすごくカンカンに怒ったり、憎しみさえ感じるとか(笑)」(岡本)
「僕も子どもが生まれて、しかも他の子より弱いところがある子どもだったので、戦争とか革命とか、乱暴なことがとても憎くなった。」(山脇)
最後に出てくるのは子どもである。ここで、この本のインタビューアーで企画者の山脇氏の基本的な動機・モチーフがはじめて出てくる。そういう意味では、障害の問題に関わってきた立岩氏のインタビューからはじまって、ここで一回りしたような上手な構成である。
自分の子どものことはもちろん切実だろうと思う。しかし、それはやはり自分のことではない。その子どもは、暴走する車をカッコイイと憧れる可能性も持つ他者である。革命を考えるかもしれない他者である。ぼくの感じた違和感というのは、生存権、というこの本の中には、それを自分のこととして必要とする人からの視点がほとんどないことである。簡単にいえば、生存権というのは、自動改札を乗り越えるホームレスの行為のことではないのだろうか。また、それらの人が自分の生存権のために社会を変えようとした時に揺るがされるかもしれない自分の立場についての考察がない。
他者の代理として発言していけないと言いたいわけではない。しかし、その時に自分の立場の自覚することは重要なことのはずだ。そのことによって、代理することによって他者の力を奪っていないかについて繊細になるはずだから。
この本によって、生存権という身近である話の中にも断裂が走っていることをぼんやりと感じることが出来た。足下の断裂は大きく感じるし、遠くにある巨大な断裂が小さく見えるという遠近法の錯視に注意はしたい。しかし、このような足下にある違和感から、生まれてくる思考というのを大切にしたい。
by isourou2 | 2015-07-08 19:36 | テキスト


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