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蜘蛛女のキス(プイグ 野谷文昭訳 集英社文庫1988 集英社1982)

夏風邪をひいた。昨日一日寝ていたら、だいたい直ったがまだ体がだるい。そして、昨日は日がな一日、この本を読んだ。昔、読んで面白かったのでブックオフで100円にて買ったものが本棚に並んでいた。数日前に何気なく手にとって少し読むとやはり面白いので、昨日でその続きを読み終えてしまった。頭痛で目の奥も痛いから、休み休み読んだが、それでも止めることが出来ないほどの傑作である。そもそもこの小説を読んでいる自分の状態が、この小説の設定と似ているところがあった。小説では牢獄で年長のゲイが若い革命家に語る映画のストーリーが1つの柱なのだが、そのような囚われた状況で他にすることがなく行われることが、寝床にいて他にすることがなく本を読んでいる自分に(もちろん牢獄と風邪では大違いにしても)似ているのだ。他にすることがない、という状態は日常の忙殺から離脱でもあって、それはそれで貴重な時間である。社会人が日常で小説を読む時間は、きっと電車の中や寝る前の数十分しかないだろう。社会人とは言い難いほとんど働いてないぼくにおいても同様だ。だから、病気の時というのは豊かな時間でもあるのだが、そういう意味でこの二人の強いられた時間もまた豊かである。小説というのは、人間性の回復、というか自分も人間であったことを思い出させる経験だ(ぼくは小説や映画でしか泣くことがない)という素朴な考えを最近を持っているのだが、それには(それが例え数分でもいいが)日常的な時間から離れる必要があり、つまりは読書という行為自体が小説の前提をなしているという当たり前の話でもあるが、翻ると日常がそんなに非人間的なのかといえばそうとも言えるが、経験というのはフレームがはっきりしているほど鮮明になるということでもある。結婚式や葬式、二人だけのデート、すべては(それが機能しているかどうかは分からないが)そのようなフレームであり、だから印象的になりうるのである。小説も映画もフレームである。そこから目をそらしたらもう何だか分からなくなるのだから。小説と映画のフレームのちがいはもちろん様々あるだろうが、1つは小説は明かりがないと読めず、映画が暗闇でないと見えないことである。話は逸れるが、最近はDVDやネット配信で映画を見るようになって必ずしも暗闇ではなくなっているが、ぼくは暗闇で見るのが映画だと未だに思っている。暗闇で見ることを考えて映画を作っている監督(それが何を意味するのか自分ながら不明瞭だが)少なくなっている気がする。この小説の中で映画のストーリーが語られるのは、たいていは就寝前である。だから、それは正しく映画的なのだ。ゲイである中年男にとって、暗闇の意味はそれこそ深いものがあるはずだろうし、暗闇だからロマンチックなのであり、彼が好きな映画もまた多かれ少なかれロマンチックで、また暗闇は人間の2面性を暗示もして、彼の語る映画もそのような2面性を巡る不安や葛藤を巡るものである。この小説の主人公の二人も相補的であり人間の2面性を表している。そして、この牢獄の中という限られた空間の中で、その2面性はある種の融合や和解に至り(言ってみれば)1つになるのだが、それ以外の空間(つまり日常)においてはそれは引き裂かれ破滅する(ここで思い出すのはジャン・ジュネのことである。何で彼が晩年になって革命闘争に積極的に参加したのかが気になってきた)。
粗を探せばあるのだが、それでもほとんど会話だけ(あとは文書と長い注)で構成するという思い切ったフレーミングで作られた見事な小説である。

*中年のゲイがノンケの男を落とすまでの手管についての小説でもあるのだが、蜘蛛は獲物を捕まえるために糸を張るのだが、一方では蜘蛛の巣によって蜘蛛自体も捕らわれているというのがこの小説では重要だろう。注におけるゲイを巡る分析的な理論の詳細な紹介(それはそれで整理されているもののような感じがしたのだが)は意図が掴みにくいが、そのためにあるのだと思う。
by isourou2 | 2016-08-06 21:10 | テキスト


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