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昭和を語るー鶴見俊輔座談(晶文社 2015年)

上田馬の助、タイガージェットシン、ブルーザーブロディ、といったプロレスの悪役たちは、リング内で大暴れ、客席になだれ込んでも大暴れ、熱しやすく手に負えない。かに見えて、誰も怪我はしないし、客の反応に冷静かつ繊細であり、反則技を繰り出しても、何らかのドラマの落ちに向かっている。
ここで言うところの羽仁五郎である。
とある舞踏家の葬式後の宴会で、早く酒をもってこい、だの、故人の弟子たちをミソクソにくさしつつ、誰彼をお前呼ばわり、という大御所めいた人に会った。まわりは敬遠しつつ適当に受け流す。今時、こんな人が生きているのかと驚きつつ話を聞いていると満更でもなさそうだ。イスタンブールに建築の仕事で今から帰ると言っていたから大御所にはちがいないのだろうが、しかし、結局、何を言いたいのか今一つ分からなかった。
ここで言うところの羽仁五郎と鶴見俊輔である。

羽仁五郎といえば、何となく吉本隆明にコケにされていたな、くらいの印象しかない。どうも、吉本にコケにされていたことで自分にとって縁遠くなっている面白い人がそれなりにいるような気がする。
一方で、鶴見俊輔といえば、座談の名手ということになっている。同じ出版社からの全10巻の座談集もあるから、もしかすると、これはそのエッセンスなのかもしれない。というか、レアトラックなのかな。あまりにバラバラな選択で座談の多様さは感得できるが、なんかまとまった印象を結びにくい(全部読んでないけど)。そして、その中でも羽仁五郎が屹立している。鶴見俊輔は羽仁五郎の戦中から戦後の歩みを明らかにする目的をもって座談に臨んでいる様子だが、羽仁はそんなこと頓着せずに自説・持論を思いつくままに繰り広げる。鶴見が本題に引き戻そうとして、羽仁がえんえんと脱線する、という振り幅の大きい繰り返しがエンドレスに続くのが何か爽快である。デコボコ道をクッションの硬い車で猛スピードで走っているうちにどうでもよくなって万歳を叫びたいのに近い何か。
だいたい、羽仁は「~だろ。~じゃないか」という調子で通していて、対談でこんな話法はあまりない。いや、大島渚とか岡本太郎とかはそんな感じだったかもしれない。そして、押しが強いだけではなく、ところどころで「ぼくは、八月一五日に友だちがぼくの入れられていた牢屋の扉をあけて、ぼくを出してくるんだと思って、一日待ってたよ」などと憎めない発言が散りばめられている。鶴見も座談の進みゆきを懸念しつつも、そんな羽仁に寄り添うように発言している。基本的に、こういう壮大におっちょこちょいな人を好きなことが伝わってくる。なので、これは一種の掛け合い漫才である。漫才では笑うことの少ない自分だが、この対談の最後にはついに笑いがこみあげた。
長くなるが引用する。
羽仁「(略)西洋のことばにあるじゃないか、「光栄ある闘いが闘われていた、そのときおまえはそこにいなかった」。これは人生の最大の意義だ。光栄ある闘いが敗れたあとに、どこからか出てきて、ああだこうだと教えてくださってもナンセンスだ。光栄ある闘いが闘われていたら、必ず出てきたらいいじゃないか。人間はいっぺんしか生きない人生なんだから、おもしろいことがあったら出てきたらいいじゃないか。八月一五日くらいおもしろい日はちょっと来ないんだ。昭和二十年八月十五日、日本の敗戦の日に日本の革命の機会があったのだ。この機会をのがしたのだから、あとは次の機会をつかむしかない」
鶴見「いやあ、だからあのときわたしは出なかったから、その後出ずっぱりにでてますけどね(笑)」
羽仁「もうこのへんでいいじゃないか」
鶴見「いやもうちょっと、初期の、、、」
羽仁「いやもう結論は言ったよ(笑)。あれからあとはまだ歴史じゃないよ。あれまでが歴史だよ」
鶴見「いや、戦後史なのにいまやっと八月十五日になったばかりで(笑)」
羽仁「八月十五日が戦後のすべてであり、戦後のすべてがそこで決定されたんだ。あとは、次の八月十五日がいつ来るかだ」

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by isourou2 | 2018-03-18 23:32 | テキスト

私のもらった文学賞(トーマス・ベルンハルト みすず書房2014)

皮肉、悪口、嘲弄、シニカルさ、悲劇、悲惨、こういった類のものは、人生にスペースをつくるものでなくてはならない。ごてごてと人生を埋めたり、ベタベタと塗り込めるものであってはならないのである。トーマス・ベルンハルトのそれは、そういう意味で完璧である。彼は自分の人生のスペースをつくるために、これらの技法を矢継ぎ早に繰り出し防衛と攻撃に努めている。これは生の技法である。そして、それは読む者の生のスペースを拡張するものであって、一言でいえば、風通しを良くするものであるので、結果として、すっきりするのである。言葉の効果だけを信じて、言葉を信じないものが、つまりはあらゆる種類の広告代理店が生の領土を内側と外側から侵犯している現在にあって、知的な肉弾戦を営んでいるのがベルンハルトである。そして、そのことそのものが、ユーモアの源泉であり、そうでしかないのが現在を生きる運命であることを彼は示している。この本は、そんな広告代理店的なものとの衝突の極点である文学賞の受賞をめぐるエッセイ集である。だいたいは現実に押しつぶされかけ、キートンのような仏頂面で立ち尽くす。面白くないわけがない。この作家を読むのは、これが初めてであるのだが、たぶん、ビートたけしよりもジョニーロットンよりも、はるかに明晰であり、はるかに面白い。生の拡張のために、あらゆるものを手あたり次第に投げつけろ、そして仏頂面をキープせよ。オーストリアに行きたくなった。

PS.自分の属する組織が何か悪をなすとき、個人として取りうる態度は、その組織を変化させるよう試みるか、その組織をやめるか、どちらかである。ベルンハルトがこの本の最後を飾った、かの国の言語文学アカデミーの退会の辞のように。しかし、その組織を変化させることが難しくなることに比例して、やめることも困難になる。その組織が巨大な時、そのシステムが生活にくいこんでいる時、その概念が自然さを装っている時。だから、私たちは私たちを支え、包む、組織との関係において、悪に手を染めずにはいられない。それが現代をいきる人間の前提であって、そこにおいて、人は比較的倫理的であったり道徳的であったりもするだろうが、その幅はたいして広くはない。そのような時、人は何をなしうるだろうか。呆然と立ち尽くすか、無駄かもしれないが、土くれだろうが空き瓶だろうがそこらに転がっているものを無闇に投げつけるしかない。つまり、ベルンハルトである。

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by isourou2 | 2018-03-06 17:24 | テキスト

心理(荒川洋治 みすず書房2005)

面白い詩の言葉に触れたい。そういう思いがたまに高まりをみせる。図書館で手あたり次第に詩集を開いてみる。ほとんどの詩集を、ぞっとして閉じる。今回、借りたのは、この「心理」と前に借りて全部読まなかったけど良かった川上未映子「水瓶」。名前を忘れたけど、解説を吉増剛増が書いている詩集。これも良いようだったけど、貸し出し数を超えるので借りられなかった。そもそも吉増さんが解説を書いている時点で、少しがっかりしたのだ。というのは、幾分、吉増さんの詩に近いから解説をしているわけで、吉増さんの詩に近いところがあるのならば、吉増さんの詩を読んだ方が大体はいいからだ。吉増剛増の70年代の詩集があれば、日本の現代詩はほとんど不要なのではないか、という気がする。もちろん、伊藤ひろみさんの詩は、吉増さんとはちがう領野において優れているのだし、他にもすばらしい詩集はあるのは知っているのだが、詩人ではないけど土方巽の言葉とかを除けば、まぁ無くてもそんなに困らないというか、吉増さんの70年代の詩でだいたい間に合うという感じがする。つまり、それをはっきり凌駕する広大な詩脈というのは現れていないように思うのだ。吉増さんの詩の書き方は、本質の近似値を叩きつづけることで読者を打ちのめすボクサーのようなやり方で、非常に圧力を持った高い打点ながら必殺の一撃ではないから、それが延々と続けられ(続き)、読者はほとんど頭をくらくらさせながらも疲労していくのが読書体験になる。必殺の一撃を求めながら、実は求めず、ずらしていくこのやり方は詩人としての体力が必要で、それにもっとも耐えたのが吉増さんで、やはり圧倒的である。本質を求めつつ求めないというのは、言葉を豊富にする。本質を求めるのは一語に結実するやり方である。その豊富さに耐ええるのも詩人の力量である。
いずれにせよ、言葉の打点が高いことが詩には必要で、だいたいが、たいていは1ページにおける文字数も少ないわけで、そこに俗に流れた言葉が書いてあると、その余白の白さ具合が目に刺さるようで、純化されるべき言葉の結果に表された作者の意識の低さがこちらに迫ってくるようで、いたたまれないから、ぞっとするのである。詩の言葉は、小説のように物語や文脈や事実などの道具になることで保護される割が少ないし、もちろん論文のような論理によって保護もされていないことが多いので、つまりはむき出しの言葉である。そのむき出しにされた裸の言葉たちは、様々な衣装によって粉飾されていない分、その美醜が問われざるえないし、そういうリングが詩の舞台なのである。
あまりにも前置きが長くなって疲れてきたけど、まだ途中までしか読んでいない「心理」と題された詩集には、そのような俗に流れた言葉はほとんど1つもないようだ。平俗な言葉で書かれているけど、おそらく慎重に、すぐに了解できるような言葉はほとんど省いている。
感情のあり方も了解できない。なんで、このようなことが書かれてあるのかもほとんど分からない。難解な言葉はないけど、それらの言葉の打点は見えなくて、どこを殴られているのか分からないけど不思議なダメージはある。というか、この詩集の体裁は一体なんだろう?。みすず書房という心理学や哲学や社会学などでなじみのある出版社から、それらの装丁と同じような感じで出されていて、荒川洋治という名前を知らなければ、心理学の本だと思わざる得ないだろう。そして、それが何を意図しているのかが分からない。隔絶したところにあって、意味は届かないけど厳然と存在する。この詩集の言葉もそうなのだけど、詩集の体裁も同じである。あとがきには、こうある。「心理は、ときどきの人の心からは、遠いものかもしれない。また、まわりにあるものをうけとめながら、うけいれない。そんな一瞬あるいは長引くものを、人はかかえることがある。題を「心理」とした。」なんとなく、え?と思わないだろうか。心理についての説明は、なぜこのような捉え方をしたいのか掴めないけど、まぁ意味は分からなくもないだろう。でも、なぜ題を心理としたのかは結局分からない。断言だけだ。しかし、この文章にしばらく留まってみると、にじむように了解してくるものがある。つまり、え?と思って次ぎの思案(ページ)に移らずに、え?を誘因としてそこに留まってみれば、何か了解されるものがある。そして、そのような機構はここに書かれてあることそのものであることに気づく。つまり、方法論の説明を、その方法論で書いていて、メタレベルがないために分かりにくい。メタレベルがないというのは、構造化していない(拒否している)ということで、この詩集の言葉も、そのように構造化する前の言葉も掬い取っているように思える。だから、これはシュールなものだとも言える。でも、いわゆるシュールリアリズムみたいな詩法とは違っている。強い自意識の表裏にある無意識から取り出され、結局は自意識の美醜のフィルターで濾過された言葉というよりも、ここでは他人の言葉や記号化された言葉が入ってきて、なんらかの内面での変形を受けたり、はっきりと形づくるに至らないような感情の泡立ちなどが、たゆたっているような場所に接続しようとしている。強い像を結ぶ前に立ち消えてしまうような言葉に留まろうとしている。非常に平明な明るさを持っているけど、それは<死>や<虚無>よりも<生命の枯渇>に近い。老境の詩である。ここには、本質を求める言葉も、そこからずらしていく言葉の連なりもない。枯山水に流れる水音に耳をすまし続けるような持続があり、そこにも異なった詩脈が存在していた。

*ちなみに、まだあまり読んでない。全部、読まなくても感想を書きたい時に書くことにしようと思う。だいたい、全部、読む本はほとんどない。
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by isourou2 | 2016-11-13 00:20 | テキスト

蜘蛛女のキス(プイグ 野谷文昭訳 集英社文庫1988 集英社1982)

夏風邪をひいた。昨日一日寝ていたら、だいたい直ったがまだ体がだるい。そして、昨日は日がな一日、この本を読んだ。昔、読んで面白かったのでブックオフで100円にて買ったものが本棚に並んでいた。数日前に何気なく手にとって少し読むとやはり面白いので、昨日でその続きを読み終えてしまった。頭痛で目の奥も痛いから、休み休み読んだが、それでも止めることが出来ないほどの傑作である。そもそもこの小説を読んでいる自分の状態が、この小説の設定と似ているところがあった。小説では牢獄で年長のゲイが若い革命家に語る映画のストーリーが1つの柱なのだが、そのような囚われた状況で他にすることがなく行われることが、寝床にいて他にすることがなく本を読んでいる自分に(もちろん牢獄と風邪では大違いにしても)似ているのだ。他にすることがない、という状態は日常の忙殺から離脱でもあって、それはそれで貴重な時間である。社会人が日常で小説を読む時間は、きっと電車の中や寝る前の数十分しかないだろう。社会人とは言い難いほとんど働いてないぼくにおいても同様だ。だから、病気の時というのは豊かな時間でもあるのだが、そういう意味でこの二人の強いられた時間もまた豊かである。小説というのは、人間性の回復、というか自分も人間であったことを思い出させる経験だ(ぼくは小説や映画でしか泣くことがない)という素朴な考えを最近を持っているのだが、それには(それが例え数分でもいいが)日常的な時間から離れる必要があり、つまりは読書という行為自体が小説の前提をなしているという当たり前の話でもあるが、翻ると日常がそんなに非人間的なのかといえばそうとも言えるが、経験というのはフレームがはっきりしているほど鮮明になるということでもある。結婚式や葬式、二人だけのデート、すべては(それが機能しているかどうかは分からないが)そのようなフレームであり、だから印象的になりうるのである。小説も映画もフレームである。そこから目をそらしたらもう何だか分からなくなるのだから。小説と映画のフレームのちがいはもちろん様々あるだろうが、1つは小説は明かりがないと読めず、映画が暗闇でないと見えないことである。話は逸れるが、最近はDVDやネット配信で映画を見るようになって必ずしも暗闇ではなくなっているが、ぼくは暗闇で見るのが映画だと未だに思っている。暗闇で見ることを考えて映画を作っている監督(それが何を意味するのか自分ながら不明瞭だが)少なくなっている気がする。この小説の中で映画のストーリーが語られるのは、たいていは就寝前である。だから、それは正しく映画的なのだ。ゲイである中年男にとって、暗闇の意味はそれこそ深いものがあるはずだろうし、暗闇だからロマンチックなのであり、彼が好きな映画もまた多かれ少なかれロマンチックで、また暗闇は人間の2面性を暗示もして、彼の語る映画もそのような2面性を巡る不安や葛藤を巡るものである。この小説の主人公の二人も相補的であり人間の2面性を表している。そして、この牢獄の中という限られた空間の中で、その2面性はある種の融合や和解に至り(言ってみれば)1つになるのだが、それ以外の空間(つまり日常)においてはそれは引き裂かれ破滅する(ここで思い出すのはジャン・ジュネのことである。何で彼が晩年になって革命闘争に積極的に参加したのかが気になってきた)。
粗を探せばあるのだが、それでもほとんど会話だけ(あとは文書と長い注)で構成するという思い切ったフレーミングで作られた見事な小説である。

*中年のゲイがノンケの男を落とすまでの手管についての小説でもあるのだが、蜘蛛は獲物を捕まえるために糸を張るのだが、一方では蜘蛛の巣によって蜘蛛自体も捕らわれているというのがこの小説では重要だろう。注におけるゲイを巡る分析的な理論の詳細な紹介(それはそれで整理されているもののような感じがしたのだが)は意図が掴みにくいが、そのためにあるのだと思う。
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by isourou2 | 2016-08-06 21:10 | テキスト

日本人の英語はなぜ間違うのか?(マーク・ピーターセン 集英社インターナショナル2014)

英語学習の本を読むのが趣味となっている割には、実際の英語力はまるでないのでなんだか気恥ずかしい感じすらするのであるが、というか英語というものが日本人共有の恥ずかしさを喚起する装置になっているわけで、それは欧米との距離を位置づけかねている明治以来の歴史的過程に端を発している宿痾のようなもので、結局、何が言いたいのかというと、英語学習本の感想を書くという行為もまた一定の気恥ずかしさがあり、筆を進めるためには、何らかの前置きが欲しいということである。
前置きが終わったところで感想だが、マークさんの本のタイトルとしては躊躇がなくストレートである。マークさんのこれまでの著作は、氏の日本びいきというか偏愛ぶりが随所に現れていて、比較文化的な相対感の中で読み進められるのだが、今回は対象をバッサリと切り捨てている感がある。相手が氏が好きな(日本)映画とかではなく、中学英語教科書と大学生の英作文だからである。
これらの教科書で学習をしてきたことを思えば、ここで指摘されている数々には驚きを超えて次第に憂鬱、しまいには笑えてくる。しかし、少なくてもぼくらの頃の中学英語教師は、ネィティブとの会話経験などないような人たちばかりだった気がする。数年留学した最近の若者の方がずっと英語らしい英語を話している。当時先進的な教育方針を持つ学校だったために、ネィティブの教師が受け持つ授業がはじまり、ぼくの英語担任が彼女と全く英語で会話が出来ないことが分かった時はむしろかわいそうだった。そういうレベルなので、教科書がおかしいなどということが問題になりようもなかった。もっとも、そのネィティブ教師にしろ、歌うたった以外に何の印象もないが、おそらくきちんとしたカリュキラムも方法論もなく漠然と導入されただけだったろう。
しかし、未だに教科書がそんな感じだというのはマークさんでなくとも腹立たしくなる。学習指導要綱での文法事項制限の問題もあるにしても、それこそマークさんのような人をいれて、英文をチェックすればそれで多くの問題は回避できるはずだ。
で、気になるのは、中学英語教科書のテキストを元に作られている「英会話・ぜったい・音読」(国弘正雄)シリーズである。ぼくも全部持っているし一時期、割と一生懸命に取り組んだ。内容が所詮中学教科書なので飽きて身に付かなかったが、評価の高い教材として有名である。しかし、別の本でマークさんがおかしな英語会話として教科書から引用した部分が使われている。おそらく数多くのおかしな英文がそのままだろう。つまり、教科書の2次被害が参考書に及んでいる。それを気づかないこの本の著者もおかしいだろう。そもそも考えてみれば、このシリーズは、教科書の英文テキストと音声だけの内容で、何の解説も手引きもなく、ほとんどぼったくり商品ではないか。
それはともかく、教科書関係者は耳の痛い指摘ばかりだと思うが、ぼくとしては今さら教科書が正しくなってもどうでも良いという年齢ではあるので、マークさんの快刀乱麻の切りっぷりに次第に笑いがこみあげてきたのであった。
また、マークさんが実例としてあげている大学生の英文は、ぼくから見てもさすがに稚拙すぎるとは思う。大学受験の英文はかなり難しいものであるはずだから(昔の話なのだろうか)。でも、そんなものなのかもしれない。これでは、マークさんがうんざりしてしまうのも仕方ない。
もちろん、この本の趣旨はそれらの悪文を通して、英文の書き方のポイントを様々に解説することにある。これまでの本の重複とも言えるものがほとんど(新たな指摘もある)だと思うが、それでも、ある意味無駄な文化的語りが含まれていない分、ストレートで他著より読みやすいと思う。著者の日本文が上達していて、もうこれ以上はないくらいのレベルになっているためもあるだろう。これはすごいことだ。
英語は論理を大切にする(そこから見ると日本語は論理の飛躍が多すぎる)ことを述べた章において、添削されることによって文がどんどん無くなっていくことが印象的だったのだが、そういう観点からすると、おそらくこの感想もまたほんの数行になってしまうかもしれない。
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by isourou2 | 2016-02-07 01:29 | テキスト

ルポ過激派組織IS ジハーディストを追う(別府正一郎 小山大祐 NHK出版2015)

国際情勢にうとい。テレビ・新聞を見なくなってから10年以上はとっくに過ぎている。ラジオもFMをたまに聞くだけ。ネットでニュースを見たりすることもない。いろいろと社会/政治運動に関わっているので「活動家」みたいに見られている節もあるけど、ぼくが関わっていることは狭い範囲でしかない。というか、狭い範囲=自分の肩にぶつかっている問題以外はなるべく取り組みたくないと思っているのだ。それでも、そのようなことに忙殺されている。ほとんどニュースというものは(自分の観点において)それほど自分の問題として優先して考えるべきものではない。世の中で話題になっていることも数日遅れで人づてに入ってきたり、まるで入ってこなかったりだが、困った気はしない。
図書館で天気を見ようと新聞をのぞいたらパリでテロのニュース。情報は書籍を摂取したいので(図書館にいたし)なるべく最近出たものを読んでみることにした。
ちなみに、今年の5月にギリシャ(アテネ)に2週間ほどいた時に、町の中心部の広場に寝泊まりしているシリアのおじさんのところに何回か訪れた。敷石とコンクリートの広場に低木が少しだけ植えてあり、その木陰に10人近くの移民が寝泊まりしていた。幼児もいて木にはたくさんのおもちゃがデコレーションしてあった。広場には水場もトイレもなく、病気を抱えたおじさんはとても不便そうであった。アラビア語を解さない自分は、どういう事情でここにいるのかもよく分からなかった。そういうことも気になっていた。
社会的な問題が冷めないうちに急いで出版されるルポルタージュにはだいたい同じ感触がある。文体に飾りも特徴もなく構成が凝っていない。時間との勝負という出版的な要請が、物事の緊迫度を表している。それで充分だから同じような匂いを発しているのだ。だから、この単刀直入なタイトル。過激派っていう言葉の使用とかに躊躇はない。分かりやすいことが大事だから。そして、たしかに内容は分かりやすかった。スンニ派とシーア派の内部抗争だったことも初めて知った(そういうレベルの知識しかなかった)。だからといって、もちろんスンニ派やシーア派の教義上のちがいやイスラム教についてこの本に深く書かれているわけではないのは言うまでもないだろう。
それでも、ぼくはこの本のアングルに教えられるところはあった。
ヨーロッパの若者たちもISなどに参加するためにシリアやイラクに義勇兵として3000人以上渡っているらしい。彼らの動機についての著者の分析は、家庭環境だ。ドラックやアルコールやギャンブルの問題を両親が抱える中に育った彼らは、それらを厳しく日常生活の規律として罰しているイスラム教に魅力を感じるのだという。刑務所でイスラム教に改宗した若者(この本によると刑務所内が宗教の感化・勧誘の場所になっているという。マルコムXの改宗も刑務所だったから、昔からのことだと思うが)の言葉では「イスラム教は、俺の心は平和にし、100パーセント本気で信じることができた。純粋なライフスタイルを与えてくれたし、悪に満ちている俺の生き方を変えることができた。キリスト教には、こうした生き方の指針がない」。
貧困と依存症が重なっている領域においてイスラム教(法)が有効に作用しているということだ。左翼は貧困の問題には取り組んでいるが、依存症の問題はほとんど通り過ぎている。それは医療分野ですらなく、宗教が主に担っている。たとえば、アルコール依存をはじめとする依存は医療的には治癒が難しく、それは専ら互助グループの活動が有意の実績を持っている。そして、AAなどの治癒プログラムにおいては、キリスト教的なハイヤーパワーというものが基礎になっている。そもそも、教会でミーティングが開かれる場合もある。また、欲望を絶つことで心の平和を志向し、出家などで世俗と距離を置く生き方をする仏教にしても、それはある種の依存症対策である。
宗教における男女関係の扱い方にしても依存症対策と捉えることが出来る。おそらく、それらの点においてイスラム教は徹底した志向を持っているのだろう。そして、依存症対策で行われることは、依存症者にとっては依存状態からの「解放」だが、依存症を持たない人から見て、つまり他の観点から見て、それは「自由」を失っているように思える。そこには認識の深刻な距離がある。そして、それを押しつけるには権力が必要になり、押しつけられた方にとっては暴力になりうる。
また、純粋を志向する人に対して、純粋であることの危険や不可能を説いてもあまり意味がない。なぜなら、それらの多くの人は、そのような場所に追いつめられているからである。そうせざる得ない自身の悪や不純を(それを説く人よりも)よく知り、他に手がないと感じているから、純粋を志向しているのだ。
依存症は、社会の問題と個人の問題を結びつける時の切り口として非常に重要だと思う。そして、それは信仰や宗教のシステム(組織)が持つ意味がクローズアップされる領野なのである。この本から示唆を受けたことはぼくにとってはそういうことだった。
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by isourou2 | 2015-11-23 22:09 | テキスト

英作文なんかこわくない(猪野真理枝 佐野洋 馬場彰 東京外国語大学出版会 2011)

スタンダードになりうる志の高い英語学習本だと思う。英語と日本語の文法や発想など、相互の言語の比較に基づいて、英文を書く実践が学べる本。今まで、この手法を緻密に展開した学習本はなかったと思う。つまり、画期的である。スタンダードという評価には、ある程度体系があり網羅的であるという意味が含まれる(もちろん学問レベルではなく学習レベルの話)。網羅的にするには必要不可欠な部分以外の退屈なところも含めざるえない。だから、一通りこなすには、そこそこ我慢が必要だった。しかし、最後まで出来たのは(そういう学習本自体がぼくには稀有)、内容が面白いし、発見もあるからだ。英語は動画的、日本語は静止画的として、日英の描写方法を図解したところなどは目から鱗であった。そして、この本は日本語文法の勉強にもなる。語学学習には、その言葉にずっぽり飛び込んで、その言葉の文法・発想を身につけるべき(英語で英語を考える、英英辞典を使うような感じ)という派閥がある。この本は、その対極にあり、日本語と英語の違いを明らかにすることで、日本語から英語へと丁寧に橋渡しをしている。よって、一番有効なのは、英作文というよりも、和文英訳だろう。
しかし、残念なことには、分かりにくいところや誤解しやすいところが散見し間違いもある(決定的な欠点ではないが)。うでのいい編集者が改訂すれば、もっといいものになるはずだ。あと、一度読んだだけでは頭に入らない。たぶん再読しても同じではないだろうか。画期的な本だとは思うのだが、これで実力がつくのかは自信がない。むしろ、ドリルはなくして項目を増やし、読み物+辞書的使い方も出来る本にした方が役立つのではなかったか。それはかなり欲しい。
ちなみに、第二弾もあるのだが、内容が気になる。
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by isourou2 | 2015-09-23 01:31 | テキスト

英会話なるほどフレーズ100・英会話きちんとフレーズ100(スティーブ・ソレイシィ ロビン・ソレイシィ アルク 2000年2012年)

<div>いわゆるソレイシィ本にぼくは英会話はおまかせすることにしている(英会話といっても発話のことでヒヤリングは他の方法が必要だろう)。<br></div><div>日本の英語教育(教材)の変革というのはいろいろあったのだろうが、一番の黒船は2000年発行の「なるほどフレーズ100」だったのではないだろうか(言い過ぎか?)。</div><div>これは、アメリカの赤ん坊や子供が覚えていくフレーズを生育順に集めた本である。日本人が間違えやすい口語表現についての指摘も随所にある。日本の英語教育に脱落している部分を圧倒的な説得力で実践的な内容にまとめていると言えるだろう。</div><div>パッと見ての特徴はその親しみやすさだろう。イラストも多いし、ソレイシィの文章も平易である。しかも、親子で作っているという家庭的な雰囲気が満載。取り上げられる言葉には「OK」や「Thanks」もある。簡単すぎる、、、と思ってスルーする人もいるだろう(ぼくもそうだった)。しかし、これまでの日本人の英語の問題は、あまりにも簡単なことがあまりにも言えないことだったのではないだろうか。難関大学の受験レベルの文法を勉強していても、実際には全く話せないという人はたくさんいる(ぼくもそうだった)。ただし、だからといって文法が必要ないということにはならないだろう。この本は、むしろ、基本的な文法を修得した人にこそふさわしい。</div><div>ここに出てくる有用なフレーズを理解するには、それなりの文法知識があった方がいいと思う。もちろん、丸暗記してもどうにかなるのかもしれないし、どちらにしろ暗記が必要なわけだけど、文法知識があった方が覚えやすいし、応用もきくはずだ。平易なこの本は意外に手応えのある(取り組みがいのある)本である。</div><div>「きちんとフレーズ」は続編にあたる。趣旨はほぼ同じ。ただ、日本語でよく使う言葉を英語で表すというところに力点を変更している。残念ながら、なるほどフレーズにあった練習問題がなくなっている。</div><div>両著とも無駄な内容は全くない。付属のCDも録音がクリアで良くできている。繰り返し聞いてもそれほど苦痛ではない。まずは、これらを覚えるのが会話では先決だと思う。ぼくは、海外に行く時、ソレイシィを持参してどうにか乗り切っているし、発話する分にはぎりぎりどうにかなるのではないかと思う。もちろん、瞬時にこれらのフレーズが口から出ればの話であるが。けっこうな量なので、覚えやすいとも言えない(し、実際ぼくは覚えられていない)。フレーズ集は、意味的分類が定石だが、これはネィティブが覚える順というユニークな構成。ランダムに並んでいるともいえる。記憶するのに有利な方法だとも思えないが、単調さに陥るのを回避してもいてはいる。似たようなフレーズの羅列を避け、それぞれのベストフレーズを提示しているのだから意味的分類にこだわらなくて良いのかもしれない。また例文なども他のフレーズを組み入れたりして工夫がある。</div><div>なお、このようにフレーズの組み合わせで言葉を習得することの弊害(限界)もあるだろう。それは、「なるほど」から「きちんと」まで10年以上の月日がたっているにもかかわらず、ソレイシィの書く日本語が上達しているように思えないことに現れている。一見、流麗なソレイシィの日本語は、間違ってはいないが単調であり、平易でありながらこなれていない部分もある。フレーズの使い回し・組み合わせで書く方法を表現として深化させることには限界があるのだろう。それは、おそらく日本語文法を細部にわたって知悉しているマーク・ピータセンの日本語が著作ごとに洗練されていっていることと対照的である。とはいえ、そこまでの英語の能力を望む人はマレだろう。ソレイシィのやり方で十分であるし、ぼくは英会話についてはソレイシィに私淑するつもりである。</div><div><br></div><div>*あと、特筆すべきことは、英語学習本に時折見られる覚えたくない例文(性的なオブセッションがある文や品のないユーモアなど)がほぼないことである。ただでさえ楽しくはない英語学習を行う身には、これは意外と重要なことである。</div>

*同シリーズの異系ともいえるペラペラビジネス100について

英語学習本の第一版はなるべく掴むな、というのが鉄則。
重版されてなかったら仕方ないし、大手出版社(英語本を出版している大手ではなく、一般出版社の大手という意味)だったら大丈夫かもしれないが、古本を買う場合のチェック事項としてこれは意外と重要だ。同一書があったら、なるべく版を重ねているものにするべきだ。
ぼくが買ったペラペラビジネス100は第一版。驚くほど誤植が多い。50~100はあると思う。誤植だけでなく、イラストと性別があっていなかったりもする。
まったく校正をしていないか、準備稿を間違えて印刷しているのかというレベル。
ただし、CD(録音)や例文、構成などの内容はとても良い。繰り返してやるだけの価値がある。つまり、誤植がそれだけあっても、ぼくにとってそれを超えるだけの良さがあるとは言える。だからといって、この第一版の誤植のひどさが免責にはなるわけでもないだろう。しかも、WEBなどに正誤表を掲載していないから、アルクに問い合わせて正誤表をもらわないといけなかった。そして、正誤表に載っていない間違いもたくさんある。間違いはすぐに分かるものがほとんどだから、まぁ、それほどの被害はないけど、気分のいいものではない。
おそらく、なるほどフレーズ(2000年)が大ヒットして、相当慌てて制作したからこういうことになったのだと思う。内容の素晴らしさと誤植の多さのアンバランスということでも記憶に残る一冊である。

(内容について一言。高度なビジネス交渉を目的としたものではなく、かなり初歩的な会話集である。英文を読むスピートもゆっくりだ。しかし、このレベルが必要な人は多くいるだろうしぼくのニーズにも合致している。また、「なるほど」や「きちんと」とより学習しやすいように出来ているのでそういう意味でおすすめである。しかし、上級者やすでにビジネスで英語を使っている人には必要ない本だろうから、このタイトルは誤解を招きかねない。)



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by isourou2 | 2015-07-27 00:46 | テキスト

生存権ーいまを生きるあなたにー(立岩新也・尾藤廣喜・岡本厚 2009)

たいていの本をテントの外にプラスチックケースや段ボールに入れて保管している。しかし、いつの間にか雨が入り込んでいたりしてカビてしまうことも多い。そもそも、きちんと保存したり整理したりするのが得意ではない。カビだらけの本は処分せざるえない。これもその一冊になりかかったが、ゴミ箱寸前でカバーだけ捨てて拭けばどうにかなると思い直し助かった本。タイトルの生存権が効いていたのかもしれない。
発刊当時に誰かからもらって未読だったものだが、読み始めるとインタビュー形式なこともあり、すぐに読めてしまう。重厚になりがちなテーマを小さな手軽な本にまとめた手腕は評価できる。
ただ、読んでいくうちに感じる微妙な違和感、、、それは読後も残り続ける。このテーマだから、自分にとって悪いことが書かれているはずがないと思い、いわば味方の本だと思い、実際なるほどと思うことはあるものの読んでいるとなんだかひっかかるところも出てくる。それは、立石→尾藤→岡本、という順番に多くなるようだ。全体のインタビューアーの山脇洋亮という人の姿勢も当然、関係している。(この人についての知識は何もない。カバーに何か書いてあったような気もするが、、、)
具体的に抜き書きしてみよう。
(生活保護の受付を水際でさせないようにしているという話の流れで)「追い返したって人間として存在するわけですから、ホームレスになってしまったら、またその対策も社会的コストですよね。」(山脇)
(ホームレスが自動改札を乗り越えているのを見たという話の流れで)
「駅員さんも、何日もお風呂に入っていない人を体を張って押しとどめるよりも、「まぁいいか」と。」(山脇)
「見て見ぬふりをしてるんでしょう。そういうのが、いまは一人とか二人だからまだいいけど、大半の人がそうなっちゃったら……そういうのって、崩れたら速いと思う。」(岡本)
「それこそ多くの人が思っていた日本ではなくなりますよね。」(山脇)

社会の中に浸透しやすい言葉というのはその社会の一定の層の価値観に沿った言葉である。ここで、発せられているのはまさに中流階級の価値観である。そして、それは無条件に肯定されている。

「僕のゼミの恩師は、中流階級がその国の力を決めるっておっしゃっていました。」(山脇)
「それはあるゆるところで実証されているよね。」(岡本)

そして、そのような肯定に対する批判については、

「没落していく人びとには、なかなか自覚できない恨みというか、憎悪というか、ルサンチマンを蓄積していく。」(岡本)
批判をそのように捉えることによってこの価値観は自己完結をしている。そして、そこから外れた人がこの価値観を乱さないように、生存権をあらゆる人に保証すべきだという話に収斂する。
生存権ってそういう話なんですか?

こういう発言もある。
「もう一つの問題は、こうした閉塞状態に対して発言するリベラルな大学の教授とか、ジャーナリストとか、労働組合とか、そういう人たちは、ある人びとから見ると特権層に見えるということ。そこから発せられる言葉は、何かきれいごとに聞こえるし、なぜかものすごい反発や憎悪を生み出している。」(岡本)
何か発言する際に発言者の立場が問われるというのは当たり前の話である。それは、科学的な学問、とされるものであっても同様なことは、昨今の原子力発電の問題によっても明白だろう。たとえば、学問の世界という真空地帯があるわけではなく、それは様々な政治力やお金やもろもろによって規定されている。そのために、自分の立場というのに自覚的になることが重要になる。学問の自由という言葉によって、そういうことが問われない現状があるとすれば、その自由にとって逆にそれは危険なことですらある。今までが、問われなさすぎてきたとも言える。マスコミの世界でも同様なことが言えるだろう。もちろん、岡本氏が想定していることやレベルはそのような話ではないことは分かる。とはいえ、このような発言によって、問われない立場というのに自分を滑り込ませている感は拭えない。

「僕も子どもがいたからこそ、例えば道を暴走してくる車とかに対して、ものすごくカンカンに怒ったり、憎しみさえ感じるとか(笑)」(岡本)
「僕も子どもが生まれて、しかも他の子より弱いところがある子どもだったので、戦争とか革命とか、乱暴なことがとても憎くなった。」(山脇)
最後に出てくるのは子どもである。ここで、この本のインタビューアーで企画者の山脇氏の基本的な動機・モチーフがはじめて出てくる。そういう意味では、障害の問題に関わってきた立岩氏のインタビューからはじまって、ここで一回りしたような上手な構成である。
自分の子どものことはもちろん切実だろうと思う。しかし、それはやはり自分のことではない。その子どもは、暴走する車をカッコイイと憧れる可能性も持つ他者である。革命を考えるかもしれない他者である。ぼくの感じた違和感というのは、生存権、というこの本の中には、それを自分のこととして必要とする人からの視点がほとんどないことである。簡単にいえば、生存権というのは、自動改札を乗り越えるホームレスの行為のことではないのだろうか。また、それらの人が自分の生存権のために社会を変えようとした時に揺るがされるかもしれない自分の立場についての考察がない。
他者の代理として発言していけないと言いたいわけではない。しかし、その時に自分の立場の自覚することは重要なことのはずだ。そのことによって、代理することによって他者の力を奪っていないかについて繊細になるはずだから。
この本によって、生存権という身近である話の中にも断裂が走っていることをぼんやりと感じることが出来た。足下の断裂は大きく感じるし、遠くにある巨大な断裂が小さく見えるという遠近法の錯視に注意はしたい。しかし、このような足下にある違和感から、生まれてくる思考というのを大切にしたい。
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by isourou2 | 2015-07-08 19:36 | テキスト

銃殺(ジョセフ・ロージー 1964)

これは、やりきれない映画。というか、やりきれないという方法論だ。そして、戦争というものを描くのに一番納得のいく方法論である。この映画には、派手なシーンやスペクタルな映像は出てこない。前線からいったん退いた営屯地を舞台に、そこから脱走し捕まり連れ戻された兵士の戦地裁判が主題。急こしらえの(あるいは接収したのか)営屯地の中での出来事に終始している。外は雨が降り続いて、兵士たちは泥さらいをしている。死の恐怖の中での徒労感に満ちた時間が兵士たちの日常のほとんどをしめるはずだから、これは秀逸な設定である。
脱走した兵士、その兵士の弁護人を務める大尉、兵士を告発する検察側を務めた大尉、裁判長になった大佐、それぞれの描き方も一面的ではなく陰影に富んでいる。大尉は、「傷ついた猟犬は殺した方がいい」と平然とうそぶき冷酷だと噂されているが、兵士の弁護人としては兵士は心身喪失状態だったと無罪を主張し、一人の男を正義によって裁けないようでは正義の戦争は行えない、というような熱弁をふるう。代理人の大佐は、兵士は単なる臆病者にすぎないと断じて死刑を求めるが、裁判後には「無罪になればいいね」と言う。裁判長は、司令部が減刑を行う可能性について確認する。しかし、翌日、営屯地から再び前線に向かうことが決定したあおりを受けて、兵士の士気を高めるために司令部は減刑を行わない。
スペクタルに頼らないということは、人物と状況を丁寧に描く選択をしたということでもある。
そして、それは、命令と義務、という軍隊のエッセンスと人間性の相克を軸に描かれている。命令と義務が支配する場では、その範囲内で人間の持つ気持ちや行動が発現する。しかし、そこから逸脱することは許されない。戦争というものが、他人を殺すという非人間的なものである以上、その命令と義務も不条理なものである。一方、裁判というのは、本来は権利が主張される場でもある。しかし、ここが戦場である以上、命令と義務によって権利は踏みつぶされる。大尉は、判決後に裁判長に、これは我々の負けだ、我々は人殺しだ、裁判は茶番だ、というようなことを言う。命令と義務の体系は維持され、それは自分の死か戦争の終結まで続くのである。
命令・義務と人間性の相克については、まだ多くの場面で多様に冷静に描かれている。それをいちいち挙げることはしないが、この映画の最後の場面に関連して、<戦争における「人殺し」の心理学>(デーヴ・グロスマン)を想起した。第二次世界大戦までの地上戦において、相手を狙撃できる状況でもほとんどの兵士は的を狙わなかったという指摘である。それが、ベトナム戦争では9割以上的を狙うようになったことについて書かれてある。(ただし、(全部読んでないが)これはたいしていい本ではない。内容は雑駁で繰り返しも多く、また視点もアメリカ軍人という限界があり全ては同意しがたい。)
命令と義務が専横する世界というのが戦場(軍隊)だけのことなのか、というのが現在的な問いとして残り、またこの監督が、きっとちがう作品でその陰影を冷静に描いているのではないかと期待させてくれた。
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by isourou2 | 2015-07-08 18:00 | テキスト


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