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境界性パーソナリティ障害~疾患の全体像と精神療法の基礎知識(小羽俊士みすず書房2009)

専門書である。でも、相当に読みやすい。著者が「精神療法について実践的な考え方を議論することを目的」に「治療で関係ないところでの理屈をこねるのは最小限にした」ためだろう。たしか5年前くらいに読んだから再読である。言うまでもないが、こちらは素人だから、この障害において、薬は補助的なもので、治療の中心に問診を置いているということからして知らなかった。そして、そもそも精神療法は(すべてかどうか知らないが)、治療者と患者の関係の中に病状を再演する形で移し替えることによって行うことも知らなかった。これは、患者との関係において、治療者が病気の一方の当事者になるようなものである。通常の医者のあり方とは全然ちがう。なので、ある意味、通常の医者以上に医者としての枠組み、診療という時空を区切る等、が必要だろう。単に話を聞いて助言をしているだけなのかと思ったら、このような大変な作業をしているわけである。そのため、具体的な臨床例をあげて、それをどのように解釈していくかという読み解き方が大変に面白い。顕示的に示されている話がもつ象徴的な意味、それを治療者と患者の関係を示しているものとして読み解く。分かりやすく例示しているにしてもスリリングですらある。話だけではなく態度(行動)もあわせて、つまりは、メタメッセージの解釈を行う。そして、その解釈を患者に伝えていくことで患者が自覚していない部分の統合を促す作業が治療の中心になっている。解釈を伝えるべきなタイミング(介入)も具体的に書かれてある。
この本の中で一番よく出てくる概念である〈投影同一化〉も大変参考になる。これは、相手に自分を見るという単なる〈投影〉ではなく、自分の中の抱えきれない嫌な思いを相手に引き起こし(押し込み)、その嫌なものを取り入れざるえない相手の感情を支配することで、自分の気持ちをコントロールする、という心的な動きである。ある程度親密な相手から自分の中に嫌な気分がもたらされている時、投影同一化されていると考えていいのではないだろうか。そして、それは、自分が相手に投影同一化をしている結果、そのような連鎖であることが多いと思う。治療的には、「投影同一化されてきている未知なものをとりあえず受け入れておき、理解が生じてくるのを待つ」「自分(患者)にとっては受け入れられない、抱えきれないものであったその嫌な感情も、相手によって受け入れられ、抱えられ、理解され弱毒化された状態になるのを見て、患者は再びその嫌なものを自分に受け入れ、抱え、理解するようになる。こうしたことを繰り返す中で、受け入れ、抱え、理解する能力という心の機能が患者の中に取り入れ同一化されていくことになる、と考えるのである」。実生活では、なかなか、このようにはいかないのではあろうが、こういうことを知っているのが有益なのは間違いない。この本で書かれていることは、診療の場という限られた時空において有効な考えや技法であるが、その診療の場では、治療者と患者は、日常の時空と同じように、当事者として疾患に取り組んでいるわけで、そこでの知識が日常にも有効性があるのは当然のことである。つまり、この本が専門家ではないぼくが読んでも面白いのは、日常において生かせるような認識がたくさん書かれてあるからである。同じ著者で、一般向けの本も出ているが、たぶん、それよりも専門家でなくても、この本の方が得るものが多いような予感がする。


by isourou2 | 2019-01-31 16:30 | テキスト

かぼちゃを塩で煮る(牧野伊三夫 幻冬舎2016年)

いいタイトルである。前回のエントリーの区分でいうと、渋面、であるが、魯山人というよりは、実篤、山頭火、井伏鱒二、の系統を洒脱に(悪くいえば若干、代理店的に、80年代風に)した味である。読んだことないけど、東海林さだおを頑固にした感じか。
しかし、この本を読んで、ホットサンドメーカーが欲しくなった。料理本で一番重要なのは記載された料理を作りたくなることであるのは言うまでもない。調味料や調理器具を欲しくなるのも同様である。で、ホットサンドメーカーは楽しいです。しかし、よく確認しなかったのがいけないのだが、焼き印がついていて、それが犬と猫のイラストなのだ。自分自身が渋面の年を迎えて、犬や猫のかわいい系のイラストがついたパンを食べるのはあまり食欲を増進させるものでもない。このホットサンドに焼き印を押したがる傾向は、それが単なる模様だとしても余計であると言わざる得ない。面白く感じる のは、初めの一回だけだろう。しかも、焼き印の凹凸はフランパン的に使う場合には端的にいって邪魔でしかなく、洗うときにも不便である。利便性を犠牲にしてまで犬や猫のイラストを毎食見なければならないのは、なおさらに苦痛である。制作者の顔を挟んでやりたいくらいである。でも、ホットサンドメーカー自体は非常に良く出来ている。レパートリーが増えると言うよりも、食事のジャンルが一つ増えるくらいのインパクトがある。
もう一つ、この本から触発されたのは断食である。でも、まだ、これはやっていない。


by isourou2 | 2018-09-01 22:36 | テキスト

かぼちゃを塩で煮る(牧野伊三夫 幻冬舎2016年)

いいタイトルである。前回のエントリーの区分でいうと、渋面、であるが、魯山人というよりは、実篤、山頭火、井伏鱒二、の系統を洒脱に(悪くいえば若干、代理店的に、80年代風に)した味である。読んだことないけど、東海林さだおを頑固にした感じか。
しかし、この本を読んで、ホットサンドメーカーが欲しくなった。料理本で一番重要なのは記載された料理を作りたくなることであるのは言うまでもない。調味料や調理器具を欲しくなるのも同様である。で、ホットサンドメーカーは楽しいです。しかし、よく確認しなかったのがいけないのだが、焼き印がついていて、それが犬と猫のイラストなのだ。自分自身が渋面の年を迎えて、犬や猫のかわいい系のイラストがついたパンを食べるのはあまり食欲を増進させるものでもない。このホットサンドに焼き印を押したがる傾向は、それが単なる模様だとしても余計であると言わざる得ない。面白く感じる のは、初めの一回だけだろう。しかも、焼き印の凹凸はフランパン的に使う場合には端的にいって邪魔でしかなく、洗うときにも不便である。利便性を犠牲にしてまで犬や猫のイラストを毎食見なければならないのは、なおさらに苦痛である。制作者の顔を挟んでやりたいくらいである。でも、ホットサンドメーカー自体は非常に良く出来ている。レパートリーが増えると言うよりも、食事のジャンルが一つ増えるくらいのインパクトがある。
もう一つ、この本から触発されたのは断食である。でも、まだ、これはやっていない。


by isourou2 | 2018-09-01 22:36 | テキスト

料理本の世界

いわゆる趣味・実用というジャンルの中では、英語学習本と並んで、料理本にはけっこうな関心がある。特に、文字主体の料理本が好きなのである。それは、レシピとエッセイのあわいである。単なるレシピにおいては、さすがに読後感はないが、かといって料理エッセイになってしまうと実用性にかける。その中間。常々思うのは、料理本において写真というのはどれほど必要なのか。結局、作るとき参考になるのはレシピだけだし、写真がないと完成形が想像できない方はよほどの料理一年生以外はいないはず。写真が助けになる場合(たとえば、魚のさばき方とか)もあるにはあるだろうが、非常に限定される。料理本に写真が多用されるのは、端的にいえば、手抜きであり、穴埋めにすぎない。言葉をつくして説明すべき著者の労力を写真によってあいまいに省き、それじゃ紙面が埋まらないしボリューム感が出ないので大きな写真を入れましょうよ、と編集者が考えて一丁あがり。いや、猫の写真と料理の写真は、見てイヤな気分になる人などいない。おいしそうな写真、けっこうなのだが、写真が無駄に多いのは安直なつくりだと考えているので、ストイックに写真を制限した料理本の姿勢にぼくは魅力を感じるわけです。
その系譜というのは(といっても江戸とかそういう話ではなく)、ぼくの中では、壇一雄「壇流クッキング」とか、小林かつよ(最初のころ)とか、水上勉とか。もっと、渋いところはいろいろあるのだろうが(そんなに詳しいわけではないので)、この流れとしては、とりあえず魚柄仁之助とか奥薗壽子が思い浮かぶ。
そこで、奥薗壽子の本をやすかったので、メルカリで数冊購入した。「おくぞの流簡単激早ぴちぴちお魚おかず202」「おくぞの流簡単激早たっぷり野菜おかず229」「別冊すてきな奥さん 奥薗壽子のアイデア料理決定版 ラク!うま!韓国ごはん」である。
そして、思ったことは、料理の写真が多いどころか、奥薗さんの笑顔の写真が多い!。笑顔の多発。一冊だけだとそうも思わないが、三冊重なるとさすがに笑顔の過食である。もちろん、猫の写真と料理の写真と笑顔の写真は見てイヤな気分になる人はいない、のは分かる。奥薗さんの笑顔もすてき(な奥さん)ではある。たしか、奥薗さんがズボラ料理なまくら料理として登場した時の本は、テキスト主体だったと思うが、このような写真を中心にした本を濫出してもいたのだろう。
最近の奥薗さんの本は、写真はあっても笑顔は抑制されている。ちなみに、韓国ごはんは奥薗さんのソウル食べつくし紀行つきであり、それも笑顔の乱反射であり、一種の奥薗写真集の趣きもある。
そう思うと、テキスト・写真という対立軸とともに、料理本において、笑顔・渋面、という軸の存在も感じられてきた。壇、水上は渋面だろう。笑ってほしいというニーズもあんまりないはずだ。どっちが好きか。小林かつよはたぶん笑ってもいるだろうが、ケンシロウほど破顔ではないはずだ。どっちが好きか。うーーん。やはり、どっちかというと、日常的には笑っている方がいいのかもしれないけど、料理においては求道的姿勢を尊しとしたい。求道的といえば、忘れてはいけない魯山人もいた。魯山人に、もっと笑顔くれませんか、とカメラマンも注文しがたい。ただ、でも、そんな人と一緒に食べるのは肩が凝るだろう。難しいところだが、奥薗さんも乾物などを勧める姿勢は笑っていないし、笑顔の多発は一種の戦略なのかもしれない。料理のおける真剣さは、テキストにおいて表れる。とりあえず料理本に笑顔の写真はいらないと思う。もちろん、渋面の写真もいらない。

by isourou2 | 2018-07-04 00:08 | テキスト

ポメラDM30の発売を記念して

このブログではキングジムのテキスト入力端末ポメラについて偏執的に感想を述べてきている。そして、ぼくがポメラに求めているのが、第一に目に優しいこと、次に乾電池駆動であることは画面が酸っぱくなるほど書いてきた。そして、ついに、その酸っぱさが熟成してワインになるように、または、べったら漬けになるかのように、DM30が6月に発売された。それを慶賀して書き始めている現在、大変残念ながら、入手していないどころか実機に触れてもいない。大型量販店を数軒まわったのだが、DM30を置いていないのだ。ヤマダ電機で店員に聞いたら「キングジムに催促はしているんですけどねぇ。真に受けてくれないみたいで」と悩ましい顔をした。ビジネスなんだから真に受けるも何もないはずだが渋っているみたいだ。DM200のサンプル機はあってもDM30はない。新宿のビックカメラでようやく遭遇したが、店員いわく、模型品です、とのこと。いや、電池が切れているだけにも見えたのだが、結局試し打ちが出来ず、実感をもってのレビューは無理な次第。ただ、DM30は今のところ評判があまり芳しくないようだ。DM200に比べて変換が賢くない、とか、残像が残るとか、入力の反映が遅れるとか、電池の持ちがたいして良くない、とか。しかし、DM100やDM200と比べるのはいかがなものか。それらの系列とはDM30は別であり、比べるならばDM20(か25)だろう。つまり、視認性よし、バックライトなし、折りたたみ式、乾電池駆動、の系列での比較でなければ意味がない。そして、それならば、大画面化し、ファイル文字数も増えているわけで充分の優位がある。ただし、高いのがネックだが、、、。そう高い。これは当分は手が出ない値段である。

そして、中古でDM200を買ってしまった。

定価の半額以下で新品同様である。ついに、DM20のキー反応が復活不能なレベルまで悪化して(反応しないキーをドライヤーで加熱して何度か復元させたりしていたのだが限界に達して)、やはりDM100では目が痛いので、DM10を使っていた。DM10は決して悪くない。壊れやすいポメラとして10年もっているだけでも感謝している。しかし、ついメルカリでDM200を見つけて反射的に購入してしまった。DM200は、バックライトあり、バッテリー駆動、とぼくからしたらストライクから外れた商品だった。DM30の発売で気分が揺れている時に、大きく外れたボールが急にど真ん中に見えてフルスイングしてしまった、、、打球は伸びたか伸びないか。ただ、兄がDM200を持っていたために、DM100に比べればバックライトは相当に暗くできて、また白黒反転もできることは分かっていたし、バッテリー駆動というのもモバイルバッテリーを増強すればどうにかなるという目算はあった。だから、タイトルに偽りがあるようだが、主にDM200の感想になる。まず、目の負担はどうなのか。これは、予想以上に大丈夫である。画面にアンチグレアのシートを貼り、白黒反転にして、光量は最低。これくらいならば、長時間操作しても目の負担感はそれほどではない。文字を暗くしているために視認性はDM20以下だが、そんなことよりも目が疲れないことが大切である。バッテリーはまだ一回も全部使い切ってないので、なんともいえない。ただ、ぼくの場合は電池の方がいいに決まっている。今も、バッテリー切れ表示が出ていて、モバイルバッテリーも空だから、時間との勝負で慌てて打ち込んでいるところである。
親指シフト入力はどうか。ちなみに、DM30は親指シフトが非搭載である。これもDM10系列だから仕方がないのだが、矛盾するようだが、このマイナーな特徴は継承してもらいたかったような気がする。特に、DM10系列と齟齬のある仕様ではないはずだ。
DM200の親指シフトはDM100よりも設定などが細かく出来るようになっており、より本気度の高いものだ。なので、意地でも習得しようと、ここ数日、うだるような暑さの中でひたすらスローペースでの入力を繰り返していた。そして、諦めかかっている。今は、ローマ字で入力しているが、なんと無意識に快適に打ち込めることか。親指シフトが同様な状態までになるにはやはり相当な時間がかかるだろう。また、親指シフトは打鍵数は少ないが、操作は複雑であり、ローマ字入力の単調な野蛮さが自分には合っているような気もする。例えていうならば、親指シフト入力はプログレであり、ローマ字入力はイナタいハードロックである。いや、親指シフトは優美なボサノバであり、ローマ字入力は肉体的なバリファンキである。ともかく、親指シフトを諦めかかっているわけだが、一応精進するつもりではあり、これはDM200の楽しみの1つである。あと、親指シフト入力は手の位置を変えないホームポジョンが大事であるらしいので、ダイヤモンドカーソル(ctlキー+α)でカーソルを動かせるようにバージョンアップしてほしいと思う。また、DM200の漢字変換が賢くなったというのは確かにそうだけど、今のところ、それほどの違いを感じてはいない。ぼくは、DM20でも、それほど苦痛ではなかった。あと、QRコードの変換文字数が増えて便利になっていたり、様々な改良がほどこされていて、現状として総合的にみたら、やはりポメラの最上機種であることは間違いない。思わずのフルスイングは、ホームランとはいかないものの充分に満足がいくものであった。

、、、いつの日にかDM30が手頃な価格になった時には、ぜひ使いたいという気持ちはある。そして、この路線はぜひとも継承していただきたいと切に思っている。フロントライト搭載の要望もあるが、それがバックライトよりもずっとましで便利なものであることは理解できるが、手元をクリップライトなどで明るくすればいいだけではないだろうか。フロントライトは光を反射させるガイド面が必要で、それによって読みにくくなる可能性もあるらしいし、特許とかの関係もあり値段が上がるだろう。そういうデメリットがあるならば必要ないと思う。DM20のような白黒液晶が入手しにくいならば、電子ペーパーの線でよりよい製品を開発していただきたい。あと、特徴を相殺するような機能は必要ないが、他の機種と差別化をはかるために、搭載しなかったりアップデートで改善しなかったりする機能があるのだとしたら(ちょっと疑っているのですが)、そういうケチくさいことはしない方がよい。ポメラという市場全体のことを考えて、そこから人が離れないように、それぞれの機種で最善のことをしてほしい。そして、次に出す機種は、この2系列のいいとこ取りのドリーム・ポメラはどうだろう? 例えば、電子ペーパー(遅延なし)、乾電池駆動(セイコーの電子辞書にあったような、充電池と乾電池の併用なら現実的ではないだろうか)、ストレート式(折りたたみ機構はキーボードの断線などによる故障の原因となってきた。そして、実際のところ、多くの折りたたみのポメラは折りたたむと使用できないために、ストレートのままで延命させるという不格好を強いられてきた)、フロントライトなし(ありのバージョンが5000円増しくらいであってもよし)、親指シフト搭載、QRコード、辞書機能、縦書き、白黒反転、画面は大きい方がよい、というところだろうか。ブルートゥースやWIFI機能はいらない。うーーん、夢である。
しかし、その前に、DM30を店頭に並べてくれ!!。


by isourou2 | 2018-07-03 23:43 | テキスト

昭和を語るー鶴見俊輔座談(晶文社 2015年)

上田馬の助、タイガージェットシン、ブルーザーブロディ、といったプロレスの悪役たちは、リング内で大暴れ、客席になだれ込んでも大暴れ、熱しやすく手に負えない。かに見えて、誰も怪我はしないし、客の反応に冷静かつ繊細であり、反則技を繰り出しても、何らかのドラマの落ちに向かっている。
ここで言うところの羽仁五郎である。
とある舞踏家の葬式後の宴会で、早く酒をもってこい、だの、故人の弟子たちをミソクソにくさしつつ、誰彼をお前呼ばわり、という大御所めいた人に会った。まわりは敬遠しつつ適当に受け流す。今時、こんな人が生きているのかと驚きつつ話を聞いていると満更でもなさそうだ。イスタンブールに建築の仕事で今から帰ると言っていたから大御所にはちがいないのだろうが、しかし、結局、何を言いたいのか今一つ分からなかった。
ここで言うところの羽仁五郎と鶴見俊輔である。

羽仁五郎といえば、何となく吉本隆明にコケにされていたな、くらいの印象しかない。どうも、吉本にコケにされていたことで自分にとって縁遠くなっている面白い人がそれなりにいるような気がする。
一方で、鶴見俊輔といえば、座談の名手ということになっている。同じ出版社からの全10巻の座談集もあるから、もしかすると、これはそのエッセンスなのかもしれない。というか、レアトラックなのかな。あまりにバラバラな選択で座談の多様さは感得できるが、なんかまとまった印象を結びにくい(全部読んでないけど)。そして、その中でも羽仁五郎が屹立している。鶴見俊輔は羽仁五郎の戦中から戦後の歩みを明らかにする目的をもって座談に臨んでいる様子だが、羽仁はそんなこと頓着せずに自説・持論を思いつくままに繰り広げる。鶴見が本題に引き戻そうとして、羽仁がえんえんと脱線する、という振り幅の大きい繰り返しがエンドレスに続くのが何か爽快である。デコボコ道をクッションの硬い車で猛スピードで走っているうちにどうでもよくなって万歳を叫びたいのに近い何か。
だいたい、羽仁は「~だろ。~じゃないか」という調子で通していて、対談でこんな話法はあまりない。いや、大島渚とか岡本太郎とかはそんな感じだったかもしれない。そして、押しが強いだけではなく、ところどころで「ぼくは、八月一五日に友だちがぼくの入れられていた牢屋の扉をあけて、ぼくを出してくるんだと思って、一日待ってたよ」などと憎めない発言が散りばめられている。鶴見も座談の進みゆきを懸念しつつも、そんな羽仁に寄り添うように発言している。基本的に、こういう壮大におっちょこちょいな人を好きなことが伝わってくる。なので、これは一種の掛け合い漫才である。漫才では笑うことの少ない自分だが、この対談の最後にはついに笑いがこみあげた。
長くなるが引用する。
羽仁「(略)西洋のことばにあるじゃないか、「光栄ある闘いが闘われていた、そのときおまえはそこにいなかった」。これは人生の最大の意義だ。光栄ある闘いが敗れたあとに、どこからか出てきて、ああだこうだと教えてくださってもナンセンスだ。光栄ある闘いが闘われていたら、必ず出てきたらいいじゃないか。人間はいっぺんしか生きない人生なんだから、おもしろいことがあったら出てきたらいいじゃないか。八月一五日くらいおもしろい日はちょっと来ないんだ。昭和二十年八月十五日、日本の敗戦の日に日本の革命の機会があったのだ。この機会をのがしたのだから、あとは次の機会をつかむしかない」
鶴見「いやあ、だからあのときわたしは出なかったから、その後出ずっぱりにでてますけどね(笑)」
羽仁「もうこのへんでいいじゃないか」
鶴見「いやもうちょっと、初期の、、、」
羽仁「いやもう結論は言ったよ(笑)。あれからあとはまだ歴史じゃないよ。あれまでが歴史だよ」
鶴見「いや、戦後史なのにいまやっと八月十五日になったばかりで(笑)」
羽仁「八月十五日が戦後のすべてであり、戦後のすべてがそこで決定されたんだ。あとは、次の八月十五日がいつ来るかだ」

by isourou2 | 2018-03-18 23:32 | テキスト

私のもらった文学賞(トーマス・ベルンハルト みすず書房2014)

皮肉、悪口、嘲弄、シニカルさ、悲劇、悲惨、こういった類のものは、人生にスペースをつくるものでなくてはならない。ごてごてと人生を埋めたり、ベタベタと塗り込めるものであってはならないのである。トーマス・ベルンハルトのそれは、そういう意味で完璧である。彼は自分の人生のスペースをつくるために、これらの技法を矢継ぎ早に繰り出し防衛と攻撃に努めている。これは生の技法である。そして、それは読む者の生のスペースを拡張するものであって、一言でいえば、風通しを良くするものであるので、結果として、すっきりするのである。言葉の効果だけを信じて、言葉を信じないものが、つまりはあらゆる種類の広告代理店が生の領土を内側と外側から侵犯している現在にあって、知的な肉弾戦を営んでいるのがベルンハルトである。そして、そのことそのものが、ユーモアの源泉であり、そうでしかないのが現在を生きる運命であることを彼は示している。この本は、そんな広告代理店的なものとの衝突の極点である文学賞の受賞をめぐるエッセイ集である。だいたいは現実に押しつぶされかけ、キートンのような仏頂面で立ち尽くす。面白くないわけがない。この作家を読むのは、これが初めてであるのだが、たぶん、ビートたけしよりもジョニーロットンよりも、はるかに明晰であり、はるかに面白い。生の拡張のために、あらゆるものを手あたり次第に投げつけろ、そして仏頂面をキープせよ。オーストリアに行きたくなった。

PS.自分の属する組織が何か悪をなすとき、個人として取りうる態度は、その組織を変化させるよう試みるか、その組織をやめるか、どちらかである。ベルンハルトがこの本の最後を飾った、かの国の言語文学アカデミーの退会の辞のように。しかし、その組織を変化させることが難しくなることに比例して、やめることも困難になる。その組織が巨大な時、そのシステムが生活にくいこんでいる時、その概念が自然さを装っている時。だから、私たちは私たちを支え、包む、組織との関係において、悪に手を染めずにはいられない。それが現代をいきる人間の前提であって、そこにおいて、人は比較的倫理的であったり道徳的であったりもするだろうが、その幅はたいして広くはない。そのような時、人は何をなしうるだろうか。呆然と立ち尽くすか、無駄かもしれないが、土くれだろうが空き瓶だろうがそこらに転がっているものを無闇に投げつけるしかない。つまり、ベルンハルトである。

by isourou2 | 2018-03-06 17:24 | テキスト

心理(荒川洋治 みすず書房2005)

面白い詩の言葉に触れたい。そういう思いがたまに高まりをみせる。図書館で手あたり次第に詩集を開いてみる。ほとんどの詩集を、ぞっとして閉じる。今回、借りたのは、この「心理」と前に借りて全部読まなかったけど良かった川上未映子「水瓶」。名前を忘れたけど、解説を吉増剛増が書いている詩集。これも良いようだったけど、貸し出し数を超えるので借りられなかった。そもそも吉増さんが解説を書いている時点で、少しがっかりしたのだ。というのは、幾分、吉増さんの詩に近いから解説をしているわけで、吉増さんの詩に近いところがあるのならば、吉増さんの詩を読んだ方が大体はいいからだ。吉増剛増の70年代の詩集があれば、日本の現代詩はほとんど不要なのではないか、という気がする。もちろん、伊藤ひろみさんの詩は、吉増さんとはちがう領野において優れているのだし、他にもすばらしい詩集はあるのは知っているのだが、詩人ではないけど土方巽の言葉とかを除けば、まぁ無くてもそんなに困らないというか、吉増さんの70年代の詩でだいたい間に合うという感じがする。つまり、それをはっきり凌駕する広大な詩脈というのは現れていないように思うのだ。吉増さんの詩の書き方は、本質の近似値を叩きつづけることで読者を打ちのめすボクサーのようなやり方で、非常に圧力を持った高い打点ながら必殺の一撃ではないから、それが延々と続けられ(続き)、読者はほとんど頭をくらくらさせながらも疲労していくのが読書体験になる。必殺の一撃を求めながら、実は求めず、ずらしていくこのやり方は詩人としての体力が必要で、それにもっとも耐えたのが吉増さんで、やはり圧倒的である。本質を求めつつ求めないというのは、言葉を豊富にする。本質を求めるのは一語に結実するやり方である。その豊富さに耐ええるのも詩人の力量である。
いずれにせよ、言葉の打点が高いことが詩には必要で、だいたいが、たいていは1ページにおける文字数も少ないわけで、そこに俗に流れた言葉が書いてあると、その余白の白さ具合が目に刺さるようで、純化されるべき言葉の結果に表された作者の意識の低さがこちらに迫ってくるようで、いたたまれないから、ぞっとするのである。詩の言葉は、小説のように物語や文脈や事実などの道具になることで保護される割が少ないし、もちろん論文のような論理によって保護もされていないことが多いので、つまりはむき出しの言葉である。そのむき出しにされた裸の言葉たちは、様々な衣装によって粉飾されていない分、その美醜が問われざるえないし、そういうリングが詩の舞台なのである。
あまりにも前置きが長くなって疲れてきたけど、まだ途中までしか読んでいない「心理」と題された詩集には、そのような俗に流れた言葉はほとんど1つもないようだ。平俗な言葉で書かれているけど、おそらく慎重に、すぐに了解できるような言葉はほとんど省いている。
感情のあり方も了解できない。なんで、このようなことが書かれてあるのかもほとんど分からない。難解な言葉はないけど、それらの言葉の打点は見えなくて、どこを殴られているのか分からないけど不思議なダメージはある。というか、この詩集の体裁は一体なんだろう?。みすず書房という心理学や哲学や社会学などでなじみのある出版社から、それらの装丁と同じような感じで出されていて、荒川洋治という名前を知らなければ、心理学の本だと思わざる得ないだろう。そして、それが何を意図しているのかが分からない。隔絶したところにあって、意味は届かないけど厳然と存在する。この詩集の言葉もそうなのだけど、詩集の体裁も同じである。あとがきには、こうある。「心理は、ときどきの人の心からは、遠いものかもしれない。また、まわりにあるものをうけとめながら、うけいれない。そんな一瞬あるいは長引くものを、人はかかえることがある。題を「心理」とした。」なんとなく、え?と思わないだろうか。心理についての説明は、なぜこのような捉え方をしたいのか掴めないけど、まぁ意味は分からなくもないだろう。でも、なぜ題を心理としたのかは結局分からない。断言だけだ。しかし、この文章にしばらく留まってみると、にじむように了解してくるものがある。つまり、え?と思って次ぎの思案(ページ)に移らずに、え?を誘因としてそこに留まってみれば、何か了解されるものがある。そして、そのような機構はここに書かれてあることそのものであることに気づく。つまり、方法論の説明を、その方法論で書いていて、メタレベルがないために分かりにくい。メタレベルがないというのは、構造化していない(拒否している)ということで、この詩集の言葉も、そのように構造化する前の言葉も掬い取っているように思える。だから、これはシュールなものだとも言える。でも、いわゆるシュールリアリズムみたいな詩法とは違っている。強い自意識の表裏にある無意識から取り出され、結局は自意識の美醜のフィルターで濾過された言葉というよりも、ここでは他人の言葉や記号化された言葉が入ってきて、なんらかの内面での変形を受けたり、はっきりと形づくるに至らないような感情の泡立ちなどが、たゆたっているような場所に接続しようとしている。強い像を結ぶ前に立ち消えてしまうような言葉に留まろうとしている。非常に平明な明るさを持っているけど、それは<死>や<虚無>よりも<生命の枯渇>に近い。老境の詩である。ここには、本質を求める言葉も、そこからずらしていく言葉の連なりもない。枯山水に流れる水音に耳をすまし続けるような持続があり、そこにも異なった詩脈が存在していた。

*ちなみに、まだあまり読んでない。全部、読まなくても感想を書きたい時に書くことにしようと思う。だいたい、全部、読む本はほとんどない。
by isourou2 | 2016-11-13 00:20 | テキスト

蜘蛛女のキス(プイグ 野谷文昭訳 集英社文庫1988 集英社1982)

夏風邪をひいた。昨日一日寝ていたら、だいたい直ったがまだ体がだるい。そして、昨日は日がな一日、この本を読んだ。昔、読んで面白かったのでブックオフで100円にて買ったものが本棚に並んでいた。数日前に何気なく手にとって少し読むとやはり面白いので、昨日でその続きを読み終えてしまった。頭痛で目の奥も痛いから、休み休み読んだが、それでも止めることが出来ないほどの傑作である。そもそもこの小説を読んでいる自分の状態が、この小説の設定と似ているところがあった。小説では牢獄で年長のゲイが若い革命家に語る映画のストーリーが1つの柱なのだが、そのような囚われた状況で他にすることがなく行われることが、寝床にいて他にすることがなく本を読んでいる自分に(もちろん牢獄と風邪では大違いにしても)似ているのだ。他にすることがない、という状態は日常の忙殺から離脱でもあって、それはそれで貴重な時間である。社会人が日常で小説を読む時間は、きっと電車の中や寝る前の数十分しかないだろう。社会人とは言い難いほとんど働いてないぼくにおいても同様だ。だから、病気の時というのは豊かな時間でもあるのだが、そういう意味でこの二人の強いられた時間もまた豊かである。小説というのは、人間性の回復、というか自分も人間であったことを思い出させる経験だ(ぼくは小説や映画でしか泣くことがない)という素朴な考えを最近を持っているのだが、それには(それが例え数分でもいいが)日常的な時間から離れる必要があり、つまりは読書という行為自体が小説の前提をなしているという当たり前の話でもあるが、翻ると日常がそんなに非人間的なのかといえばそうとも言えるが、経験というのはフレームがはっきりしているほど鮮明になるということでもある。結婚式や葬式、二人だけのデート、すべては(それが機能しているかどうかは分からないが)そのようなフレームであり、だから印象的になりうるのである。小説も映画もフレームである。そこから目をそらしたらもう何だか分からなくなるのだから。小説と映画のフレームのちがいはもちろん様々あるだろうが、1つは小説は明かりがないと読めず、映画が暗闇でないと見えないことである。話は逸れるが、最近はDVDやネット配信で映画を見るようになって必ずしも暗闇ではなくなっているが、ぼくは暗闇で見るのが映画だと未だに思っている。暗闇で見ることを考えて映画を作っている監督(それが何を意味するのか自分ながら不明瞭だが)少なくなっている気がする。この小説の中で映画のストーリーが語られるのは、たいていは就寝前である。だから、それは正しく映画的なのだ。ゲイである中年男にとって、暗闇の意味はそれこそ深いものがあるはずだろうし、暗闇だからロマンチックなのであり、彼が好きな映画もまた多かれ少なかれロマンチックで、また暗闇は人間の2面性を暗示もして、彼の語る映画もそのような2面性を巡る不安や葛藤を巡るものである。この小説の主人公の二人も相補的であり人間の2面性を表している。そして、この牢獄の中という限られた空間の中で、その2面性はある種の融合や和解に至り(言ってみれば)1つになるのだが、それ以外の空間(つまり日常)においてはそれは引き裂かれ破滅する(ここで思い出すのはジャン・ジュネのことである。何で彼が晩年になって革命闘争に積極的に参加したのかが気になってきた)。
粗を探せばあるのだが、それでもほとんど会話だけ(あとは文書と長い注)で構成するという思い切ったフレーミングで作られた見事な小説である。

*中年のゲイがノンケの男を落とすまでの手管についての小説でもあるのだが、蜘蛛は獲物を捕まえるために糸を張るのだが、一方では蜘蛛の巣によって蜘蛛自体も捕らわれているというのがこの小説では重要だろう。注におけるゲイを巡る分析的な理論の詳細な紹介(それはそれで整理されているもののような感じがしたのだが)は意図が掴みにくいが、そのためにあるのだと思う。
by isourou2 | 2016-08-06 21:10 | テキスト

日本人の英語はなぜ間違うのか?(マーク・ピーターセン 集英社インターナショナル2014)

英語学習の本を読むのが趣味となっている割には、実際の英語力はまるでないのでなんだか気恥ずかしい感じすらするのであるが、というか英語というものが日本人共有の恥ずかしさを喚起する装置になっているわけで、それは欧米との距離を位置づけかねている明治以来の歴史的過程に端を発している宿痾のようなもので、結局、何が言いたいのかというと、英語学習本の感想を書くという行為もまた一定の気恥ずかしさがあり、筆を進めるためには、何らかの前置きが欲しいということである。
前置きが終わったところで感想だが、マークさんの本のタイトルとしては躊躇がなくストレートである。マークさんのこれまでの著作は、氏の日本びいきというか偏愛ぶりが随所に現れていて、比較文化的な相対感の中で読み進められるのだが、今回は対象をバッサリと切り捨てている感がある。相手が氏が好きな(日本)映画とかではなく、中学英語教科書と大学生の英作文だからである。
これらの教科書で学習をしてきたことを思えば、ここで指摘されている数々には驚きを超えて次第に憂鬱、しまいには笑えてくる。しかし、少なくてもぼくらの頃の中学英語教師は、ネィティブとの会話経験などないような人たちばかりだった気がする。数年留学した最近の若者の方がずっと英語らしい英語を話している。当時先進的な教育方針を持つ学校だったために、ネィティブの教師が受け持つ授業がはじまり、ぼくの英語担任が彼女と全く英語で会話が出来ないことが分かった時はむしろかわいそうだった。そういうレベルなので、教科書がおかしいなどということが問題になりようもなかった。もっとも、そのネィティブ教師にしろ、歌うたった以外に何の印象もないが、おそらくきちんとしたカリュキラムも方法論もなく漠然と導入されただけだったろう。
しかし、未だに教科書がそんな感じだというのはマークさんでなくとも腹立たしくなる。学習指導要綱での文法事項制限の問題もあるにしても、それこそマークさんのような人をいれて、英文をチェックすればそれで多くの問題は回避できるはずだ。
で、気になるのは、中学英語教科書のテキストを元に作られている「英会話・ぜったい・音読」(国弘正雄)シリーズである。ぼくも全部持っているし一時期、割と一生懸命に取り組んだ。内容が所詮中学教科書なので飽きて身に付かなかったが、評価の高い教材として有名である。しかし、別の本でマークさんがおかしな英語会話として教科書から引用した部分が使われている。おそらく数多くのおかしな英文がそのままだろう。つまり、教科書の2次被害が参考書に及んでいる。それを気づかないこの本の著者もおかしいだろう。そもそも考えてみれば、このシリーズは、教科書の英文テキストと音声だけの内容で、何の解説も手引きもなく、ほとんどぼったくり商品ではないか。
それはともかく、教科書関係者は耳の痛い指摘ばかりだと思うが、ぼくとしては今さら教科書が正しくなってもどうでも良いという年齢ではあるので、マークさんの快刀乱麻の切りっぷりに次第に笑いがこみあげてきたのであった。
また、マークさんが実例としてあげている大学生の英文は、ぼくから見てもさすがに稚拙すぎるとは思う。大学受験の英文はかなり難しいものであるはずだから(昔の話なのだろうか)。でも、そんなものなのかもしれない。これでは、マークさんがうんざりしてしまうのも仕方ない。
もちろん、この本の趣旨はそれらの悪文を通して、英文の書き方のポイントを様々に解説することにある。これまでの本の重複とも言えるものがほとんど(新たな指摘もある)だと思うが、それでも、ある意味無駄な文化的語りが含まれていない分、ストレートで他著より読みやすいと思う。著者の日本文が上達していて、もうこれ以上はないくらいのレベルになっているためもあるだろう。これはすごいことだ。
英語は論理を大切にする(そこから見ると日本語は論理の飛躍が多すぎる)ことを述べた章において、添削されることによって文がどんどん無くなっていくことが印象的だったのだが、そういう観点からすると、おそらくこの感想もまたほんの数行になってしまうかもしれない。
by isourou2 | 2016-02-07 01:29 | テキスト


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