英作文なんかこわくない(猪野真理枝 佐野洋 馬場彰 東京外国語大学出版会 2011)

スタンダードになりうる志の高い英語学習本だと思う。英語と日本語の文法や発想など、相互の言語の比較に基づいて、英文を書く実践が学べる本。今まで、この手法を緻密に展開した学習本はなかったと思う。つまり、画期的である。スタンダードという評価には、ある程度体系があり網羅的であるという意味が含まれる(もちろん学問レベルではなく学習レベルの話)。網羅的にするには必要不可欠な部分以外の退屈なところも含めざるえない。だから、一通りこなすには、そこそこ我慢が必要だった。しかし、最後まで出来たのは(そういう学習本自体がぼくには稀有)、内容が面白いし、発見もあるからだ。英語は動画的、日本語は静止画的として、日英の描写方法を図解したところなどは目から鱗であった。そして、この本は日本語文法の勉強にもなる。語学学習には、その言葉にずっぽり飛び込んで、その言葉の文法・発想を身につけるべき(英語で英語を考える、英英辞典を使うような感じ)という派閥がある。この本は、その対極にあり、日本語と英語の違いを明らかにすることで、日本語から英語へと丁寧に橋渡しをしている。よって、一番有効なのは、英作文というよりも、和文英訳だろう。
しかし、残念なことには、分かりにくいところや誤解しやすいところが散見し間違いもある(決定的な欠点ではないが)。うでのいい編集者が改訂すれば、もっといいものになるはずだ。あと、一度読んだだけでは頭に入らない。たぶん再読しても同じではないだろうか。画期的な本だとは思うのだが、これで実力がつくのかは自信がない。むしろ、ドリルはなくして項目を増やし、読み物+辞書的使い方も出来る本にした方が役立つのではなかったか。それはかなり欲しい。
ちなみに、第二弾もあるのだが、内容が気になる。
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# by isourou2 | 2015-09-23 01:31 | テキスト

英会話なるほどフレーズ100・英会話きちんとフレーズ100(スティーブ・ソレイシィ ロビン・ソレイシィ アルク 2000年2012年)

<div>いわゆるソレイシィ本にぼくは英会話はおまかせすることにしている(英会話といっても発話のことでヒヤリングは他の方法が必要だろう)。<br></div><div>日本の英語教育(教材)の変革というのはいろいろあったのだろうが、一番の黒船は2000年発行の「なるほどフレーズ100」だったのではないだろうか(言い過ぎか?)。</div><div>これは、アメリカの赤ん坊や子供が覚えていくフレーズを生育順に集めた本である。日本人が間違えやすい口語表現についての指摘も随所にある。日本の英語教育に脱落している部分を圧倒的な説得力で実践的な内容にまとめていると言えるだろう。</div><div>パッと見ての特徴はその親しみやすさだろう。イラストも多いし、ソレイシィの文章も平易である。しかも、親子で作っているという家庭的な雰囲気が満載。取り上げられる言葉には「OK」や「Thanks」もある。簡単すぎる、、、と思ってスルーする人もいるだろう(ぼくもそうだった)。しかし、これまでの日本人の英語の問題は、あまりにも簡単なことがあまりにも言えないことだったのではないだろうか。難関大学の受験レベルの文法を勉強していても、実際には全く話せないという人はたくさんいる(ぼくもそうだった)。ただし、だからといって文法が必要ないということにはならないだろう。この本は、むしろ、基本的な文法を修得した人にこそふさわしい。</div><div>ここに出てくる有用なフレーズを理解するには、それなりの文法知識があった方がいいと思う。もちろん、丸暗記してもどうにかなるのかもしれないし、どちらにしろ暗記が必要なわけだけど、文法知識があった方が覚えやすいし、応用もきくはずだ。平易なこの本は意外に手応えのある(取り組みがいのある)本である。</div><div>「きちんとフレーズ」は続編にあたる。趣旨はほぼ同じ。ただ、日本語でよく使う言葉を英語で表すというところに力点を変更している。残念ながら、なるほどフレーズにあった練習問題がなくなっている。</div><div>両著とも無駄な内容は全くない。付属のCDも録音がクリアで良くできている。繰り返し聞いてもそれほど苦痛ではない。まずは、これらを覚えるのが会話では先決だと思う。ぼくは、海外に行く時、ソレイシィを持参してどうにか乗り切っているし、発話する分にはぎりぎりどうにかなるのではないかと思う。もちろん、瞬時にこれらのフレーズが口から出ればの話であるが。けっこうな量なので、覚えやすいとも言えない(し、実際ぼくは覚えられていない)。フレーズ集は、意味的分類が定石だが、これはネィティブが覚える順というユニークな構成。ランダムに並んでいるともいえる。記憶するのに有利な方法だとも思えないが、単調さに陥るのを回避してもいてはいる。似たようなフレーズの羅列を避け、それぞれのベストフレーズを提示しているのだから意味的分類にこだわらなくて良いのかもしれない。また例文なども他のフレーズを組み入れたりして工夫がある。</div><div>なお、このようにフレーズの組み合わせで言葉を習得することの弊害(限界)もあるだろう。それは、「なるほど」から「きちんと」まで10年以上の月日がたっているにもかかわらず、ソレイシィの書く日本語が上達しているように思えないことに現れている。一見、流麗なソレイシィの日本語は、間違ってはいないが単調であり、平易でありながらこなれていない部分もある。フレーズの使い回し・組み合わせで書く方法を表現として深化させることには限界があるのだろう。それは、おそらく日本語文法を細部にわたって知悉しているマーク・ピータセンの日本語が著作ごとに洗練されていっていることと対照的である。とはいえ、そこまでの英語の能力を望む人はマレだろう。ソレイシィのやり方で十分であるし、ぼくは英会話についてはソレイシィに私淑するつもりである。</div><div><br></div><div>*あと、特筆すべきことは、英語学習本に時折見られる覚えたくない例文(性的なオブセッションがある文や品のないユーモアなど)がほぼないことである。ただでさえ楽しくはない英語学習を行う身には、これは意外と重要なことである。</div>

*同シリーズの異系ともいえるペラペラビジネス100について

英語学習本の第一版はなるべく掴むな、というのが鉄則。
重版されてなかったら仕方ないし、大手出版社(英語本を出版している大手ではなく、一般出版社の大手という意味)だったら大丈夫かもしれないが、古本を買う場合のチェック事項としてこれは意外と重要だ。同一書があったら、なるべく版を重ねているものにするべきだ。
ぼくが買ったペラペラビジネス100は第一版。驚くほど誤植が多い。50~100はあると思う。誤植だけでなく、イラストと性別があっていなかったりもする。
まったく校正をしていないか、準備稿を間違えて印刷しているのかというレベル。
ただし、CD(録音)や例文、構成などの内容はとても良い。繰り返してやるだけの価値がある。つまり、誤植がそれだけあっても、ぼくにとってそれを超えるだけの良さがあるとは言える。だからといって、この第一版の誤植のひどさが免責にはなるわけでもないだろう。しかも、WEBなどに正誤表を掲載していないから、アルクに問い合わせて正誤表をもらわないといけなかった。そして、正誤表に載っていない間違いもたくさんある。間違いはすぐに分かるものがほとんどだから、まぁ、それほどの被害はないけど、気分のいいものではない。
おそらく、なるほどフレーズ(2000年)が大ヒットして、相当慌てて制作したからこういうことになったのだと思う。内容の素晴らしさと誤植の多さのアンバランスということでも記憶に残る一冊である。

(内容について一言。高度なビジネス交渉を目的としたものではなく、かなり初歩的な会話集である。英文を読むスピートもゆっくりだ。しかし、このレベルが必要な人は多くいるだろうしぼくのニーズにも合致している。また、「なるほど」や「きちんと」とより学習しやすいように出来ているのでそういう意味でおすすめである。しかし、上級者やすでにビジネスで英語を使っている人には必要ない本だろうから、このタイトルは誤解を招きかねない。)



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# by isourou2 | 2015-07-27 00:46 | テキスト

生存権ーいまを生きるあなたにー(立岩新也・尾藤廣喜・岡本厚 2009)

たいていの本をテントの外にプラスチックケースや段ボールに入れて保管している。しかし、いつの間にか雨が入り込んでいたりしてカビてしまうことも多い。そもそも、きちんと保存したり整理したりするのが得意ではない。カビだらけの本は処分せざるえない。これもその一冊になりかかったが、ゴミ箱寸前でカバーだけ捨てて拭けばどうにかなると思い直し助かった本。タイトルの生存権が効いていたのかもしれない。
発刊当時に誰かからもらって未読だったものだが、読み始めるとインタビュー形式なこともあり、すぐに読めてしまう。重厚になりがちなテーマを小さな手軽な本にまとめた手腕は評価できる。
ただ、読んでいくうちに感じる微妙な違和感、、、それは読後も残り続ける。このテーマだから、自分にとって悪いことが書かれているはずがないと思い、いわば味方の本だと思い、実際なるほどと思うことはあるものの読んでいるとなんだかひっかかるところも出てくる。それは、立石→尾藤→岡本、という順番に多くなるようだ。全体のインタビューアーの山脇洋亮という人の姿勢も当然、関係している。(この人についての知識は何もない。カバーに何か書いてあったような気もするが、、、)
具体的に抜き書きしてみよう。
(生活保護の受付を水際でさせないようにしているという話の流れで)「追い返したって人間として存在するわけですから、ホームレスになってしまったら、またその対策も社会的コストですよね。」(山脇)
(ホームレスが自動改札を乗り越えているのを見たという話の流れで)
「駅員さんも、何日もお風呂に入っていない人を体を張って押しとどめるよりも、「まぁいいか」と。」(山脇)
「見て見ぬふりをしてるんでしょう。そういうのが、いまは一人とか二人だからまだいいけど、大半の人がそうなっちゃったら……そういうのって、崩れたら速いと思う。」(岡本)
「それこそ多くの人が思っていた日本ではなくなりますよね。」(山脇)

社会の中に浸透しやすい言葉というのはその社会の一定の層の価値観に沿った言葉である。ここで、発せられているのはまさに中流階級の価値観である。そして、それは無条件に肯定されている。

「僕のゼミの恩師は、中流階級がその国の力を決めるっておっしゃっていました。」(山脇)
「それはあるゆるところで実証されているよね。」(岡本)

そして、そのような肯定に対する批判については、

「没落していく人びとには、なかなか自覚できない恨みというか、憎悪というか、ルサンチマンを蓄積していく。」(岡本)
批判をそのように捉えることによってこの価値観は自己完結をしている。そして、そこから外れた人がこの価値観を乱さないように、生存権をあらゆる人に保証すべきだという話に収斂する。
生存権ってそういう話なんですか?

こういう発言もある。
「もう一つの問題は、こうした閉塞状態に対して発言するリベラルな大学の教授とか、ジャーナリストとか、労働組合とか、そういう人たちは、ある人びとから見ると特権層に見えるということ。そこから発せられる言葉は、何かきれいごとに聞こえるし、なぜかものすごい反発や憎悪を生み出している。」(岡本)
何か発言する際に発言者の立場が問われるというのは当たり前の話である。それは、科学的な学問、とされるものであっても同様なことは、昨今の原子力発電の問題によっても明白だろう。たとえば、学問の世界という真空地帯があるわけではなく、それは様々な政治力やお金やもろもろによって規定されている。そのために、自分の立場というのに自覚的になることが重要になる。学問の自由という言葉によって、そういうことが問われない現状があるとすれば、その自由にとって逆にそれは危険なことですらある。今までが、問われなさすぎてきたとも言える。マスコミの世界でも同様なことが言えるだろう。もちろん、岡本氏が想定していることやレベルはそのような話ではないことは分かる。とはいえ、このような発言によって、問われない立場というのに自分を滑り込ませている感は拭えない。

「僕も子どもがいたからこそ、例えば道を暴走してくる車とかに対して、ものすごくカンカンに怒ったり、憎しみさえ感じるとか(笑)」(岡本)
「僕も子どもが生まれて、しかも他の子より弱いところがある子どもだったので、戦争とか革命とか、乱暴なことがとても憎くなった。」(山脇)
最後に出てくるのは子どもである。ここで、この本のインタビューアーで企画者の山脇氏の基本的な動機・モチーフがはじめて出てくる。そういう意味では、障害の問題に関わってきた立岩氏のインタビューからはじまって、ここで一回りしたような上手な構成である。
自分の子どものことはもちろん切実だろうと思う。しかし、それはやはり自分のことではない。その子どもは、暴走する車をカッコイイと憧れる可能性も持つ他者である。革命を考えるかもしれない他者である。ぼくの感じた違和感というのは、生存権、というこの本の中には、それを自分のこととして必要とする人からの視点がほとんどないことである。簡単にいえば、生存権というのは、自動改札を乗り越えるホームレスの行為のことではないのだろうか。また、それらの人が自分の生存権のために社会を変えようとした時に揺るがされるかもしれない自分の立場についての考察がない。
他者の代理として発言していけないと言いたいわけではない。しかし、その時に自分の立場の自覚することは重要なことのはずだ。そのことによって、代理することによって他者の力を奪っていないかについて繊細になるはずだから。
この本によって、生存権という身近である話の中にも断裂が走っていることをぼんやりと感じることが出来た。足下の断裂は大きく感じるし、遠くにある巨大な断裂が小さく見えるという遠近法の錯視に注意はしたい。しかし、このような足下にある違和感から、生まれてくる思考というのを大切にしたい。
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# by isourou2 | 2015-07-08 19:36 | テキスト

銃殺(ジョセフ・ロージー 1964)

これは、やりきれない映画。というか、やりきれないという方法論だ。そして、戦争というものを描くのに一番納得のいく方法論である。この映画には、派手なシーンやスペクタルな映像は出てこない。前線からいったん退いた営屯地を舞台に、そこから脱走し捕まり連れ戻された兵士の戦地裁判が主題。急こしらえの(あるいは接収したのか)営屯地の中での出来事に終始している。外は雨が降り続いて、兵士たちは泥さらいをしている。死の恐怖の中での徒労感に満ちた時間が兵士たちの日常のほとんどをしめるはずだから、これは秀逸な設定である。
脱走した兵士、その兵士の弁護人を務める大尉、兵士を告発する検察側を務めた大尉、裁判長になった大佐、それぞれの描き方も一面的ではなく陰影に富んでいる。大尉は、「傷ついた猟犬は殺した方がいい」と平然とうそぶき冷酷だと噂されているが、兵士の弁護人としては兵士は心身喪失状態だったと無罪を主張し、一人の男を正義によって裁けないようでは正義の戦争は行えない、というような熱弁をふるう。代理人の大佐は、兵士は単なる臆病者にすぎないと断じて死刑を求めるが、裁判後には「無罪になればいいね」と言う。裁判長は、司令部が減刑を行う可能性について確認する。しかし、翌日、営屯地から再び前線に向かうことが決定したあおりを受けて、兵士の士気を高めるために司令部は減刑を行わない。
スペクタルに頼らないということは、人物と状況を丁寧に描く選択をしたということでもある。
そして、それは、命令と義務、という軍隊のエッセンスと人間性の相克を軸に描かれている。命令と義務が支配する場では、その範囲内で人間の持つ気持ちや行動が発現する。しかし、そこから逸脱することは許されない。戦争というものが、他人を殺すという非人間的なものである以上、その命令と義務も不条理なものである。一方、裁判というのは、本来は権利が主張される場でもある。しかし、ここが戦場である以上、命令と義務によって権利は踏みつぶされる。大尉は、判決後に裁判長に、これは我々の負けだ、我々は人殺しだ、裁判は茶番だ、というようなことを言う。命令と義務の体系は維持され、それは自分の死か戦争の終結まで続くのである。
命令・義務と人間性の相克については、まだ多くの場面で多様に冷静に描かれている。それをいちいち挙げることはしないが、この映画の最後の場面に関連して、<戦争における「人殺し」の心理学>(デーヴ・グロスマン)を想起した。第二次世界大戦までの地上戦において、相手を狙撃できる状況でもほとんどの兵士は的を狙わなかったという指摘である。それが、ベトナム戦争では9割以上的を狙うようになったことについて書かれてある。(ただし、(全部読んでないが)これはたいしていい本ではない。内容は雑駁で繰り返しも多く、また視点もアメリカ軍人という限界があり全ては同意しがたい。)
命令と義務が専横する世界というのが戦場(軍隊)だけのことなのか、というのが現在的な問いとして残り、またこの監督が、きっとちがう作品でその陰影を冷静に描いているのではないかと期待させてくれた。
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# by isourou2 | 2015-07-08 18:00 | テキスト

奇怪ねー台湾(青木由香 東洋出版2011)

最近、海外旅行づいている。昨年、香港、今年はもうギリシャと台湾に行った。もちろん、他人のお金で(ある意味でビジネス)旅行である。成田まで行くお金がないくらいなので、そうでもしないと海外へは行けない。
海外に行く前には、出来ればその国についてよく知っておきたいと思う。それが、お邪魔する方の礼儀だと少しトンチンカンかもしれないが思っている。しかし、実際はそんな時間がない。地球の歩き方に載っている簡単な歴史を機内で読む程度になってしまう。地球の歩き方、というのはお守りみたいな感じがあり、もちろん買わないが、必要そうなところは図書館で借りてコピーしておく。地図とか、電車の乗り方とか、空港マップとか。でも、実際に使うのは、地図だけだ。電車とか空港とかは、初めての人でも分かるように作られているものだし、聞けばどうにかなる。ただし、街はそこまで親切ではない。でも、地図だって、現地で手に入る可能性が高い。だから、何となくのお守りである。
台湾に行くとなって、図書館で色々と台湾に関する本を借りた。しかし事前に読了したのはこの本だけだ(あとは、旅先で「台湾ナショナリズム(丸川哲史)」を読み終えた)。
この本は意外にいい。台湾の雰囲気が伝わってくるのである。つまり、地球の歩き方みたいな情報とも、歴史書のような情報とも違う、肌合いや体温といういわく言いがたい情報。それが、本の装丁を含めたところで伝わってくる。ああ、こういう感じか、という、、、少なくとも美大女子の視点からはこういう風に見えるのか、そしてぼくの中のそれらの人たちを思い浮かべてみれば、だいたいなんか台湾の肌合いが(ある種の客観性を帯びて)位置づけられてくる。それで、なんかぼくはホっとしたのだった。
そう、この本のテイストは、美大女子っぽい。といっても、ぼくが知るそれらの人たちはもう15年以上前のことだけど。多摩美(著者が卒業)や武蔵美、女子美や京都造形大、といったもろもろの学校(それの作風の違いまでぼくはよく知らない)の学生の感じがある。というか、そういう人が社会に出て、そういう感じでは生きていくのは難しく、いろいろ苦節もあり台湾にたどり着きノビノビとした、という遍歴を感じる。そのテイストが本に生かされている。基本的には、ぼくは嫌いではない。嫌いにはなれない。
この本で直接役だったこともある。まず、台湾のトイレは紙を流さないこと。拭いた紙は、くず箱の中に入れる。それではトイレが臭くなりそうだが、そうでもない。トイレの作法はその風土に根ざしたものだから合理的なのである。理由は分からないが臭くない。
もう一つは、台湾の人が人前であがらない、という指摘。旅の采配をしてくれた(展示のキュレーターの)女の人は、なんていうか日本的感覚からすると大らかというか細部を詰めない感じの人だったが、人前で話す時は立て板に水のようにトウトウと立派な人のようだった。よく分からなかったのだが、これは、きっとあがっていないせいだろうと思った。というか、韓国の人も中国の人も日本の人ほどあがらないような気がする。自然体だ。
ただし、彼女いわく、細部をつめない感じはぼくがそういうことを嫌うタイプの人と読んでのことだった、そうだ。そう言われるとたしかに反論しずらいが、そういう決めつけをして平然としているところがなかなか大ざっぱとも言えるし、また立派だとも言える。
自分と人の差を気にしない、という指摘もそうかもしれない。旅先で、ぼくは一人でやたらに他人に気を回している自分に気づいた。まわりは、なんかもっと好き勝手に自然体で生きている。それでいてとても親切だ。日本は島国で狭いから常に他人を意識して細かい調整をしないと生きていけない、みたいなことが頭に浮かんだ。けっこう息苦しい社会だということが、なんか他国の肌合いにふれると実感できる。
この本には、へんてこなものや少しズレているものを偏愛する美大女子が、その価値観で生きていける場所を探して台湾に出会い、ちょうどよく花開いたという著者のバックストリーが込められている。
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# by isourou2 | 2015-07-05 23:51 | テキスト

物語 近現代ギリシャの歴史~独立戦争からユーロ危機まで(村田奈々子 中公新書 2012)

ギリシャの近現代史。様々な哲人や巨大な遺跡、そして民主主義の発明でその名を輝かせる古代ギリシャでも、経済が破綻しヨーロッパの鬼子となっている現在のギリシャのことでもない。どれくらいの人が関心を持つだろうか。
また、正直言って、日本に住む自分にとっては、その古代ギリシャにしろ、今のギリシャにしろ、それほど身近な存在ではない。ギリシャに行く前に、自分の本棚を探してみるとギリシャ哲学の本が3冊、経済破綻に触れたものが1冊あったが、いずれも未読。教養として押さえておくべきだろうが、切迫した興味の対象ではなかった。
だから、ギリシャ(アテネ)に5月に2週間ほど滞在するという予定がなければ、この本に手を出すことはなかっただろう。
しかし、、、面白い。著者の視点が確立されており、歴史を語るとはこのようなことを指すのだと感得した。このタイトルにある「物語」は(シリーズものであるから深い意味がないかもしれないが)、近代のギリシャという国がどのような物語を編むことによって国としての統一体を作ってきたのか、という問題設定への示唆があるのだろう。また、著述という統一体を作ることは、ある視点からの物語であるという意識を明示するものでもあるはずだ。つまり、歴史家が歴史を語るというのは、ある物語に対する批評的な物語である(べきだ)。
だから、この本は、「物語」という言葉で通例想定するような<やさしい><噛み砕いた><子ども向け>とかいう内容ではない。

と、ここまで書いて間が空いてしまった。そのため、これから内容に触れようとしていたのだが、それはちょっと難しい。
ただ、このギリシャという小国がヨーロッパの大国との間で様々な駆け引きすることと表裏一体に自らのアインディンティティを模索・確立していく様子が描かれている。特に、言語をめぐる話には啓発されることが多かった。なので、序章の後に第三章「国家を引き裂く言語」から読んで正解だった。
そのような大国との関係・独自性の模索、というギリシャの歴史の流れは、借財をディフォルトしてEU離脱するのかどうかで全世界の注目を集めているたった今現在まで脈々と続いていることが分かる。

ギリシャ滞在の感想を少し。
帰ってきてから、1ヶ月がたってのギリシャの印象は、「途方にくれている」というものだ。街には、乞食をしている人が多く、電車に乗れば必ず、自分の窮状を訴えながら小銭をもらう人が現れる。その時、その声を耳にしながら、乗客たちは少しだけ凍り付き、彼らがあきらめて過ぎていくのを待っている。広場では、難民が寝泊まりをしている。しかし、広場にはトイレも水もない。彼らは、アラビア語で訴えるが、その意味はギリシャ人には分からない。炊き出しには、女の人や小さな子供がかなりいる。この現状をフォローするために、動いている人たちはいる。でも、多くの人は、どうしてこうなってしまったのか、分からないだろう。政治家が悪い、私腹を肥やしている、公務員が多すぎる、と理由をあげても、なお納得には至らない。そして、どうすればいいのか、はなおさら分からない。インテリそうな人に、EUを離脱する方がいいのか、聞いてみたが、やっぱり明確な答えをする人はいなかった。難民排撃を訴えるネオナチなど極端に分かりやすい主張の政党に人気が集まり、それらしい若者が電車でシュプレーをあげる。やはり、乗客は眉をひそめてそれを見ている。そのような状況の中で、途方に暮れている、そんな印象を持った。
人だけでなく建物も、廃屋になっても建築途中でも、費用がなくて町中でそのままになっている。
グラフィティはアテネはものすごく豊富にあるが、それを見る人に熱意がない。つまり、消す熱意も共感する熱意もないように感じた。放置されているのだ。野良犬がうろつき、子猫がたくさんいる。
もちろん、その下では旅行者には見えないちがう動きがあり、それが形になるまでの過渡期なのかもしれない。嵐の前の静けさということもある。きっとやってくる大きな変動は、前述したように、ヨーロッパの小国としてのギリシャのアイディンティティの模索の歴史が重要な因子となることは間違いないと思う。
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# by isourou2 | 2015-07-05 23:50 | テキスト

独学者のための英語学習本ガイドコーナー4

今回は、軽い英語雑学本を取り上げてみよう。あんまり、机にかじりついて勉強ばかりしていても疲れてしまう。寝ころびながら、あるいは、電車の中とか少しの空き時間で読むのに適した本。それで、それなりに役立てば言うことはない、というあたりのラインにある本。おすすめというよりは、たまたま身のまわりにあった本にすぎないが、いくつかレビューしてみる。ただし、これらを定価で買うのはバカげている。無駄に蔵書を増やしても仕方ないわけで、図書館で借りて一読するので十分(もしくは破格値の古書で買うなら悪くはない)。

●「よろしくお願いします」と英語で言いたいあなたへキャノン英語マンから20のアドバイス(リチャード・バーガー 朝日新聞社 2008)

表紙には、胸に<英>と書かれたシャツを着た背広姿の著者(英語マン)。なぜかその姿は呼吸のために水面に首を突きだした亀を思わせる。中にはアメコミっぽいイラスト多数。かなり面白本狙いの企画くさく見える。というより、無味乾燥になりがちな英語本をどうやって面白く見せるのかという苦闘がやけに伝わってくる。(こういうアメリカ人のステレオタイプを逆用した見せ方の路線というのは、1000本ノックシリーズとかいろいろある。ある意味、ハートで感じる英文法もそうかも)。しかし、それがそれほど嫌みな感じはしない。基本的に本の内容がとてもしっかりしているのである。しかも、だいたい2時間もあれば読破できるだろう。ぼくにとっては、20のアドバイスがどれもが有意義だった(中には少しピンとこない話題もあったけど)。会話(ビジネスに限らず)や英語でのコミュニケーションの初心者なら得るものがあるはず。英語になった日本語で「hantyou(班長)」=責任者、「skosh(少し)」があるとは知らなんだ。あと、英語の顔文字や略語もこの本以外でこんなに取り上げているのは見たことがない。
日本人の英語下手に対する著者の共感的な態度が伝わってくる良書でもある。でも、もちろん、1400円出して買うようなものではない、とアドバイスしておきます。

●英会話どうする?(里中哲彦 現代書館 2003)

もともとは、英会話以前、というタイトルするつもりで書いたという本。英語(学習)にまつわるエッセイだが、全部読んだわけではない。でも、この本の有用な部分が集約されているのは第2章だろう(章のタイトルが「英会話以前」なので著者もそのつもりだろう)。特に「勘違いにご用心」で列挙されている名詞・動詞・形容詞・副詞の使い方のところ。ぼくは知らないことが多くて、そうなんだー、と思わされた。そんなに量はないから、ここだけは数回読んでもいい。あとは、イギリス人の不満、というアメリカ英語に対する思いを書いた(推測した)部分も勉強になった。あとは、ペーパーバックの読み方で「最初の50ページだけは丹念に辞書を引く」という作戦を勧めているのは、なるほど!。最初の方で出てくる単語は、その後のページで繰り返し出てくるという指摘は的を得ていると思う(ちなみに、ぼくはまだ原書は一冊も読めていないが。)
あと、なぜか英語(学習)の本で目につくことが多いのだが、性的なことに絡んだことを書く時の著者の姿勢がいまいち気分良くない。なんか、著者のオブセッションが中途半端ににじんでユーモアには感じられないのである。

●英語のツボー名言・珍言で学ぶ「ネィティブ感覚」(マーク・ピーターセン 光文社知恵の森文庫 2011)

この本を読んだのは少し前。軽い雑学の本といっても、かなりの量があるし、出てくる英文は初級のものとは限らないので読破するのにそこそこ時間がかかった。
なんといっても、マーク・ピーターセンである。腐っても鯛である。それに別に腐ってないので、アラでも鯛、というところか。よく出来た丁寧な本である。読み切り3ページくらいで、その名言のキーフレーズや重要な言葉の活用では英語の勉強になり、その名言の背景説明や人物紹介で社会常識も学べる。難しい単語には訳語もついているので辞書がなくても良い。ハンディなので読む場所も選ばない。そして、値段も良心的だ(なので、前2書とはちがって買っても損はないかも)。名言・珍言もけっこうバラエティがあるので楽しめる。時間がある時に再読してみたいと思っています。
ちなみに、この本で取り上げられているグラウチョ・マルクス(マルクス兄弟の1人)の「I don't want to belong to any club that will accept me as a member」という言葉は、ウディアレンの「アニーホール」の冒頭で主人公(アレン)がもっとも好きな言葉(か人生訓か)で取り上げていたもの。この映画のキーワードにもなっていた。この本のいくつの言葉は英語ネィティブの精神に深く浸透しているのかもしれない。




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# by isourou2 | 2015-04-15 00:31

通じる英語・上達のコツ(平澤正夫)

発音記号を読めるようになれ!という新書版の本である。そして、これはけっこういい本のように感じた。まず、発音の本なのに、CDが付いていないという心意気が気に入った。ぼくのように、本メディア好きだとどうも、本にCDやましてやDVDが付いたりすると、気分が乗らない。あくまで、文字で音を表現するという難問に立ち向かう努力が著者の真摯さに思えてしまうのだ(勘違い)。
それはともかく、発音の本でこれですべてを網羅しているという完全なものはあるのだろうか。管見では見当たらない。そのため、結局複数の本から自分なりの発音を組み立てないといけない。
読解に中心を置いている(という古典的な英語学習方法の)自分だが、さすがにもう少し話せてもいいのではないか、フォニックスの次に行ってもいいのではないか、、、と思いたった。しかし、次に攻略すべきと思われる発音記号自体が、この本と手持ちの辞書でも異なるところがある。辞書の間でもちがう。また、「t」はこのような時はラ行で読む、とか様々なルールがあるが、なぜそれを表す発音記号がないのか、、、結局はどこまで詳しく発音を分析してそれに対応する記号をつくるのかという程度問題なのだろうが。また、その音の正確さよりも、他の音との識別が重要なのだろうが、発音記号だけではそのようなところまではなかなか分からない(気がする)。
その一方で、発音記号は世界中の言語の発音を表すことも出来るという話を聞いたことあり、発音記号全体の仕組みというのから本当は分かる必要もありそうだ。つまり、この発音記号という奴をどこまで信頼して付き合っていける奴なのかが、ぼくなどにはよく分からない。そういう不安の中で、この本は、ところどころ、エッセイ風になったりして、アレレ、という感じもありつつ読み終えてみれば類書の中でもポイント絞ったところはかなり詳しい。ただし、網羅的ではなく、著者の経験に基づいて大胆に発音(記号)の説明を取捨選択している。
フォニックスから、そろそろ発音記号にトライする必要があるのかも、と思って読むのにはそこそこ良かったようだ。フォニックスの基本的な知識、つまりはスペルから発音へのルールについては、この本には何も記されていない。逆に、フォニックスの本だけだと、弱母音やフラップTやリエゾンやアクセントの規則などのことはほとんど分からない。だから、相補的であるといえる。あと、長めのテキストを使って読み方を解説しているところもあるのだが、、、正直、音声が聞けたらなぁ、、、と(矛盾)。
あと、著者の左翼っぽいスタンスがなんとなく見え隠れするが、ぼく的には、それは嫌ではない。ただ、アメちゃんだって、とか言い出すのは興ざめである。
日本人は東南アジアではリラックスして英語をしゃべるのに白人のネィティブ(WSAP)を前にすると話せなくなるのは、東南アジア人に対する差別的優越感なのではないか、という著者の指摘はそのとおりだろう。しかし、それだけではないようにも思う。アジア人同士が、意思疎通するのに、英語が必須というこの倒錯的な状況の不自然さの苦さ滑稽さを共有するがゆえに、話しやすいこともあるのではないかと思う。一方で、英語ネィティブの多くは、英語が世界共通語であることを当たり前だと感じている。そのような無自覚で傲岸な自信を背景にして「正確に話そうとしすぎる」「日本人はシャイすぎる」などと善意の英語ネィティブに励まされても、こちらはしどろもどろになるばかりだ、、、、、。
この本を読んで、コピーがうたうように「あなたの英語が大変身する!」という実感は全くわかないが、ほんの少しは進歩した気になる。
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# by isourou2 | 2015-02-17 22:56 | テキスト

ほんとうの中国の話をしよう(余華 飯塚容訳 河出書房新社 2012)

中国に行くかもしれないので、中国に関するものを読んでいる。
中国国内で発禁処分、と帯に大書してある。
そして、表紙は真っ赤であり、明らかに毛語録に模倣していて、日本語タイトルもまたどこかで聞いたようなものになっている。
内容は、文革を少年時代に過ごした筆者の当時と経済中心になっている現在を比較する視点で様々なテーマをとりあげ、エピソードをちりばめたエッセイである。このエピソードが、どれも興味深く、だれないで手際よくまとめられている。戦後の中国の変転のダイナミックな激しさは、強い政治主導が1つの原因であるのは確実だろう。そのような中で、生き抜くためにそれを冷静にみる目は、民衆のもの(知恵)だったろうし、また芸術の視点でもあるだろう。つまり、この両者が重なる条件が現代中国にはあり、魯迅(10のエッセイのタイトルの1つだが)から、この著者まで脈脈と流れているもののような気がする。
「革命とは何か?過去の記憶の中から引き出される答えはさまざまだ。革命は人生を不確定要素に満ちたものにする。人の運命は一朝一夕で、まったく変わってしまう。ある人はとんとん拍子に出世し、ある人は奈落の底に落ちていく。」
著者の革命に対する解釈は平凡なものだが、しかし、生活の実相からみれば、革命の結果とはこのようなものとしか言いようがないだろう。そして、理想や理念よりも、このようなところに革命の魔力も、このようなものでしかないその限界もある。
10のエッセイの最後の2つは、現在の中国ではやっている2つの言葉「山寨」「忽悠」をめぐってだ。「山寨」はコピー、物まね、という意味で、「忽悠」はデタラメ、騙し、ということ。もちろん、この本の装丁とタイトルは、このことを意識しているだろう。秀逸なあとがきの末尾にはこう記されている。
「私はこの本で、中国の痛みを書くと同時に、自分の痛みも書いた。中国の痛みは、私個人の痛みでもあるからだ。」

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# by isourou2 | 2015-01-23 22:20 | テキスト

NHK鉄の沈黙はだれのために 番組改変事件10年目の告白(永田浩三 柏書房 2010)

内容は、冒頭の一文に集約されている。
「本書は、2001年1月30日に放送されたNHK教育テレビ「ETV2001」シリーズ「戦争をどう裁くか」の第二回「問われる戦時性暴力」の内容が、国会議員らの圧力によって放送前に改変された事件について、当時NHKの番組担当プロデューサーであったわたしの体験と、その思いをつづったものである。」
つまり、その後裁判にもなる出来事の一方の当事者の手記である。
ぼくは、この本は一気に読んだ。最近、一気に読んだ本は珍しい。決して、うまく整理された本ではない。話は、あちこちに飛び、エピソードの軽重もよく分からなかったりする。しかし、この本を一気に読ませるもの、それは著者の書かずにはいられないという、それも一番つらいことを書かずにはいられない、という真摯で強い気持ちである。それには、読んでいて何度も心を揺さぶられた。彼のその思いは、メディアというもの、テレビというもの、ドキュメントというもの、に向かっている。
「番組改変事件によって蹂躙されたのは、まず、なによりも、番組制作の現場なのだ。~事件によってわたしというプロデューサーが蹂躙された、被害を受けたと言いたいわけではない。それどころか、わたしは加害者のひとりである。」
著者は、相当な覚悟でこの本を書いていることが伝わってくる。自分の加害者としての振る舞いについてもかなり書き込んでいる。
番組制作の現場が蹂躙されたという意識と、自分が加害者であるという意識は、おそらく同時に存在し、同時にやってきたものだろう。なぜなら、これは、NHKという組織のシステムが生んだものだからだ。そのシステムの被害を現場が受けた、という自覚は、そのシステムの中にいる自分が他者に対して加害をしているという自覚、と同時に発生する。NHKというシステムと書いたが、それは、会社というシステムでは常態として発生し、日本という社会を覆っているものでもある。そのシステムの中で、充分に奇怪にふるまう人々の姿をこの本は描き出している。そのような奇怪さこそが、被害であり加害のあらわれである。それに耐えられない人たちも描かれ、それは胸を熱くする。著者もまたそのような人である。しかし、そのような自覚が著者に訪れるには5年近い時間がかかっている。
著者は、ドキュメンタリーの仕事を降りてからは、NHKアーカイブスの仕事をやり、その後、学校に通って精神保険福祉士の資格をとり、武蔵大学教授として地元の密着する形の活動を続けている。このようなアーカイブスで仕事(あるいはNHKドキュメント)の振り返りを行い、さらには人生の振り返りをしていく流れはよく理解できる。
福祉専門学校の実習で、統合失調症の人が多い作業所でキャンドルをつくりながら著者はこう述懐する。
「これまで、ひたすらに番組を世のなかに送り届けてきたが、それは本当に豊かな時間を届けることになっていたのだろうか。喧噪と騒音を届けただけだったのではないだろうか。」
この社会、特にそれを凝縮しているような会社という社会(システム)を相対的に見ることが出来て、ようやく被害も加害も浮かび上がってきたのだろう。それは、その中で守られ生きてきた人にとっては生木を裂くような苦しみ、時間のかかることだったろうと思う。その上でも、著者が、なぜ、この番組に登場している慰安婦への謝罪を一人一人行ったり、話しを聞きにいこうとしないのか、という疑問は残る。この本は、著者のこれまでの経験や手法が活かされた生生しいドキュメントであり、具体的なメディア論に結実している。それだからこそ、価値があるともいえる。でも、そのことにどこか陥穽があるような気がする。ドキュメントは事実をして語らしめる、黒子に徹する、と本書に書かれている。そして、黒子の立場を踏み越えたことで、恐ろしさと恥ずかしさで身がすくむ思いだ、と書いている。この番組改変で起きている事態は、編集段階で安倍晋三や中川昭一といった政治家からの「偏向」という批判をうけ、次々とカットし、国際法廷に批判的な論者を追加し、ということを番組放映の1時間半前で繰り返し、ズタズタな番組を作ったということだ。メディアは公正であるべき、不偏であるべき、という時に、その公正や不偏の評価軸や視点はあらかじめ決められてはいない。その評価軸や視点をつくるのは、その人の思想である。だから、偏向、という批判に対して、自分の軸の設定を守るには、思想が必要になる。もちろん、大きな権力からの検閲をさせない仕組みをつくることは大切だ。しかし、メディアの自主独立を守るには、そのような思想も必要だったことが今回の出来事からは、はっきり読みとれる。そして、思想というのは、会社などのシステムや組織という仕組みの中からは本当は生まれない。なぜなら、それは「当事者」であることを回避する仕組みであるからだ。思想は「当事者」しか必要としていないから「当事者」の中からしか生まれない。(当事者、という言葉をある幅、様々な立場、を含む上で使っている)。この本の中で著者は、従軍慰安婦や天皇の戦争責任ということについてどう考えるか、という思想について多くを語らない。しかし、それなしには、話しは完結しないような気がしてならない。このようなことは、現代社会を生きる「当事者」として語りうるはずのことだ。(とはいえ、ぼくも自信はないが)。著者は、当事者とメディアということをかなり突き詰めて考え、メディア論を超えて(それこそ黒子を超えて)当事者としての思想の手前まで来ているようにみえる。そして、そのような思想がなければ、取材という立場ではなく、慰安婦と対面することは難しいことだろう。
また、もう一点気になるのは、この本の中で活写されているNHKの内部は、パワハラの温床のような感じがすることだ。メディアの職人の徒弟的な世界がまだ存在し、それは著者にとって懐かしい人間くさい世界としてあるのだろうが、しかし、上司から罵倒されることが常態化しているようにも読める。加害の認識は被害の自覚と共にやってくるとしたら、このようなシステムの中で、蹂躙されているのが、冒頭引用のように「番組制作の現場」だけではなく、著者自身でもあったことの自覚が、今回の出来事で被害をうけた人たちを著者が理解することに必要なことのような気がする。
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# by isourou2 | 2014-11-03 15:23 | テキスト


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