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ポメラDM30の発売を記念して

このブログではキングジムのテキスト入力端末ポメラについて偏執的に感想を述べてきている。そして、ぼくがポメラに求めているのが、第一に目に優しいこと、次に乾電池駆動であることは画面が酸っぱくなるほど書いてきた。そして、ついに、その酸っぱさが熟成してワインになるように、または、べったら漬けになるかのように、DM30が6月に発売された。それを慶賀して書き始めている現在、大変残念ながら、入手していないどころか実機に触れてもいない。大型量販店を数軒まわったのだが、DM30を置いていないのだ。ヤマダ電機で店員に聞いたら「キングジムに催促はしているんですけどねぇ。真に受けてくれないみたいで」と悩ましい顔をした。ビジネスなんだから真に受けるも何もないはずだが渋っているみたいだ。DM200のサンプル機はあってもDM30はない。新宿のビックカメラでようやく遭遇したが、店員いわく、模型品です、とのこと。いや、電池が切れているだけにも見えたのだが、結局試し打ちが出来ず、実感をもってのレビューは無理な次第。ただ、DM30は今のところ評判があまり芳しくないようだ。DM200に比べて変換が賢くない、とか、残像が残るとか、入力の反映が遅れるとか、電池の持ちがたいして良くない、とか。しかし、DM100やDM200と比べるのはいかがなものか。それらの系列とはDM30は別であり、比べるならばDM20(か25)だろう。つまり、視認性よし、バックライトなし、折りたたみ式、乾電池駆動、の系列での比較でなければ意味がない。そして、それならば、大画面化し、ファイル文字数も増えているわけで充分の優位がある。ただし、高いのがネックだが、、、。そう高い。これは当分は手が出ない値段である。

そして、中古でDM200を買ってしまった。

定価の半額以下で新品同様である。ついに、DM20のキー反応が復活不能なレベルまで悪化して(反応しないキーをドライヤーで加熱して何度か復元させたりしていたのだが限界に達して)、やはりDM100では目が痛いので、DM10を使っていた。DM10は決して悪くない。壊れやすいポメラとして10年もっているだけでも感謝している。しかし、ついメルカリでDM200を見つけて反射的に購入してしまった。DM200は、バックライトあり、バッテリー駆動、とぼくからしたらストライクから外れた商品だった。DM30の発売で気分が揺れている時に、大きく外れたボールが急にど真ん中に見えてフルスイングしてしまった、、、打球は伸びたか伸びないか。ただ、兄がDM200を持っていたために、DM100に比べればバックライトは相当に暗くできて、また白黒反転もできることは分かっていたし、バッテリー駆動というのもモバイルバッテリーを増強すればどうにかなるという目算はあった。だから、タイトルに偽りがあるようだが、主にDM200の感想になる。まず、目の負担はどうなのか。これは、予想以上に大丈夫である。画面にアンチグレアのシートを貼り、白黒反転にして、光量は最低。これくらいならば、長時間操作しても目の負担感はそれほどではない。文字を暗くしているために視認性はDM20以下だが、そんなことよりも目が疲れないことが大切である。バッテリーはまだ一回も全部使い切ってないので、なんともいえない。ただ、ぼくの場合は電池の方がいいに決まっている。今も、バッテリー切れ表示が出ていて、モバイルバッテリーも空だから、時間との勝負で慌てて打ち込んでいるところである。
親指シフト入力はどうか。ちなみに、DM30は親指シフトが非搭載である。これもDM10系列だから仕方がないのだが、矛盾するようだが、このマイナーな特徴は継承してもらいたかったような気がする。特に、DM10系列と齟齬のある仕様ではないはずだ。
DM200の親指シフトはDM100よりも設定などが細かく出来るようになっており、より本気度の高いものだ。なので、意地でも習得しようと、ここ数日、うだるような暑さの中でひたすらスローペースでの入力を繰り返していた。そして、諦めかかっている。今は、ローマ字で入力しているが、なんと無意識に快適に打ち込めることか。親指シフトが同様な状態までになるにはやはり相当な時間がかかるだろう。また、親指シフトは打鍵数は少ないが、操作は複雑であり、ローマ字入力の単調な野蛮さが自分には合っているような気もする。例えていうならば、親指シフト入力はプログレであり、ローマ字入力はイナタいハードロックである。いや、親指シフトは優美なボサノバであり、ローマ字入力は肉体的なバリファンキである。ともかく、親指シフトを諦めかかっているわけだが、一応精進するつもりではあり、これはDM200の楽しみの1つである。あと、親指シフト入力は手の位置を変えないホームポジョンが大事であるらしいので、ダイヤモンドカーソル(ctlキー+α)でカーソルを動かせるようにバージョンアップしてほしいと思う。また、DM200の漢字変換が賢くなったというのは確かにそうだけど、今のところ、それほどの違いを感じてはいない。ぼくは、DM20でも、それほど苦痛ではなかった。あと、QRコードの変換文字数が増えて便利になっていたり、様々な改良がほどこされていて、現状として総合的にみたら、やはりポメラの最上機種であることは間違いない。思わずのフルスイングは、ホームランとはいかないものの充分に満足がいくものであった。

、、、いつの日にかDM30が手頃な価格になった時には、ぜひ使いたいという気持ちはある。そして、この路線はぜひとも継承していただきたいと切に思っている。フロントライト搭載の要望もあるが、それがバックライトよりもずっとましで便利なものであることは理解できるが、手元をクリップライトなどで明るくすればいいだけではないだろうか。フロントライトは光を反射させるガイド面が必要で、それによって読みにくくなる可能性もあるらしいし、特許とかの関係もあり値段が上がるだろう。そういうデメリットがあるならば必要ないと思う。DM20のような白黒液晶が入手しにくいならば、電子ペーパーの線でよりよい製品を開発していただきたい。あと、特徴を相殺するような機能は必要ないが、他の機種と差別化をはかるために、搭載しなかったりアップデートで改善しなかったりする機能があるのだとしたら(ちょっと疑っているのですが)、そういうケチくさいことはしない方がよい。ポメラという市場全体のことを考えて、そこから人が離れないように、それぞれの機種で最善のことをしてほしい。そして、次に出す機種は、この2系列のいいとこ取りのドリーム・ポメラはどうだろう? 例えば、電子ペーパー(遅延なし)、乾電池駆動(セイコーの電子辞書にあったような、充電池と乾電池の併用なら現実的ではないだろうか)、ストレート式(折りたたみ機構はキーボードの断線などによる故障の原因となってきた。そして、実際のところ、多くの折りたたみのポメラは折りたたむと使用できないために、ストレートのままで延命させるという不格好を強いられてきた)、フロントライトなし(ありのバージョンが5000円増しくらいであってもよし)、親指シフト搭載、QRコード、辞書機能、縦書き、白黒反転、画面は大きい方がよい、というところだろうか。ブルートゥースやWIFI機能はいらない。うーーん、夢である。
しかし、その前に、DM30を店頭に並べてくれ!!。


# by isourou2 | 2018-07-03 23:43 | テキスト

昭和を語るー鶴見俊輔座談(晶文社 2015年)

上田馬の助、タイガージェットシン、ブルーザーブロディ、といったプロレスの悪役たちは、リング内で大暴れ、客席になだれ込んでも大暴れ、熱しやすく手に負えない。かに見えて、誰も怪我はしないし、客の反応に冷静かつ繊細であり、反則技を繰り出しても、何らかのドラマの落ちに向かっている。
ここで言うところの羽仁五郎である。
とある舞踏家の葬式後の宴会で、早く酒をもってこい、だの、故人の弟子たちをミソクソにくさしつつ、誰彼をお前呼ばわり、という大御所めいた人に会った。まわりは敬遠しつつ適当に受け流す。今時、こんな人が生きているのかと驚きつつ話を聞いていると満更でもなさそうだ。イスタンブールに建築の仕事で今から帰ると言っていたから大御所にはちがいないのだろうが、しかし、結局、何を言いたいのか今一つ分からなかった。
ここで言うところの羽仁五郎と鶴見俊輔である。

羽仁五郎といえば、何となく吉本隆明にコケにされていたな、くらいの印象しかない。どうも、吉本にコケにされていたことで自分にとって縁遠くなっている面白い人がそれなりにいるような気がする。
一方で、鶴見俊輔といえば、座談の名手ということになっている。同じ出版社からの全10巻の座談集もあるから、もしかすると、これはそのエッセンスなのかもしれない。というか、レアトラックなのかな。あまりにバラバラな選択で座談の多様さは感得できるが、なんかまとまった印象を結びにくい(全部読んでないけど)。そして、その中でも羽仁五郎が屹立している。鶴見俊輔は羽仁五郎の戦中から戦後の歩みを明らかにする目的をもって座談に臨んでいる様子だが、羽仁はそんなこと頓着せずに自説・持論を思いつくままに繰り広げる。鶴見が本題に引き戻そうとして、羽仁がえんえんと脱線する、という振り幅の大きい繰り返しがエンドレスに続くのが何か爽快である。デコボコ道をクッションの硬い車で猛スピードで走っているうちにどうでもよくなって万歳を叫びたいのに近い何か。
だいたい、羽仁は「~だろ。~じゃないか」という調子で通していて、対談でこんな話法はあまりない。いや、大島渚とか岡本太郎とかはそんな感じだったかもしれない。そして、押しが強いだけではなく、ところどころで「ぼくは、八月一五日に友だちがぼくの入れられていた牢屋の扉をあけて、ぼくを出してくるんだと思って、一日待ってたよ」などと憎めない発言が散りばめられている。鶴見も座談の進みゆきを懸念しつつも、そんな羽仁に寄り添うように発言している。基本的に、こういう壮大におっちょこちょいな人を好きなことが伝わってくる。なので、これは一種の掛け合い漫才である。漫才では笑うことの少ない自分だが、この対談の最後にはついに笑いがこみあげた。
長くなるが引用する。
羽仁「(略)西洋のことばにあるじゃないか、「光栄ある闘いが闘われていた、そのときおまえはそこにいなかった」。これは人生の最大の意義だ。光栄ある闘いが敗れたあとに、どこからか出てきて、ああだこうだと教えてくださってもナンセンスだ。光栄ある闘いが闘われていたら、必ず出てきたらいいじゃないか。人間はいっぺんしか生きない人生なんだから、おもしろいことがあったら出てきたらいいじゃないか。八月一五日くらいおもしろい日はちょっと来ないんだ。昭和二十年八月十五日、日本の敗戦の日に日本の革命の機会があったのだ。この機会をのがしたのだから、あとは次の機会をつかむしかない」
鶴見「いやあ、だからあのときわたしは出なかったから、その後出ずっぱりにでてますけどね(笑)」
羽仁「もうこのへんでいいじゃないか」
鶴見「いやもうちょっと、初期の、、、」
羽仁「いやもう結論は言ったよ(笑)。あれからあとはまだ歴史じゃないよ。あれまでが歴史だよ」
鶴見「いや、戦後史なのにいまやっと八月十五日になったばかりで(笑)」
羽仁「八月十五日が戦後のすべてであり、戦後のすべてがそこで決定されたんだ。あとは、次の八月十五日がいつ来るかだ」

# by isourou2 | 2018-03-18 23:32 | テキスト

私のもらった文学賞(トーマス・ベルンハルト みすず書房2014)

皮肉、悪口、嘲弄、シニカルさ、悲劇、悲惨、こういった類のものは、人生にスペースをつくるものでなくてはならない。ごてごてと人生を埋めたり、ベタベタと塗り込めるものであってはならないのである。トーマス・ベルンハルトのそれは、そういう意味で完璧である。彼は自分の人生のスペースをつくるために、これらの技法を矢継ぎ早に繰り出し防衛と攻撃に努めている。これは生の技法である。そして、それは読む者の生のスペースを拡張するものであって、一言でいえば、風通しを良くするものであるので、結果として、すっきりするのである。言葉の効果だけを信じて、言葉を信じないものが、つまりはあらゆる種類の広告代理店が生の領土を内側と外側から侵犯している現在にあって、知的な肉弾戦を営んでいるのがベルンハルトである。そして、そのことそのものが、ユーモアの源泉であり、そうでしかないのが現在を生きる運命であることを彼は示している。この本は、そんな広告代理店的なものとの衝突の極点である文学賞の受賞をめぐるエッセイ集である。だいたいは現実に押しつぶされかけ、キートンのような仏頂面で立ち尽くす。面白くないわけがない。この作家を読むのは、これが初めてであるのだが、たぶん、ビートたけしよりもジョニーロットンよりも、はるかに明晰であり、はるかに面白い。生の拡張のために、あらゆるものを手あたり次第に投げつけろ、そして仏頂面をキープせよ。オーストリアに行きたくなった。

PS.自分の属する組織が何か悪をなすとき、個人として取りうる態度は、その組織を変化させるよう試みるか、その組織をやめるか、どちらかである。ベルンハルトがこの本の最後を飾った、かの国の言語文学アカデミーの退会の辞のように。しかし、その組織を変化させることが難しくなることに比例して、やめることも困難になる。その組織が巨大な時、そのシステムが生活にくいこんでいる時、その概念が自然さを装っている時。だから、私たちは私たちを支え、包む、組織との関係において、悪に手を染めずにはいられない。それが現代をいきる人間の前提であって、そこにおいて、人は比較的倫理的であったり道徳的であったりもするだろうが、その幅はたいして広くはない。そのような時、人は何をなしうるだろうか。呆然と立ち尽くすか、無駄かもしれないが、土くれだろうが空き瓶だろうがそこらに転がっているものを無闇に投げつけるしかない。つまり、ベルンハルトである。

# by isourou2 | 2018-03-06 17:24 | テキスト

ポメラその2

http://isourou2.exblog.jp/25223868/でポメラのことを書いた。その続編である。
その文中でDM100について要望を書いた。
・バックライトをオフに出来るようにしてほしい。
ーポメラの最大の長所は目が疲れにくいことである。バックライトがなくても見やすい視認性こそが長所である。バックライトでどれほど目が疲労するか分からないが消せない限り使う気になれない。そもそもバックライトなくて困ることなどあんまりないと思う。

DM100はポメラ初の折り畳みではないストレートタイプのキーボード(つまり壊れにくいはず)、画面は大きくなり5.7インチ、1ファイル文字数は4万、各種辞書を掲載し、ブルートゥースあり(ファイル転送が楽、スマホのキーボートとしても使える)、そして、バックライト付き。
いいことづくめのようだが、最後が問題だ。パソコンではなくポメラを使うのは目にやさしいからというのが、強い動機である。その上、DM100のバックライトは消せなかった。
それが今年になって、ついにバックライトがオフにできるようになったのだ。アマゾンレビューの一言で気がついたのだが、本当ならもっと大騒ぎしていいことだろう。DM200という後続機が出ても、型落ちしたDM100の利用者のニーズに応えるメーカーの姿勢は素晴らしい。ブラボー、ということで、私は1万円くらいで中古のDM100を購入した。

しかし、結論から言えば、DM100のバックライトオフは残念!!!

DM100はとても画面自体が暗くて(黒くて)、蛍光灯で明かるい室内を除けば、ライトオフでは文字が非常に見えにくいのだ。自然光、やや薄暗い室内、などで使えない。
DM10では使用可能な光量であっても、DM100のライトオフでは無理。
バックライトをディフォルトにした機種に後から消せるようにしたから、こういうことになるのだろう。ライトのついていないDM10(DM20は捨ててしまったので比較できないが)画面の地の色がずっと明るい。DM100のメニュー画面にいたっては白黒反転のため、ライトオフでは極めてみにくい(というか見えないに近い)。
そして、やっぱりライトをつけると最低レベルにしてもDM100の画面は明るすぎる。
パソコンもスマホも最低光量にブルーライトカットフィルター使用という目のケア最優先の私からみての話ではあるが。つまり、ポメラなのにパソコンより目が疲れるということに他ならない。ポメラの意味ないじゃん。私にはありえない話である。DM200のように光量を細かく設定できればもう少し暗くできて、まだ目の負担は少ないかもしれないが、DM100の光量設定はアバウトすぎる。これでは、ライトをつけても消しても使いたくない。
もう一点、DM100の画面の開閉角度は145度である。DM10などの180度開く機種にくらべて、外光を画面に当てる自由度が低い。180度開くことによって、画面の視認性が向上する場合はけっこうあるのに、DM100ではそれが出来ない。

超期待して購入したから、落胆もまた激しい。結局はDM10を使用しているのである。そして、この極めて機能が限られている機種が、完成された製品であることを改めて感じている。画面は非常に見やすく、軽くて、キータッチだって悪くはない。とはいえ、DM100(そして200の)利便性はすごい進化だ。結局、バックライトがついたということが、DM100のネックである。そういう意味で、ATOKが賢くなったとしてもライトを消すことすらできないDM200に触手はのびない。あと、DM200はさすがに高すぎるだろう。DM200の不満点をついで書けば、バッテリーの充電時間が5時間というのもクイックチャージなどに対応させて、半分にしてもらいたかった。自分の用途では、ATOKの賢さとバッテリーがトレードオフならば、多少、変換がアレでも電池駆動がよかった。
開発者のインタビューなどによるとモノクロ液晶の入手に苦労されているということである。
そういう事情に疎いので勝手な要望なのかもしれないが、次機はディフォルトがライトオフで視認性抜群のポメラを開発していただきたい。なによりも目に優しいこと、携帯性、キーボードの打ちやすさ、がポメラの良さだと信じている。

追記1
結局、中古でDM20を買った。これで、今までのポメラ所有台数は計7台になる。アホかもしれない。思えば、数々のポメラが壊れて手元から去っていった。過去に手にした1台のDM10、3台のDM20が壊れた。もっとも、2台のDM20は貰い物で、もらった時から不具合があった。ポメラはとても繊細な商品なのだ。というか、壊れすぎだろ。キーが打ち込めなくなる、折りたたみキーボードの連結部が壊れる。あと、DM10とDM20は加水分解といって、湿気によって表面のコーティングが溶けてベタベタになる。これは、しばらくしまっていると起こるようだ。風とおしが悪いためか?。このベタベタをアルコールなどで拭き取る作業はかなり大変。中古のDM20も軽く加水分解を起こしていた。なので、本当は加水分解しないDM25が欲しかったが、中古市場にはなかなか出てこなくて高価なので諦めた。あと、DM10とくらべてDM20は画面の映り込みがほとんどないことに気がついた。

追記2
DM100をしばらく使用してみて、いくつかの利点を実感した。1つは、バックライト点灯時のQRコードの読み込みの良さである。DM20では、この読み込みにかなり苦労した。しかし、バックライトがついていると実に快適。次に、ブルートゥース。スマホとファイルの相互やりとりが出来るのは楽である(ESファイルマネージャー使用)。しかし、WIN10のパソコンでは、ファイルは認識せずキーボードとしてしかブルートゥースが利用できないようだ(USB接続すればいいだけだが)。3点目は、英語の辞書がとても便利である。
DM20を購入したので、こちらは手放そうと思っていたが、これらの利点のために思いとどまっている。具体的には、メール文(英文を含め)に使っている。
ただし、長文はDM20。やはりパソコンと比べてもDM100は目が疲れるのである。あと、キーボードの打鍵がDM20の方が若干深くて、個人的には打ちやすい。
DM100のブルーカットフィルムを見つけたので、これによって、多少でも刺激が改善されることを願っている。
あとは、もっと照度を落とせるソウトウェアをキングジムにぜひとも開発していただきたい。

追記3(2018・3・18)
結局、新たに購入した中古のDM20は使用不可になってしまった。まずは、いくつかのキーボードの入力ができなくなり、それを折り畳まないという手でどうにか乗り越え、だましだましの状態。しかし、電池消費が異状に早くなりお手上げ。何度も言うが、ポメラ、壊れすぎ!!!
そこで、再び、DM100を引っ張り出して使っている。悪くない。変換だって、DM20よりは多少ましになっている。これは完成形だろう。数字だって100と切りがよい。しかし、問題はやはりバックライトである。多少なれてきたが疲れるし、視差で目がチカチカすると言われればそういう気もする。でも、もうこれしか生きたポメラはない。そして、気づいたのだが、白黒反転ができれば、それほど目は疲れないだろう。これは声を大にしてキングジムにお願いしたいので、大文字で繰り返す。

DM100、バージョンアップで白黒反転をお願いしたい

あとは、バックライトの設定でもう少し暗くできるようにしてもらいたい。
白黒反転は、なぜかDM100だけ出来ないのだ。頼む!それで、ぼくは落ち着いてポメラに向かうことが出来るのだ。



# by isourou2 | 2017-08-07 17:24 | オブジェクト

私に構わないで(ハナ・ユシッチ 2016)

友人のSさんと映画を見に行った。精神障害者手帳を持っているSさんと一緒なら、ぼくも付き添いとして無料である。午前中に「Oさん、ヒマ?」と電話がかかってきて、ぼくもSさんに電話をしようかと思っていたところだったから、ちょうどいいといえばちょうど良かった。
会場であるフィルムセンターの1Fロビーには、座り心地のよいソファーがコの字型に並び、開場までの間、そこで待つことになっている。ぼくが14時すぎに行くと、Sさんは5人目くらいのところに座っていて「13時前にきた」と言っていた。すでにソファはほぼ埋まっていた。ほとんど人が静かに本などを広げている。警備員とSさんの声だけが大きい。Sさんは3日連続(はじめの日はぼくも一緒)で見に来ていた。
「ハリウッド映画とかじゃなくて、こういうあんまり誰も見ないような映画が好きなんですよ。ドキュメンタリーとか」とSさん。
Sさんは、ぼくより5歳くらい年上で絵を描いている。大柄のSさんがまじめな顔をすると厳しい芸術家のように見えなくもない。
「ブルースリーが好きだったんですよ。はじめて見た映画が「ドラゴンへの道」ですごく面白かったから、「燃えよドラゴン」を見に行こうとおもったら、一緒にやっているのが「エクソダス」だったからやめた。エクソダスって知ってる?」「知ってるよ。古典的なホラー映画。食い合わせが悪い2本立てだね」「ハハハ」とSさんが大声で笑う。「でも、後でエクソダス見たら面白かった」とSさん。警備員が「映画の料金を案内します」といって、いちいち細かくアナウンスをはじめた。
さらに「本日、上映後にNHKの取材が入っています。上映後にインタビューをさせていただくことがあります」と言う。Sさん、活気づいて「Oさん、NHKだって。テレビにでるチャンスだよ。有名になるよ」「テレビに出たいのはSさんでしょ」とぼく。Sさんは絵描きとして売りこんでテレビに出たことがある。しかし、ジャニーズのアイドルに「働けよ」などとコメントされた苦い経験がある。「テレビ出演は警戒しているんですよ」とトーンダウンするSさん。
警備員が「では、私に構わないで」と言ってから「入場をします。まず、はじめに身体障害の方でエレベーターを使う方は手をあげてください」。1人がよろよろと立ち上がる。警備員が自分に構わないで、と言ったようにも聞こえておかしかった。そのままゾロゾロと行列をつくって、階段をのぼって2Fにある上映場まで歩いていく。どことなく炊き出しみたいだ。Sさんにそう言うと「まきだし?」、3回言っても「ときだし?」と通じないのであきらめる。Sさんは、受付に手帳を差しだし「付き添い」とぼくを指さし、チケットを2枚受け取る。気持ちがチケット入手にむいていたSさんには、ぼくの言うことなどあまり耳に入らなかったのだろう。

映画は、嫌みばかりを言っている母親と強権的な父親と知的障害のありそうな兄、という家族の中で暮らしている女性の話だった。まだ10代に見える痩せた彼女(実際は20代半ば)は職場でも、とけ込もうという気持ちを持っていないし、冷たい関係が周囲を取り囲んでいる感じ。働いてない兄は妹に弁当を届けるのが日課で、二人の関係には多少気持ちが通じているのがホッとさせる。ある日、父親が脳卒中で倒れ不随になり、そこから少しずつ家族の関係が変化していく。70年代のシンセ音楽のような不気味な音響と省略が多く説明しすぎない映像で、飽きそうで飽きない。母親は、泳げない夫のために行くことができなかった海へ子どもたちを率いて遊びにいく。また、金銭的に一家を支える主人公は父親みたいにケチになり、兄を「なんで働かないの」と責める。主人公は、父親という抑圧が除かれたため、または、その父性の喪失を埋めるように、または「やせっぽち」と揶揄されている自分の一種の回復のように、ゆきずりの男たちと関係を結ぶ。兄は、「男なのに妹に叩かれて何ともないの」という近隣の声に呼応するかのように、ふしだらとされた妹を母親とともに殴打する。すべてのシーンにおいて、心理と出来事が有機的に関連していることが後になってみるとよく分かる。ラストはプールで、リハビリのために父親が看護士に付き添われてゆっくりと歩く。その脇を母親と兄がはしゃいでいる。主人公は潜水で達者な泳ぎである。

映画が終わって、トイレから出てみると、SさんがNHKの取材陣のまわりをうろうろと歩いていた。


# by isourou2 | 2017-05-31 20:32 | 映像


日々触れたものの感想をかきます。


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