心理(荒川洋治 みすず書房2005)
面白い詩の言葉に触れたい。そういう思いがたまに高まりをみせる。図書館で手あたり次第に詩集を開いてみる。ほとんどの詩集を、ぞっとして閉じる。今回、借りたのは、この「心理」と前に借りて全部読まなかったけど良かった川上未映子「水瓶」。名前を忘れたけど、解説を吉増剛増が書いている詩集。これも良いようだったけど、貸し出し数を超えるので借りられなかった。そもそも吉増さんが解説を書いている時点で、少しがっかりしたのだ。というのは、幾分、吉増さんの詩に近いから解説をしているわけで、吉増さんの詩に近いところがあるのならば、吉増さんの詩を読んだ方が大体はいいからだ。吉増剛増の70年代の詩集があれば、日本の現代詩はほとんど不要なのではないか、という気がする。もちろん、伊藤ひろみさんの詩は、吉増さんとはちがう領野において優れているのだし、他にもすばらしい詩集はあるのは知っているのだが、詩人ではないけど土方巽の言葉とかを除けば、まぁ無くてもそんなに困らないというか、吉増さんの70年代の詩でだいたい間に合うという感じがする。つまり、それをはっきり凌駕する広大な詩脈というのは現れていないように思うのだ。吉増さんの詩の書き方は、本質の近似値を叩きつづけることで読者を打ちのめすボクサーのようなやり方で、非常に圧力を持った高い打点ながら必殺の一撃ではないから、それが延々と続けられ(続き)、読者はほとんど頭をくらくらさせながらも疲労していくのが読書体験になる。必殺の一撃を求めながら、実は求めず、ずらしていくこのやり方は詩人としての体力が必要で、それにもっとも耐えたのが吉増さんで、やはり圧倒的である。本質を求めつつ求めないというのは、言葉を豊富にする。本質を求めるのは一語に結実するやり方である。その豊富さに耐ええるのも詩人の力量である。
いずれにせよ、言葉の打点が高いことが詩には必要で、だいたいが、たいていは1ページにおける文字数も少ないわけで、そこに俗に流れた言葉が書いてあると、その余白の白さ具合が目に刺さるようで、純化されるべき言葉の結果に表された作者の意識の低さがこちらに迫ってくるようで、いたたまれないから、ぞっとするのである。詩の言葉は、小説のように物語や文脈や事実などの道具になることで保護される割が少ないし、もちろん論文のような論理によって保護もされていないことが多いので、つまりはむき出しの言葉である。そのむき出しにされた裸の言葉たちは、様々な衣装によって粉飾されていない分、その美醜が問われざるえないし、そういうリングが詩の舞台なのである。
あまりにも前置きが長くなって疲れてきたけど、まだ途中までしか読んでいない「心理」と題された詩集には、そのような俗に流れた言葉はほとんど1つもないようだ。平俗な言葉で書かれているけど、おそらく慎重に、すぐに了解できるような言葉はほとんど省いている。
感情のあり方も了解できない。なんで、このようなことが書かれてあるのかもほとんど分からない。難解な言葉はないけど、それらの言葉の打点は見えなくて、どこを殴られているのか分からないけど不思議なダメージはある。というか、この詩集の体裁は一体なんだろう?。みすず書房という心理学や哲学や社会学などでなじみのある出版社から、それらの装丁と同じような感じで出されていて、荒川洋治という名前を知らなければ、心理学の本だと思わざる得ないだろう。そして、それが何を意図しているのかが分からない。隔絶したところにあって、意味は届かないけど厳然と存在する。この詩集の言葉もそうなのだけど、詩集の体裁も同じである。あとがきには、こうある。「心理は、ときどきの人の心からは、遠いものかもしれない。また、まわりにあるものをうけとめながら、うけいれない。そんな一瞬あるいは長引くものを、人はかかえることがある。題を「心理」とした。」なんとなく、え?と思わないだろうか。心理についての説明は、なぜこのような捉え方をしたいのか掴めないけど、まぁ意味は分からなくもないだろう。でも、なぜ題を心理としたのかは結局分からない。断言だけだ。しかし、この文章にしばらく留まってみると、にじむように了解してくるものがある。つまり、え?と思って次ぎの思案(ページ)に移らずに、え?を誘因としてそこに留まってみれば、何か了解されるものがある。そして、そのような機構はここに書かれてあることそのものであることに気づく。つまり、方法論の説明を、その方法論で書いていて、メタレベルがないために分かりにくい。メタレベルがないというのは、構造化していない(拒否している)ということで、この詩集の言葉も、そのように構造化する前の言葉も掬い取っているように思える。だから、これはシュールなものだとも言える。でも、いわゆるシュールリアリズムみたいな詩法とは違っている。強い自意識の表裏にある無意識から取り出され、結局は自意識の美醜のフィルターで濾過された言葉というよりも、ここでは他人の言葉や記号化された言葉が入ってきて、なんらかの内面での変形を受けたり、はっきりと形づくるに至らないような感情の泡立ちなどが、たゆたっているような場所に接続しようとしている。強い像を結ぶ前に立ち消えてしまうような言葉に留まろうとしている。非常に平明な明るさを持っているけど、それは<死>や<虚無>よりも<生命の枯渇>に近い。老境の詩である。ここには、本質を求める言葉も、そこからずらしていく言葉の連なりもない。枯山水に流れる水音に耳をすまし続けるような持続があり、そこにも異なった詩脈が存在していた。
*ちなみに、まだあまり読んでない。全部、読まなくても感想を書きたい時に書くことにしようと思う。だいたい、全部、読む本はほとんどない。
いずれにせよ、言葉の打点が高いことが詩には必要で、だいたいが、たいていは1ページにおける文字数も少ないわけで、そこに俗に流れた言葉が書いてあると、その余白の白さ具合が目に刺さるようで、純化されるべき言葉の結果に表された作者の意識の低さがこちらに迫ってくるようで、いたたまれないから、ぞっとするのである。詩の言葉は、小説のように物語や文脈や事実などの道具になることで保護される割が少ないし、もちろん論文のような論理によって保護もされていないことが多いので、つまりはむき出しの言葉である。そのむき出しにされた裸の言葉たちは、様々な衣装によって粉飾されていない分、その美醜が問われざるえないし、そういうリングが詩の舞台なのである。
あまりにも前置きが長くなって疲れてきたけど、まだ途中までしか読んでいない「心理」と題された詩集には、そのような俗に流れた言葉はほとんど1つもないようだ。平俗な言葉で書かれているけど、おそらく慎重に、すぐに了解できるような言葉はほとんど省いている。
感情のあり方も了解できない。なんで、このようなことが書かれてあるのかもほとんど分からない。難解な言葉はないけど、それらの言葉の打点は見えなくて、どこを殴られているのか分からないけど不思議なダメージはある。というか、この詩集の体裁は一体なんだろう?。みすず書房という心理学や哲学や社会学などでなじみのある出版社から、それらの装丁と同じような感じで出されていて、荒川洋治という名前を知らなければ、心理学の本だと思わざる得ないだろう。そして、それが何を意図しているのかが分からない。隔絶したところにあって、意味は届かないけど厳然と存在する。この詩集の言葉もそうなのだけど、詩集の体裁も同じである。あとがきには、こうある。「心理は、ときどきの人の心からは、遠いものかもしれない。また、まわりにあるものをうけとめながら、うけいれない。そんな一瞬あるいは長引くものを、人はかかえることがある。題を「心理」とした。」なんとなく、え?と思わないだろうか。心理についての説明は、なぜこのような捉え方をしたいのか掴めないけど、まぁ意味は分からなくもないだろう。でも、なぜ題を心理としたのかは結局分からない。断言だけだ。しかし、この文章にしばらく留まってみると、にじむように了解してくるものがある。つまり、え?と思って次ぎの思案(ページ)に移らずに、え?を誘因としてそこに留まってみれば、何か了解されるものがある。そして、そのような機構はここに書かれてあることそのものであることに気づく。つまり、方法論の説明を、その方法論で書いていて、メタレベルがないために分かりにくい。メタレベルがないというのは、構造化していない(拒否している)ということで、この詩集の言葉も、そのように構造化する前の言葉も掬い取っているように思える。だから、これはシュールなものだとも言える。でも、いわゆるシュールリアリズムみたいな詩法とは違っている。強い自意識の表裏にある無意識から取り出され、結局は自意識の美醜のフィルターで濾過された言葉というよりも、ここでは他人の言葉や記号化された言葉が入ってきて、なんらかの内面での変形を受けたり、はっきりと形づくるに至らないような感情の泡立ちなどが、たゆたっているような場所に接続しようとしている。強い像を結ぶ前に立ち消えてしまうような言葉に留まろうとしている。非常に平明な明るさを持っているけど、それは<死>や<虚無>よりも<生命の枯渇>に近い。老境の詩である。ここには、本質を求める言葉も、そこからずらしていく言葉の連なりもない。枯山水に流れる水音に耳をすまし続けるような持続があり、そこにも異なった詩脈が存在していた。
*ちなみに、まだあまり読んでない。全部、読まなくても感想を書きたい時に書くことにしようと思う。だいたい、全部、読む本はほとんどない。
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by isourou2
| 2016-11-13 00:20
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蜘蛛女のキス(プイグ 野谷文昭訳 集英社文庫1988 集英社1982)
夏風邪をひいた。昨日一日寝ていたら、だいたい直ったがまだ体がだるい。そして、昨日は日がな一日、この本を読んだ。昔、読んで面白かったのでブックオフで100円にて買ったものが本棚に並んでいた。数日前に何気なく手にとって少し読むとやはり面白いので、昨日でその続きを読み終えてしまった。頭痛で目の奥も痛いから、休み休み読んだが、それでも止めることが出来ないほどの傑作である。そもそもこの小説を読んでいる自分の状態が、この小説の設定と似ているところがあった。小説では牢獄で年長のゲイが若い革命家に語る映画のストーリーが1つの柱なのだが、そのような囚われた状況で他にすることがなく行われることが、寝床にいて他にすることがなく本を読んでいる自分に(もちろん牢獄と風邪では大違いにしても)似ているのだ。他にすることがない、という状態は日常の忙殺から離脱でもあって、それはそれで貴重な時間である。社会人が日常で小説を読む時間は、きっと電車の中や寝る前の数十分しかないだろう。社会人とは言い難いほとんど働いてないぼくにおいても同様だ。だから、病気の時というのは豊かな時間でもあるのだが、そういう意味でこの二人の強いられた時間もまた豊かである。小説というのは、人間性の回復、というか自分も人間であったことを思い出させる経験だ(ぼくは小説や映画でしか泣くことがない)という素朴な考えを最近を持っているのだが、それには(それが例え数分でもいいが)日常的な時間から離れる必要があり、つまりは読書という行為自体が小説の前提をなしているという当たり前の話でもあるが、翻ると日常がそんなに非人間的なのかといえばそうとも言えるが、経験というのはフレームがはっきりしているほど鮮明になるということでもある。結婚式や葬式、二人だけのデート、すべては(それが機能しているかどうかは分からないが)そのようなフレームであり、だから印象的になりうるのである。小説も映画もフレームである。そこから目をそらしたらもう何だか分からなくなるのだから。小説と映画のフレームのちがいはもちろん様々あるだろうが、1つは小説は明かりがないと読めず、映画が暗闇でないと見えないことである。話は逸れるが、最近はDVDやネット配信で映画を見るようになって必ずしも暗闇ではなくなっているが、ぼくは暗闇で見るのが映画だと未だに思っている。暗闇で見ることを考えて映画を作っている監督(それが何を意味するのか自分ながら不明瞭だが)少なくなっている気がする。この小説の中で映画のストーリーが語られるのは、たいていは就寝前である。だから、それは正しく映画的なのだ。ゲイである中年男にとって、暗闇の意味はそれこそ深いものがあるはずだろうし、暗闇だからロマンチックなのであり、彼が好きな映画もまた多かれ少なかれロマンチックで、また暗闇は人間の2面性を暗示もして、彼の語る映画もそのような2面性を巡る不安や葛藤を巡るものである。この小説の主人公の二人も相補的であり人間の2面性を表している。そして、この牢獄の中という限られた空間の中で、その2面性はある種の融合や和解に至り(言ってみれば)1つになるのだが、それ以外の空間(つまり日常)においてはそれは引き裂かれ破滅する(ここで思い出すのはジャン・ジュネのことである。何で彼が晩年になって革命闘争に積極的に参加したのかが気になってきた)。
粗を探せばあるのだが、それでもほとんど会話だけ(あとは文書と長い注)で構成するという思い切ったフレーミングで作られた見事な小説である。
*中年のゲイがノンケの男を落とすまでの手管についての小説でもあるのだが、蜘蛛は獲物を捕まえるために糸を張るのだが、一方では蜘蛛の巣によって蜘蛛自体も捕らわれているというのがこの小説では重要だろう。注におけるゲイを巡る分析的な理論の詳細な紹介(それはそれで整理されているもののような感じがしたのだが)は意図が掴みにくいが、そのためにあるのだと思う。
粗を探せばあるのだが、それでもほとんど会話だけ(あとは文書と長い注)で構成するという思い切ったフレーミングで作られた見事な小説である。
*中年のゲイがノンケの男を落とすまでの手管についての小説でもあるのだが、蜘蛛は獲物を捕まえるために糸を張るのだが、一方では蜘蛛の巣によって蜘蛛自体も捕らわれているというのがこの小説では重要だろう。注におけるゲイを巡る分析的な理論の詳細な紹介(それはそれで整理されているもののような感じがしたのだが)は意図が掴みにくいが、そのためにあるのだと思う。
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by isourou2
| 2016-08-06 21:10
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ポメラ
商品の感想。なんだか今までの流れから違和感があるが、作者の考えや気持ちが直接描かれているわけではないという意味では、実用書との距離はそうあるわけでもない。
ポメラというのは、文章入力に特化した超小型のワープロ(みたいなもの)である。電池で長時間駆動して、小さく軽くて、キーボードもそこそこ打ちやすい。なにより、目が疲れない。ぼくにとって、なくてはならない機械で、型こそちがうがすでに5台(うち3台は貰った。うち1台は壊れていた)所有してきた。文章を書くのに不要な機能がないので、作業しやすい(それだけ、ネットにはぼくには無用で有害な情報が多いということでもある)。
このような商品はキングジム社のポメラしかない。だから、ポメラに細かい不満はいろいろあれども頼るしかない。しかし、残念ながらポメラは故障が多い。電源が入らなくなり交換してもらったこともあった。キーボードが折り畳める機種(DM10、DM20など)は、入力できなくなるキーが発生しやすい。キーボードが一部おかしくなったDM20をドライヤーでガンガン熱するという荒技で復活させて(その代わり折り畳みはできない)から、2年ぐらい使ってきた。しかし、画面が割れた。さすがにもうダメである。兄から使っていないポメラを貰ったが、それもカーソルキーが一部入力できない。ドライヤーでも復活できなかった。相当に不便だが、それを今も(この文章も)使っている。
しかし、今日、キングジムのお客様相談室に電話して愕然とした。もう、修理のためのキーボードの在庫がないというのである。えーー!!
まだ大勢の人がポメラを使っているのに!!
最後の機種(DM25)から3年もたつのに、まだ新機種が出ていない。昨年12月に新商品を発表するというので、やっと新機種か、と期待したら、さえないモバイルパソコンだった。キングジムというのは、事務用品の中小企業であって、大手がしのぎを削っている機種を出しても勝ち目があるわけがない。評判も散々なものだった。また、DM100という1つ前の商品を除いて、ポメラは生産中止になっているという話だ。どういう理由か分からないが、こんなに愚かしい戦略はありえない。というか、困る。
折りたたみを廃したDM100というのは、かなり完成度の高い商品で、マイナーチェンジすれば絶対的なスタンダード商品になるのに決まっているのに、5年もやり過ごしている。ネット上には、改善点の要望もたくさんあがっている。これらの愛用者に応える商品をぜひ開発してほしい。しかし、キングジムの動きを見ていると、ポメラから撤退しようとしているのではないかという懸念が高まらざる得ない。困る!!!。ポメラは、たしかに今まで、ガンダムのシャアモデルとか、レーサーカーデザイナーの誰それモデルとか、とんちんかんな商品は出してきている。それでも、それはポメラであって、趣味は全く理解できないけど、小さな会社の遊び心として容認(というか無視)は出来た。しかし、撤退は論外である。心情としては、好きなバンドが突然解散する際のファンに近い。たしかに、流行におもねったような陳腐な音づくりをしたり、内輪な冗談の要素がつまらなかったり、場つなぎ的なカバーアルバムを出したり、スランプに陥ったりしていたが、それでもそのバンドであり、まだまだ良質の音楽を生み出せる潜在力があるのは明らかにもかかわらず、原因不明の解散。こっちのことも少しは考えたらどうだ!
キングジムは、DM100の後継機を出すべきである。折角、開拓し独占しているニーズと市場をほっぽらかすなど愚の骨頂である。
その際ぼくから要望は以下。(これらはDM100を買うのにためらう理由でもある)
・バックライトをオフに出来るようにしてほしい。
ーポメラの最大の長所は目が疲れにくいことである。バックライトがなくても見やすい視認性こそが長所である。バックライトでどれほど目が疲労するか分からないが消せない限り使う気になれない。そもそもバックライトなくて困ることなどあんまりないと思う。
・開きやすくする
ーひっかかりがなく開きにくいという指摘が多い。
・漢字変換を賢くする。
ーポメラ共通の最大の欠点は変換がそれほど賢くないということである。ぼくは実用許容範囲だとは思っているが、多くの人はイライラしていると思う。ポメラは実用機なのだから、こういう基本性能を向上させることに最大の努力を払うべきである。
・WINDOWS10正式対応
・画面サイズを少し大きくする
ー充分なのかもしれないが、どうも画面の左右の空いているスペースが気になる。
たぶん、これだけで十分よく売れる、そしてますます愛用される商品になる。キングジム、目を覚ませ!。
*ほかに要望としてはアンドロイド用の無料QRリーダーソフトを開発してほしい(I PHONEアプリはある)。現状では連続QRリーダーというアプリを使っているが、結合時に必ず改行になるなど使いにくい。
ポメラというのは、文章入力に特化した超小型のワープロ(みたいなもの)である。電池で長時間駆動して、小さく軽くて、キーボードもそこそこ打ちやすい。なにより、目が疲れない。ぼくにとって、なくてはならない機械で、型こそちがうがすでに5台(うち3台は貰った。うち1台は壊れていた)所有してきた。文章を書くのに不要な機能がないので、作業しやすい(それだけ、ネットにはぼくには無用で有害な情報が多いということでもある)。
このような商品はキングジム社のポメラしかない。だから、ポメラに細かい不満はいろいろあれども頼るしかない。しかし、残念ながらポメラは故障が多い。電源が入らなくなり交換してもらったこともあった。キーボードが折り畳める機種(DM10、DM20など)は、入力できなくなるキーが発生しやすい。キーボードが一部おかしくなったDM20をドライヤーでガンガン熱するという荒技で復活させて(その代わり折り畳みはできない)から、2年ぐらい使ってきた。しかし、画面が割れた。さすがにもうダメである。兄から使っていないポメラを貰ったが、それもカーソルキーが一部入力できない。ドライヤーでも復活できなかった。相当に不便だが、それを今も(この文章も)使っている。
しかし、今日、キングジムのお客様相談室に電話して愕然とした。もう、修理のためのキーボードの在庫がないというのである。えーー!!
まだ大勢の人がポメラを使っているのに!!
最後の機種(DM25)から3年もたつのに、まだ新機種が出ていない。昨年12月に新商品を発表するというので、やっと新機種か、と期待したら、さえないモバイルパソコンだった。キングジムというのは、事務用品の中小企業であって、大手がしのぎを削っている機種を出しても勝ち目があるわけがない。評判も散々なものだった。また、DM100という1つ前の商品を除いて、ポメラは生産中止になっているという話だ。どういう理由か分からないが、こんなに愚かしい戦略はありえない。というか、困る。
折りたたみを廃したDM100というのは、かなり完成度の高い商品で、マイナーチェンジすれば絶対的なスタンダード商品になるのに決まっているのに、5年もやり過ごしている。ネット上には、改善点の要望もたくさんあがっている。これらの愛用者に応える商品をぜひ開発してほしい。しかし、キングジムの動きを見ていると、ポメラから撤退しようとしているのではないかという懸念が高まらざる得ない。困る!!!。ポメラは、たしかに今まで、ガンダムのシャアモデルとか、レーサーカーデザイナーの誰それモデルとか、とんちんかんな商品は出してきている。それでも、それはポメラであって、趣味は全く理解できないけど、小さな会社の遊び心として容認(というか無視)は出来た。しかし、撤退は論外である。心情としては、好きなバンドが突然解散する際のファンに近い。たしかに、流行におもねったような陳腐な音づくりをしたり、内輪な冗談の要素がつまらなかったり、場つなぎ的なカバーアルバムを出したり、スランプに陥ったりしていたが、それでもそのバンドであり、まだまだ良質の音楽を生み出せる潜在力があるのは明らかにもかかわらず、原因不明の解散。こっちのことも少しは考えたらどうだ!
キングジムは、DM100の後継機を出すべきである。折角、開拓し独占しているニーズと市場をほっぽらかすなど愚の骨頂である。
その際ぼくから要望は以下。(これらはDM100を買うのにためらう理由でもある)
・バックライトをオフに出来るようにしてほしい。
ーポメラの最大の長所は目が疲れにくいことである。バックライトがなくても見やすい視認性こそが長所である。バックライトでどれほど目が疲労するか分からないが消せない限り使う気になれない。そもそもバックライトなくて困ることなどあんまりないと思う。
・開きやすくする
ーひっかかりがなく開きにくいという指摘が多い。
・漢字変換を賢くする。
ーポメラ共通の最大の欠点は変換がそれほど賢くないということである。ぼくは実用許容範囲だとは思っているが、多くの人はイライラしていると思う。ポメラは実用機なのだから、こういう基本性能を向上させることに最大の努力を払うべきである。
・WINDOWS10正式対応
・画面サイズを少し大きくする
ー充分なのかもしれないが、どうも画面の左右の空いているスペースが気になる。
たぶん、これだけで十分よく売れる、そしてますます愛用される商品になる。キングジム、目を覚ませ!。
*ほかに要望としてはアンドロイド用の無料QRリーダーソフトを開発してほしい(I PHONEアプリはある)。現状では連続QRリーダーというアプリを使っているが、結合時に必ず改行になるなど使いにくい。
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by isourou2
| 2016-05-13 00:06
日本人の英語はなぜ間違うのか?(マーク・ピーターセン 集英社インターナショナル2014)
英語学習の本を読むのが趣味となっている割には、実際の英語力はまるでないのでなんだか気恥ずかしい感じすらするのであるが、というか英語というものが日本人共有の恥ずかしさを喚起する装置になっているわけで、それは欧米との距離を位置づけかねている明治以来の歴史的過程に端を発している宿痾のようなもので、結局、何が言いたいのかというと、英語学習本の感想を書くという行為もまた一定の気恥ずかしさがあり、筆を進めるためには、何らかの前置きが欲しいということである。
前置きが終わったところで感想だが、マークさんの本のタイトルとしては躊躇がなくストレートである。マークさんのこれまでの著作は、氏の日本びいきというか偏愛ぶりが随所に現れていて、比較文化的な相対感の中で読み進められるのだが、今回は対象をバッサリと切り捨てている感がある。相手が氏が好きな(日本)映画とかではなく、中学英語教科書と大学生の英作文だからである。
これらの教科書で学習をしてきたことを思えば、ここで指摘されている数々には驚きを超えて次第に憂鬱、しまいには笑えてくる。しかし、少なくてもぼくらの頃の中学英語教師は、ネィティブとの会話経験などないような人たちばかりだった気がする。数年留学した最近の若者の方がずっと英語らしい英語を話している。当時先進的な教育方針を持つ学校だったために、ネィティブの教師が受け持つ授業がはじまり、ぼくの英語担任が彼女と全く英語で会話が出来ないことが分かった時はむしろかわいそうだった。そういうレベルなので、教科書がおかしいなどということが問題になりようもなかった。もっとも、そのネィティブ教師にしろ、歌うたった以外に何の印象もないが、おそらくきちんとしたカリュキラムも方法論もなく漠然と導入されただけだったろう。
しかし、未だに教科書がそんな感じだというのはマークさんでなくとも腹立たしくなる。学習指導要綱での文法事項制限の問題もあるにしても、それこそマークさんのような人をいれて、英文をチェックすればそれで多くの問題は回避できるはずだ。
で、気になるのは、中学英語教科書のテキストを元に作られている「英会話・ぜったい・音読」(国弘正雄)シリーズである。ぼくも全部持っているし一時期、割と一生懸命に取り組んだ。内容が所詮中学教科書なので飽きて身に付かなかったが、評価の高い教材として有名である。しかし、別の本でマークさんがおかしな英語会話として教科書から引用した部分が使われている。おそらく数多くのおかしな英文がそのままだろう。つまり、教科書の2次被害が参考書に及んでいる。それを気づかないこの本の著者もおかしいだろう。そもそも考えてみれば、このシリーズは、教科書の英文テキストと音声だけの内容で、何の解説も手引きもなく、ほとんどぼったくり商品ではないか。
それはともかく、教科書関係者は耳の痛い指摘ばかりだと思うが、ぼくとしては今さら教科書が正しくなってもどうでも良いという年齢ではあるので、マークさんの快刀乱麻の切りっぷりに次第に笑いがこみあげてきたのであった。
また、マークさんが実例としてあげている大学生の英文は、ぼくから見てもさすがに稚拙すぎるとは思う。大学受験の英文はかなり難しいものであるはずだから(昔の話なのだろうか)。でも、そんなものなのかもしれない。これでは、マークさんがうんざりしてしまうのも仕方ない。
もちろん、この本の趣旨はそれらの悪文を通して、英文の書き方のポイントを様々に解説することにある。これまでの本の重複とも言えるものがほとんど(新たな指摘もある)だと思うが、それでも、ある意味無駄な文化的語りが含まれていない分、ストレートで他著より読みやすいと思う。著者の日本文が上達していて、もうこれ以上はないくらいのレベルになっているためもあるだろう。これはすごいことだ。
英語は論理を大切にする(そこから見ると日本語は論理の飛躍が多すぎる)ことを述べた章において、添削されることによって文がどんどん無くなっていくことが印象的だったのだが、そういう観点からすると、おそらくこの感想もまたほんの数行になってしまうかもしれない。
前置きが終わったところで感想だが、マークさんの本のタイトルとしては躊躇がなくストレートである。マークさんのこれまでの著作は、氏の日本びいきというか偏愛ぶりが随所に現れていて、比較文化的な相対感の中で読み進められるのだが、今回は対象をバッサリと切り捨てている感がある。相手が氏が好きな(日本)映画とかではなく、中学英語教科書と大学生の英作文だからである。
これらの教科書で学習をしてきたことを思えば、ここで指摘されている数々には驚きを超えて次第に憂鬱、しまいには笑えてくる。しかし、少なくてもぼくらの頃の中学英語教師は、ネィティブとの会話経験などないような人たちばかりだった気がする。数年留学した最近の若者の方がずっと英語らしい英語を話している。当時先進的な教育方針を持つ学校だったために、ネィティブの教師が受け持つ授業がはじまり、ぼくの英語担任が彼女と全く英語で会話が出来ないことが分かった時はむしろかわいそうだった。そういうレベルなので、教科書がおかしいなどということが問題になりようもなかった。もっとも、そのネィティブ教師にしろ、歌うたった以外に何の印象もないが、おそらくきちんとしたカリュキラムも方法論もなく漠然と導入されただけだったろう。
しかし、未だに教科書がそんな感じだというのはマークさんでなくとも腹立たしくなる。学習指導要綱での文法事項制限の問題もあるにしても、それこそマークさんのような人をいれて、英文をチェックすればそれで多くの問題は回避できるはずだ。
で、気になるのは、中学英語教科書のテキストを元に作られている「英会話・ぜったい・音読」(国弘正雄)シリーズである。ぼくも全部持っているし一時期、割と一生懸命に取り組んだ。内容が所詮中学教科書なので飽きて身に付かなかったが、評価の高い教材として有名である。しかし、別の本でマークさんがおかしな英語会話として教科書から引用した部分が使われている。おそらく数多くのおかしな英文がそのままだろう。つまり、教科書の2次被害が参考書に及んでいる。それを気づかないこの本の著者もおかしいだろう。そもそも考えてみれば、このシリーズは、教科書の英文テキストと音声だけの内容で、何の解説も手引きもなく、ほとんどぼったくり商品ではないか。
それはともかく、教科書関係者は耳の痛い指摘ばかりだと思うが、ぼくとしては今さら教科書が正しくなってもどうでも良いという年齢ではあるので、マークさんの快刀乱麻の切りっぷりに次第に笑いがこみあげてきたのであった。
また、マークさんが実例としてあげている大学生の英文は、ぼくから見てもさすがに稚拙すぎるとは思う。大学受験の英文はかなり難しいものであるはずだから(昔の話なのだろうか)。でも、そんなものなのかもしれない。これでは、マークさんがうんざりしてしまうのも仕方ない。
もちろん、この本の趣旨はそれらの悪文を通して、英文の書き方のポイントを様々に解説することにある。これまでの本の重複とも言えるものがほとんど(新たな指摘もある)だと思うが、それでも、ある意味無駄な文化的語りが含まれていない分、ストレートで他著より読みやすいと思う。著者の日本文が上達していて、もうこれ以上はないくらいのレベルになっているためもあるだろう。これはすごいことだ。
英語は論理を大切にする(そこから見ると日本語は論理の飛躍が多すぎる)ことを述べた章において、添削されることによって文がどんどん無くなっていくことが印象的だったのだが、そういう観点からすると、おそらくこの感想もまたほんの数行になってしまうかもしれない。
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by isourou2
| 2016-02-07 01:29
| テキスト
闇市(マイク・モラスキー編 皓星社2015)
紙礫というアンソロジーの第一巻である。
編者のマイクさんはアメリカ人である。このような日本研究者、特に日本語が闊達な人に関心がある。いくら勉強しても外国語を習得できるような気がしない自分としては、ある種のスーパーマンに思えるのである。たとえば、瞽女の研究をしているジェラルド・グローマー 。マイクさんは前書き・解説とも日本語で書いているが、その筆力は達者な日本語ネィティブにひけをとらない。違和感がまるでないのである。前述のジェラルドさんは、その研究において外国人ということに焦点があたることについての苛立ちを書いていたと思う。日本文化の研究において、日本語が出来ることは必須の前提だろうし、そのことに関心が向かうこと自体が、研究内容を軽んじているようにも下駄をはかせた評価を思わせる差別的な意識の現れにも感じるだろうことは理解できる。しかし、それにしてもというところはある。ある意味、日本においてもマイナーである研究テーマの掘り下げとちょっと不思議なほどの日本語の熟達には関連があるように思う。たとえばマイク氏の場合、アメリカ文化への感じ方にその動機があるはずである。もっと言えば、どのような疎外感を母国の文化に持っているかということである。
この選集のチョイスはかなり優れていると思う。
既読のものは梅崎春生「蜆」くらいだった。全作品を通読して感じたのは、文体の豊かさ、そして会話の面白さである。からかい、冗談、機知、いじわるというものは論理でも事務的な手続きでもない。レトリックである。論理でも手続きでもない会話で物事が決まったり出来事が生起すること。これらのレトリックが効を奏するのは、相手の胸襟を掴みとるような、相手の体臭を嗅ぎ分けるような実際的な洞察が必要になる。つまりは、そのレトリックが相手の感情の琴線に触れなければならない。そしてそれは、論理や手続きがあやふやになっている場でこそ大きな力を発揮する。だから、闇市あるいは焼け跡的な状況で物をいうわけである。会話が多彩になれば、それは小説の文体にも影響を与える。つまりは、これらの文学が面白いのは、そのような状況にきっちり根ざしているためといえる。多くのストーリーは、他愛なかったり行き当たりばったりだったりする。バラック的と言ってもよい。しかし、この選集に載っている作品のどれもが油の乗っている書きっぷりである。現代日本の作品は、構成が練られていても平板なものが多い。権威や秩序が曖昧になって自分の力で生きていかないといけないような状況の中でのハッタリに近いような真実が文学の母体ではないかという結論に達するようである。
どの作品にも語るべきものはあるともないとも思うのだが(解説には選者による各作品ごとに寸評もある)先日、没したということで野坂昭如氏「浣腸とマリア」を取り上げる。
タイトルから作者が得意そうな糞尿譚を懸念するところだが(といっても野坂氏の作品を読むのははじめてだが)そうではない。そうではないが、ここで描かれているのはメタフォジカルな要素が強い同性愛と近親相姦である。それが、家族という場が壊れていくことと結びつけるように描かれている。そのことが説得力を持つのは焼け跡という背景があるからである。戦死した夫を持つ未亡人と息子、気丈な祖母という戦中の理想的な家族が、戦後、祖母は寝たきりの愚痴にまみれた老女になり、未亡人はにわかに生き生きと働きだし祖母をいじめるのを趣味にする女になる。祖母が食い意地ゆえに餅を喉に詰まらせて死ぬと祖母の語っていた勇敢な父の姿が息子の中に再帰的に甦り出す。母親が男を連れ込むことを契機にして、息子は家を出て結局は男娼になる。未亡人もまたパンパンになる。そして二人は出会い近親相姦へ。父親が同姓愛者であったという母親の告白と相まって、家族の解体の最終的な確認になっている(選者の「残るは真の母子である」というのは少し解釈が違うと思う。この作品は母親の息子に対する東京にでも行けという平静な言葉と息子の混乱で終わっている)。ここで描かれている人物は状況に対して受け身であることは拭いがたく、それは作者のユーモアの身振りの底に家族像の希求という案外保守的なものが眠っているためだと思う。
この選集の中では内的な論理によって上手く構成されている作品になると思うが、別にそれを焼け付け刃と捉えてもよく、先述したように作品の面白味はうねるような文体と会話の妙にある。文体・会話というもので変転する時代の鼓動と敏感に同期することが、本質的に求められている時期だったともいえ、極言すればそれぞれの物語はそのための動力源になれば良かったのだとも思う(石川淳「野ざらし」も同様な意味で成功している。)。ー注
この選集「闇市」には意外とアメリカの影は薄い(「軍事法廷」をのぞく)。主に、戦争という状況(敗戦という状況)が日本に住む人たちやその人たち同士の関係に与えた影響が描かれてある。次巻は同選者による「パンパン」だそうである。外国兵を対象にしたセックスワーカーである彼女らは当時の日本でアメリカなどの連合軍と直接的な関係を持っていた一群の人間であり、彼女らを通して物資が闇市に流れ、また日本に住む人たちの目には彼女らの振る舞いの中にアメリカが映って見えたにちがいない。
おそらく異文化の中でのアメリカ人の立ち現れ方を探求することによってアメリカ人としての自分を相対化することを内的にモチーフとして持つはずの選者のより問題意識を反映した内容に次巻がなるのではないかと期待している。
注ー戦後すぐに書かれたような感触をもった「浣腸とマリア」だが、1965年の作品だった。しかし、ここで記したことはこの作品の場合は妥当すると思う。それが、マイクさんのいう野坂氏の<戦中ー戦後ー高度成長後>の捉え方の連続性なのだと思う。また、このことは、1971年に発表されたチョンスンパク「裸の捕虜」には当てはまらない。この作品で重要なのは内容である。
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by isourou2
| 2015-12-16 19:55